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夏の残骸
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その時の僕は、愛結晶のことを忘れてはいなかった。
だから氷雨へのキスは賭けだった。
「ン……んんっ?」
固いものがぶつかる音が頭に響いて、微かな血の味が口に広がる。
少しして、氷雨の喉から吐息が漏れた。
「ぷあっ」と小さな音を上げて、氷雨が僕を突き放す。
「え、いやあの、よぎセン何して……えぇっ?」
「ちょっとは落ち着いた?」
「落ち着くどころかヒートアップっスよ! いやそれもおかしいけど」
真っ赤に火照った頬に手を当てて、氷雨がわたわたと慌てる。
逆効果かと思ったけど、一応僕の試みは成功したらしい。愛結晶の発作もなさそうだ。
氷雨の息が整うのを待って、僕は話を切り出す。
「辛い話はしなくていい。氷雨の気が少しでも楽になったら、僕がここにいる意味は十分にあるんだと思う」
氷雨はなにも答えない。
じっと上目遣いに僕を見つめて、しばらくしてからポツリと言った。
「て、なんスけど」
「え?」
籠って上手く聞き取れない。氷雨がキッと僕を睨み付けて叫ぶ。
「初めてっ、なんすよ! き、キス……っ」
「ああ、なるほど」
初めてのキスが血の味か。
「だとしたら申し訳ないな」と思いつつ、僕は自分自身を忘れていたことに気付く。
「そういや、僕もだ。ファーストキス」
「それは嘘でしょヤリチンのくせに!」
「いや、そっちも経験ないよ」
愛結晶を持つ僕は、恋愛の醍醐味と言われるもののほとんどを知らない。
みんな三ヶ月で死んでしまうし、付き合って三ヶ月以内にセックスに誘うほど僕の腰も軽くない。
「嘘だぁ、どんだけ奥手なんスか……」
アハハ、と氷雨が静かに笑う。
彼女の傷はきっと癒えない。けれど、暴走した時よりかはいくらか落ち着いて見えた。
「でも、そっかぁ。初めてが一緒って、なんか照れるなぁ」
「そうだな」
「嘘つけ余裕たっぷりのクセにぃ!」
それから僕らは、何を話すでもなく窓越しの雨を眺めていた。
遠くを過ぎる車の音が、雨音に混じって海鳴りに聞こえる。
雨に打たれる窓を眺めていると、ぴとっと手に触れるものがあった。
氷雨の手が、探るように僕の指先をなぞっていた。指に指を絡ませて、僕はポツリと言う。
「綺麗だな」
「外は雨っスよ」
「いや」
答える前にもう一度だけ、氷雨の横顔を眺める。
それから何気なく、けれど彼女に届く声で言った。
「氷雨だよ」
氷雨はそっと目を閉じて、それから小さく微笑む。
「……ズルいっすね。キスの時だけ、名前で呼ぶの」
氷雨は翌日の朝に帰っていった。
玄関で靴を履いた氷雨が、湿った瞳で僕を睨んでくる。
「あの……、アタシが泣いてたってこと、誰にも言わないでもらっていっスか」
「なんだ。氷雨、泣いてたのか」
柔らかな手を引いて氷雨を抱き寄せる。
じっとりとした氷雨の声が、胸元で篭もって響いた。
「知ってたクセに」
「わからなかったなあ。雨がうるさくて」
とぼけながら僕は笑う。
氷雨がうなりながら外に飛び出す。
廊下に溜まった水溜りをバシャリと踏みしめて、それから何もかも振り切ったような明るい声で、氷雨が叫んだ。
「そう、っスなぁ! 雨だからしゃーないっ!」
氷雨は笑っている。
涙も雨雲は、もう薄くなっていた。
だから氷雨へのキスは賭けだった。
「ン……んんっ?」
固いものがぶつかる音が頭に響いて、微かな血の味が口に広がる。
少しして、氷雨の喉から吐息が漏れた。
「ぷあっ」と小さな音を上げて、氷雨が僕を突き放す。
「え、いやあの、よぎセン何して……えぇっ?」
「ちょっとは落ち着いた?」
「落ち着くどころかヒートアップっスよ! いやそれもおかしいけど」
真っ赤に火照った頬に手を当てて、氷雨がわたわたと慌てる。
逆効果かと思ったけど、一応僕の試みは成功したらしい。愛結晶の発作もなさそうだ。
氷雨の息が整うのを待って、僕は話を切り出す。
「辛い話はしなくていい。氷雨の気が少しでも楽になったら、僕がここにいる意味は十分にあるんだと思う」
氷雨はなにも答えない。
じっと上目遣いに僕を見つめて、しばらくしてからポツリと言った。
「て、なんスけど」
「え?」
籠って上手く聞き取れない。氷雨がキッと僕を睨み付けて叫ぶ。
「初めてっ、なんすよ! き、キス……っ」
「ああ、なるほど」
初めてのキスが血の味か。
「だとしたら申し訳ないな」と思いつつ、僕は自分自身を忘れていたことに気付く。
「そういや、僕もだ。ファーストキス」
「それは嘘でしょヤリチンのくせに!」
「いや、そっちも経験ないよ」
愛結晶を持つ僕は、恋愛の醍醐味と言われるもののほとんどを知らない。
みんな三ヶ月で死んでしまうし、付き合って三ヶ月以内にセックスに誘うほど僕の腰も軽くない。
「嘘だぁ、どんだけ奥手なんスか……」
アハハ、と氷雨が静かに笑う。
彼女の傷はきっと癒えない。けれど、暴走した時よりかはいくらか落ち着いて見えた。
「でも、そっかぁ。初めてが一緒って、なんか照れるなぁ」
「そうだな」
「嘘つけ余裕たっぷりのクセにぃ!」
それから僕らは、何を話すでもなく窓越しの雨を眺めていた。
遠くを過ぎる車の音が、雨音に混じって海鳴りに聞こえる。
雨に打たれる窓を眺めていると、ぴとっと手に触れるものがあった。
氷雨の手が、探るように僕の指先をなぞっていた。指に指を絡ませて、僕はポツリと言う。
「綺麗だな」
「外は雨っスよ」
「いや」
答える前にもう一度だけ、氷雨の横顔を眺める。
それから何気なく、けれど彼女に届く声で言った。
「氷雨だよ」
氷雨はそっと目を閉じて、それから小さく微笑む。
「……ズルいっすね。キスの時だけ、名前で呼ぶの」
氷雨は翌日の朝に帰っていった。
玄関で靴を履いた氷雨が、湿った瞳で僕を睨んでくる。
「あの……、アタシが泣いてたってこと、誰にも言わないでもらっていっスか」
「なんだ。氷雨、泣いてたのか」
柔らかな手を引いて氷雨を抱き寄せる。
じっとりとした氷雨の声が、胸元で篭もって響いた。
「知ってたクセに」
「わからなかったなあ。雨がうるさくて」
とぼけながら僕は笑う。
氷雨がうなりながら外に飛び出す。
廊下に溜まった水溜りをバシャリと踏みしめて、それから何もかも振り切ったような明るい声で、氷雨が叫んだ。
「そう、っスなぁ! 雨だからしゃーないっ!」
氷雨は笑っている。
涙も雨雲は、もう薄くなっていた。
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