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僕ではない誰かへの言葉

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 散らかった教科書類を全て片付けて、クラスに謝罪することで教室は日常に戻った。
 どうやら僕は喧嘩に巻き込まれたと言う認識だったらしい。教科書をばら撒かれた彼等も、表向きは快く許してくれたように見えた。

「あの子、夜霧君の彼女じゃないの?」

 快く僕を許してくれた女子の一人が、氷雨の話を聞いて驚いていた。
 僕は必死に関係性を説明したけれど、あまりまともに受け取られなかったらしい。

「なし崩しはダメでしょ?」

 とのお叱りを受けて、僕は残りの授業中、ずっと考えていた。
 いや、考えるほどのことでもないのかもしれない。答えはとっくに出ている。氷雨も、僕も。
 キスすらしたことはないけれど、お互いに勘違いをしているのなら、それは恋と言ってもいい。だとすれば僕に足りないのは、覚悟だった。
 おかしな話だ。人は殺せても、僕に告白する覚悟はない。

「まったす~、なんでアタシまで反省文なんスか」

 帰りかけの陽が、アスファルトを焼いているような帰り道だった。
 僕らと氷雨はいつものように帰路をなぞっている。
 僕に寄り添うようにして歩く氷雨が、唇を尖らせてカバンを振り回す。

「アタシ何もしてなくないっスか?」
「ケンカっ早い僕を若に引き合わせただろ。火に油を注いだようなもんだ」

 しゃべるたびに痛む鼻に顔をしかめる。
 骨に異常はないようだが、鼻血がしばらく止まらなかった。若も遠慮のないことだ。
 僕がカバンを避けると、氷雨はクルクルと余分に回って、それを止めてから胸を張った。

「でも、結果大人より早く鎮火させたっスよ」
「それは間違いない。えらい」
「えっへん。もっと褒めやがってください」

 言いながら、氷雨は頭を押し付けてくる。
 数歩ためらうように歩いてから、ワインレッドの髪に手を這わせた。
 くすぐったそうに囁く笑い声の隙間から、少しだけハスキーな声な聞こえる。

「でも、なんかいーっスね。あーゆーの」
「何のこと?」
「よぎセンとヤンキー先輩、派手にバトってたじゃないスか。あーゆーの、なんか素敵っス」
「そうかな。殴られた僕にはさっぱりだ」

 おかげで向こう二日は顔の痛みに耐えなければならない。
 氷雨は体の後ろで手を組むと、僕の前を走っていく。

「そういうものっスよ。アッシも、決心付きました」

 氷雨はトトっと小さく走って、僕に振り向く。
 夕焼けと僕の間の、ちょうど夜が滲んだ所だった。

「言葉は伝えるためにあるものです」

 暮れた陽で影になった氷雨の笑顔が、その輪郭をぼやけさせる。なんだか妙な胸騒ぎがした。僕は立ち止まる。緋色に沈む視界を細める。
 歩く振動すら、彼女の本当の表情を歪んで見せているような気がした。
 すぐそばの木立で鳴いたセミの音に混じって、ゆったりと呼吸する息遣いが聞こえた。

「何してんスか、よぎセン?」

 氷雨が夕暮れの深いところから、僕に近付いてくる。
 少しずつ彼女の表情が見え始めた時、僕の手は冷たい手のひらに包まれていた。

「行きましょ。実は今日、寄るところあるんスよ」
「寄るところって?」

 氷雨が細い指先を顎に当てて、いたずらっぽく笑ってみせた。

「河川敷っスよ。よぎセンちの近くの」

 その表情に、取り立てて胸をくすぐるものはない。はずだ。

「君の家からは遠いぞ?」
「はい。でも寄りたいんスよ」
「どうして」
「理由が必要っスか?」
「いや、別に」

 ただ、河川敷に行きたいと答える前のポーズが気になっただけだ。

「じゃー、行きましょー。兵は神速を尊ぶものっスよ」
「君ちょくちょく軍人になるよね、古めの」

 たしか以前は、古代ギリシア兵だった。 
 彼女に連れられながら、普段は寄らない河川敷に向かう。
 道中ずっと、氷雨の意図について考えていた。
 河川敷には特別面白いものも、写真映えするようなものもない。
 川が流れている。その両岸にはテニスコートと、半面だけのサッカーコートがそれぞれ整備されている。対岸の住宅街にはパチンコ屋も見える。
 ただそれだけだ。コンクリート色の日常は、流れることなく停滞している。
 わざわざ理由を伏せてまで、近所に住む僕を連れていく必要はあるのだろうか?
 その答えは、河川敷について輪郭を持つことになる。
 
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