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彼女の傷が怖いなら

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 笠原芽衣花の涙を、僕らは見たことがない。
 いつも凛とした顔で僕らを叱りつけ、困っている人には笑顔で手を差し伸べる。
 もしも本当にヒーローなんて奴がいるのなら、きっと芽衣花にこそ相応しい称号だと思う。
 けれど裏を返せば、それは強くなければいけないという呪いでもある。それほどまでに涙が似合わない少女だった。
 初めてタバコを吸った日の涙だって、その流れる所を僕は見てはいない。あえて見なかった。

 きっと彼女が心置きなく涙を流すのは、若との関係に区切りがついた時なんだろうと思っていた。どうかその時は、彼女が心の底から笑顔になれるようにと願っていた。
 けれど淡い希望の大半は、ロクでなしの現実を前に崩れ去るものだ。
 僕はその日、初めて本気で若を殴り飛ばすことになる。

 *

 始まりはいつもと同じ、下らないままごと遊びだった。
 芽衣花が若を叱って、若が気だるげにそれを受け流す。見慣れた光景だ。
 けれどその日はいくつかの小さな特異点が重複して存在していた。
 まず一つに、若が苛立っていること。
 彼は僕と氷雨の仲をあまり良く思っていないらしい。親ですらない立場から口を挟むほど弁えのない男ではないから、口には出さない。
 けれど僕の理想を知っている彼にとって、自分とは正反対に恋をする僕は憎らしいことだろう。

 二つ目に、芽衣花のストレスが限界に達していたこと。
 ずっと片想いしているのに、若の遊び相手ばかり見せつけられる苦痛は、ほんの少しの想像だけでも胸が痛む。

 そして最後は、僕がいないことだ。
 氷雨と交際を続ける仲で、薄汚れた僕の日常にも変化が見られた。昼休みを若や芽衣花と過ごさず、氷雨と過ごすようになったのだ。
 別にそれも、今回が特別なわけではない。
 これまでも恋人がいる期間は二人と距離を取っていたし、僕がいなくても二人の仲を引き裂くような喧嘩はなかった。仲裁役の僕を欠いた二人の間には、休戦協定じみた心理的なストッパーがあるのだろう。
 つまりその日二年三組の教室で起こった乱闘は、ありふれた小さな不幸がほんの少し重なっただけの出来事だった。
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