54 / 119
観覧車の終点、中天の星
4
しおりを挟む
*
氷雨とは彼女のアパートの前で別れた。
以前彼女が訪れた時には遠いと聞いていた家も、想像よりは遠くない。距離にして三キロも離れていなかったから、歩いて家まで送っていた。
「じゃあ、よぎセンが帰る頃にはメッセ送れてると思うんで」
「わかった。たぶん何があっても、僕は鼻で嗤うだろうさ」
「ちゃんと返信はしてくださいよ」
氷雨が唇を尖らせる。
それから思いついたように僕を見上げた。
「さてさて夜霧先輩。アタシたちはここで今日はお別れな訳ですが」
「ああ。次は学校で、だよな」
ちっちっち、とたおやかな指先がコミカルに揺れた。
氷雨の唇がにゅっと突き出される。僕は意図が読めずに混乱した。
「タコ……?」
「ぶっとばしますよ朴念仁。ちゅうっスよ、ちゅう!」
氷雨がぽかりと僕を叩く。
力の抜けた、縋りつくように弱弱しい手が僕の胸元を伝う。
扉を背に、繊細な造りの顔は伏せられていた。僕はその顔を覗き込もうとはしなかった。
視界の端では、宵の明星が瞬いている。
長い時間を沈黙で語って、氷雨はもう一度僕を見上げた。
「アタシ、勘違いしてもいいっスよね。今日の、デート」
彼女の声は震えて、消え入りそうなほど霞んでいた。
きっと暑い夏でも、震える夜はあるのだろう。だったらせめて、素敵な夢を見られたらいい。僕は彼女の肩にそっと手を置く。
まだ蒸し暑い夏夜の奥で、見たこともない虫がジーと鳴いている。単調な音は古い映写機のようだった。
演目の一つが終わって、途絶えて、また再開して。ちょうど誤魔化してしまった恋心のように。
そっと胸元に彼女の頭を押し付けて、細い体の震えに寄り添っていた。
「返信。楽しみにしてますから」
濡れた声が胸元で曇っていた。
僕は笑って、同じくらいの小さな声でうなずく。
「ああ、わかった」
そうして五分ほど、僕らは体温を共有してから別れた。
空から宇宙が降ってきたような、暗い夜のことだ。
僕はその日、ヒーローが怪物になった瞬間を知ることになる。
街灯のほとんどない、夜の暗いところを歩いていく。
少ない光源は家の灯りと、口元をぼんやりと照らす咥えタバコだけ。想定外の遭遇もあって、出来るだけ広い道を通って帰る。
家につく頃、氷雨からメッセージがあった。
長い文章だ。けれど何度も推敲して投函した手紙のように、とても丁寧に書かれている。
寝間着に着替えてからタバコを取り出して、僕はメッセージを開く。
文面は今日のお礼から始まっていた。
《今日は有り難う御座いました。楽しかったです。本気で水族館の飼育員目指してみようかな、とか思っちゃったりしました》
ふと、彼女に手紙を書いてみたいと思った。
氷雨がどんな字を書くのか、苦手な漢字はあるのか。言葉使いから漂う空気感は暖かいのか、冷たいのか。その一つ一つを噛み締めて、彼女と手紙のやり取りをしてみたかった。
《それで、ここからが本題。アタシが人殺しになった原因の、同級生の話です》
ページを下に送ると、本題に入る。
氷雨が自殺させた男子生徒について。その書き出しは簡潔にまとめられていた。
《アタシは彼が死んでいくのを、ずっと眺めていました》
始まりは入学式の後でした、と文章は続く。
これは長く、丁寧で、だからこそ吐き気を催すような英雄譚だ。
変身も必殺技も使えないヒーローがいたとしたら、行き着く先は悲劇しかない。
氷雨とは彼女のアパートの前で別れた。
以前彼女が訪れた時には遠いと聞いていた家も、想像よりは遠くない。距離にして三キロも離れていなかったから、歩いて家まで送っていた。
「じゃあ、よぎセンが帰る頃にはメッセ送れてると思うんで」
「わかった。たぶん何があっても、僕は鼻で嗤うだろうさ」
「ちゃんと返信はしてくださいよ」
氷雨が唇を尖らせる。
それから思いついたように僕を見上げた。
「さてさて夜霧先輩。アタシたちはここで今日はお別れな訳ですが」
「ああ。次は学校で、だよな」
ちっちっち、とたおやかな指先がコミカルに揺れた。
氷雨の唇がにゅっと突き出される。僕は意図が読めずに混乱した。
「タコ……?」
「ぶっとばしますよ朴念仁。ちゅうっスよ、ちゅう!」
氷雨がぽかりと僕を叩く。
力の抜けた、縋りつくように弱弱しい手が僕の胸元を伝う。
扉を背に、繊細な造りの顔は伏せられていた。僕はその顔を覗き込もうとはしなかった。
視界の端では、宵の明星が瞬いている。
長い時間を沈黙で語って、氷雨はもう一度僕を見上げた。
「アタシ、勘違いしてもいいっスよね。今日の、デート」
彼女の声は震えて、消え入りそうなほど霞んでいた。
きっと暑い夏でも、震える夜はあるのだろう。だったらせめて、素敵な夢を見られたらいい。僕は彼女の肩にそっと手を置く。
まだ蒸し暑い夏夜の奥で、見たこともない虫がジーと鳴いている。単調な音は古い映写機のようだった。
演目の一つが終わって、途絶えて、また再開して。ちょうど誤魔化してしまった恋心のように。
そっと胸元に彼女の頭を押し付けて、細い体の震えに寄り添っていた。
「返信。楽しみにしてますから」
濡れた声が胸元で曇っていた。
僕は笑って、同じくらいの小さな声でうなずく。
「ああ、わかった」
そうして五分ほど、僕らは体温を共有してから別れた。
空から宇宙が降ってきたような、暗い夜のことだ。
僕はその日、ヒーローが怪物になった瞬間を知ることになる。
街灯のほとんどない、夜の暗いところを歩いていく。
少ない光源は家の灯りと、口元をぼんやりと照らす咥えタバコだけ。想定外の遭遇もあって、出来るだけ広い道を通って帰る。
家につく頃、氷雨からメッセージがあった。
長い文章だ。けれど何度も推敲して投函した手紙のように、とても丁寧に書かれている。
寝間着に着替えてからタバコを取り出して、僕はメッセージを開く。
文面は今日のお礼から始まっていた。
《今日は有り難う御座いました。楽しかったです。本気で水族館の飼育員目指してみようかな、とか思っちゃったりしました》
ふと、彼女に手紙を書いてみたいと思った。
氷雨がどんな字を書くのか、苦手な漢字はあるのか。言葉使いから漂う空気感は暖かいのか、冷たいのか。その一つ一つを噛み締めて、彼女と手紙のやり取りをしてみたかった。
《それで、ここからが本題。アタシが人殺しになった原因の、同級生の話です》
ページを下に送ると、本題に入る。
氷雨が自殺させた男子生徒について。その書き出しは簡潔にまとめられていた。
《アタシは彼が死んでいくのを、ずっと眺めていました》
始まりは入学式の後でした、と文章は続く。
これは長く、丁寧で、だからこそ吐き気を催すような英雄譚だ。
変身も必殺技も使えないヒーローがいたとしたら、行き着く先は悲劇しかない。
2
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【完結】雨上がり、後悔を抱く
私雨
ライト文芸
夏休みの最終週、海外から日本へ帰国した田仲雄己(たなか ゆうき)。彼は雨之島(あまのじま)という離島に住んでいる。
雄己を真っ先に出迎えてくれたのは彼の幼馴染、山口夏海(やまぐち なつみ)だった。彼女が確実におかしくなっていることに、誰も気づいていない。
雨之島では、とある迷信が昔から吹聴されている。それは、雨に濡れたら狂ってしまうということ。
『信じる』彼と『信じない』彼女――
果たして、誰が正しいのだろうか……?
これは、『しなかったこと』を後悔する人たちの切ない物語。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
古屋さんバイト辞めるって
四宮 あか
ライト文芸
ライト文芸大賞で奨励賞いただきました~。
読んでくださりありがとうございました。
「古屋さんバイト辞めるって」
おしゃれで、明るくて、話しも面白くて、仕事もすぐに覚えた。これからバイトの中心人物にだんだんなっていくのかな? と思った古屋さんはバイトをやめるらしい。
学部は違うけれど同じ大学に通っているからって理由で、石井ミクは古屋さんにバイトを辞めないように説得してと店長に頼まれてしまった。
バイト先でちょろっとしか話したことがないのに、辞めないように説得を頼まれたことで困ってしまった私は……
こういう嫌なタイプが貴方の職場にもいることがあるのではないでしょうか?
表紙の画像はフリー素材サイトの
https://activephotostyle.biz/さまからお借りしました。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
初愛シュークリーム
吉沢 月見
ライト文芸
WEBデザイナーの利紗子とパティシエールの郁実は女同士で付き合っている。二人は田舎に移住し、郁実はシュークリーム店をオープンさせる。付き合っていることを周囲に話したりはしないが、互いを大事に想っていることには変わりない。同棲を開始し、ますます相手を好きになったり、自分を不甲斐ないと感じたり。それでもお互いが大事な二人の物語。
第6回ライト文芸大賞奨励賞いただきました。ありがとうございます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる