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悪疫は取り除かれなければならない。
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右の頬を照らせば左の頬が暗くなるように。誰かに優しくするということは、誰かに冷たくするたいうことだ。
本当の意味でお幸せな人間は、それが理解できない。
けれど、氷雨が幸せであるようには見えなかった。
「お疲れだな」
「へ? あぁ、はい」
マヌケな顔で氷雨が頷く。
けれどすぐにまたにへらと笑って、「ありがとござっすー」と言った。けれどその顔には疲れの色が乗っている。
「違う、労ったんじゃない」
噛み締めた奥歯がギリリと鳴って、その音の不快感でまた怒りが込み上げる。
疲れてまで追うものが優しさなら、そんなの今の世界となんら変わりがないじゃないか。
「多分、氷雨の優しさは手段じゃないんだよ」
「どゆことっすか?」
どんな人間でも、親切には理由がいる。
「助けた場合、この人はどうなるのか」と言う想像がなければ、それはただの押し付けだ。
「例えば、友達とケンカして落ち込んでる奴がいたらどうする?」
「んー、愚痴を聞くっスね」
「どうして?」
「はぇ、どうして、って……」
氷雨は顎に手を当てて考えていた。けれど、しばらく待っても答えは出ない。それが答えだ。
「鬱憤を晴らすためとか、仲直りを勧めるためとか。そんな感じなんだよ、基本的には」
「ああ、それっス!」
嘘つけ答えパクったろ。
無視して言葉を投げつける。
「君はたぶん、優しくするのが目標なんだよ」
そこから先がどうなろうと、知ったこっちゃない。
気の抜けた氷雨の顔が、段々と苦い笑みに歪んでいく。それでも僕は続ける。
「なんでそこまでして優しくする必要があるんだ?」
氷雨は何かを思い出すように、僕の言葉を聞いていた。
しばらくの沈黙。それから、ゆっくりと笑顔を作って。
「そこは、そっとしといて、くんないッスかね……?」
氷雨は微かに声を震わせた。
「悪かった、踏み込みすぎた」
その先を聞こうとはしなかった。
答えは得ている。氷雨を殺すのだって変わらない。
彼女も僕も優しい世界を目指していて、けれどその手段や想いだけが面白いようにすれ違っている。
悲しいけれど、それで十分だった。
それからしばらく取り留めもない話をした。
学生結婚した先輩や愛結晶の噂、社会科教師が社会の窓全開で授業をしていたこと。
気を取り直したように話す氷雨は、何も知らなければ楽しげに見えて。けれどその理想と疲れた表情を知ってしまった僕には、ただのカモフラージュにしか見えなかった。
「そだ、謹慎中外出れないし不便ッスよね」
外はもう暗い。帰り支度を始めた彼女に続いて立ち上がると、牽制するように氷雨が言った。
「外、出ちゃダメッスもんね? ね?」
「わかってるよ、出ないし、出たこともない」
「まだ一日目ッスけど~?」
スッと細まった目が流れてくる。「もった方だよ」と答えて、タバコを咥えた。
「ま、そんなお外出れないよぎセンのためです。JKのライン、教えたげますっ」
「まだ大丈夫だよ。パシリにしたくない」
「またまた~、JKブランドっスよ?」
「だったら学校は量販店だ」
「アッハ確かに~!」
じゃ、何かあったら呼んでください。
下らない会話と連絡先を残して、氷雨は帰っていく。
肩にかけたエナメルバッグを軋ませて、玄関に立つ。振り返ったヘーゼルで僕を見上げる。
「結局、お礼の話はさせてくれなかったっスね」
「そうだっけ?」
「そーっスよ。だから「どうせそんな事なんだろうなー」と思って、先にお礼済ませちゃいました」
「先に?」
「はい」と笑って、彼女は扉を開けた。マジックアワーが玄関口を覗いていた。
「明日は学校、来てくださいねっ」
「はっ?」
予想しなかった言葉にマヌケな声を返す。氷雨がいたずらな笑顔で言った。
「謹慎は取り消しです。バツとして、放課後プール清掃の刑になりましたー!」
バツなのか、恩赦なのか。よくわからないことを言って彼女は帰っていく。
せめてそこまで、とか。どういう意味だ、とか。尋ねる暇もなく扉が閉まった。
僕が灰色の日常に帰るより前に、置き去りにしたスマホが呼び出し音を奏でる。
着信画面に表示されていたのは、《恋愛初心者》の文字だった。
本当の意味でお幸せな人間は、それが理解できない。
けれど、氷雨が幸せであるようには見えなかった。
「お疲れだな」
「へ? あぁ、はい」
マヌケな顔で氷雨が頷く。
けれどすぐにまたにへらと笑って、「ありがとござっすー」と言った。けれどその顔には疲れの色が乗っている。
「違う、労ったんじゃない」
噛み締めた奥歯がギリリと鳴って、その音の不快感でまた怒りが込み上げる。
疲れてまで追うものが優しさなら、そんなの今の世界となんら変わりがないじゃないか。
「多分、氷雨の優しさは手段じゃないんだよ」
「どゆことっすか?」
どんな人間でも、親切には理由がいる。
「助けた場合、この人はどうなるのか」と言う想像がなければ、それはただの押し付けだ。
「例えば、友達とケンカして落ち込んでる奴がいたらどうする?」
「んー、愚痴を聞くっスね」
「どうして?」
「はぇ、どうして、って……」
氷雨は顎に手を当てて考えていた。けれど、しばらく待っても答えは出ない。それが答えだ。
「鬱憤を晴らすためとか、仲直りを勧めるためとか。そんな感じなんだよ、基本的には」
「ああ、それっス!」
嘘つけ答えパクったろ。
無視して言葉を投げつける。
「君はたぶん、優しくするのが目標なんだよ」
そこから先がどうなろうと、知ったこっちゃない。
気の抜けた氷雨の顔が、段々と苦い笑みに歪んでいく。それでも僕は続ける。
「なんでそこまでして優しくする必要があるんだ?」
氷雨は何かを思い出すように、僕の言葉を聞いていた。
しばらくの沈黙。それから、ゆっくりと笑顔を作って。
「そこは、そっとしといて、くんないッスかね……?」
氷雨は微かに声を震わせた。
「悪かった、踏み込みすぎた」
その先を聞こうとはしなかった。
答えは得ている。氷雨を殺すのだって変わらない。
彼女も僕も優しい世界を目指していて、けれどその手段や想いだけが面白いようにすれ違っている。
悲しいけれど、それで十分だった。
それからしばらく取り留めもない話をした。
学生結婚した先輩や愛結晶の噂、社会科教師が社会の窓全開で授業をしていたこと。
気を取り直したように話す氷雨は、何も知らなければ楽しげに見えて。けれどその理想と疲れた表情を知ってしまった僕には、ただのカモフラージュにしか見えなかった。
「そだ、謹慎中外出れないし不便ッスよね」
外はもう暗い。帰り支度を始めた彼女に続いて立ち上がると、牽制するように氷雨が言った。
「外、出ちゃダメッスもんね? ね?」
「わかってるよ、出ないし、出たこともない」
「まだ一日目ッスけど~?」
スッと細まった目が流れてくる。「もった方だよ」と答えて、タバコを咥えた。
「ま、そんなお外出れないよぎセンのためです。JKのライン、教えたげますっ」
「まだ大丈夫だよ。パシリにしたくない」
「またまた~、JKブランドっスよ?」
「だったら学校は量販店だ」
「アッハ確かに~!」
じゃ、何かあったら呼んでください。
下らない会話と連絡先を残して、氷雨は帰っていく。
肩にかけたエナメルバッグを軋ませて、玄関に立つ。振り返ったヘーゼルで僕を見上げる。
「結局、お礼の話はさせてくれなかったっスね」
「そうだっけ?」
「そーっスよ。だから「どうせそんな事なんだろうなー」と思って、先にお礼済ませちゃいました」
「先に?」
「はい」と笑って、彼女は扉を開けた。マジックアワーが玄関口を覗いていた。
「明日は学校、来てくださいねっ」
「はっ?」
予想しなかった言葉にマヌケな声を返す。氷雨がいたずらな笑顔で言った。
「謹慎は取り消しです。バツとして、放課後プール清掃の刑になりましたー!」
バツなのか、恩赦なのか。よくわからないことを言って彼女は帰っていく。
せめてそこまで、とか。どういう意味だ、とか。尋ねる暇もなく扉が閉まった。
僕が灰色の日常に帰るより前に、置き去りにしたスマホが呼び出し音を奏でる。
着信画面に表示されていたのは、《恋愛初心者》の文字だった。
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