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スベリダイ
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藤堂智樹は、部屋の壁に頭をぶつけるような形でうなだれていた。
原因は、幼馴染の野々村倫人と組んだ漫才コンビ『砂場』で出演したライブで、あり得ない滑り方をしてしまったためだ。砂場を組んだのは、キッカケは野々村が大学受験に失敗したことだった。元々お笑いの道に進むことを決めていた藤堂は、浪人するかどうか悩んでいた野々村に声をかけ、2人でお笑い界に飛び込んだ。
当然の話だが、お笑いの世界はかなり厳しく、結成から3年経過した現在、何度かテレビに出る機会こそあったものの同期の中でも、知名度人気共に最下位とも言われる程の状況が続いていた。半年後に開催される漫才の大会で決勝まで進めば、一気にブレイクすることも夢ではないと頑張ってきたが、小さな箱のライブですらボケを担当する藤堂は大滑りをしてしまった。
「智樹、ごめん。おれがあそこから盛り返すことができれば」
「倫人のせいじゃない。俺がふがいないせいだ」
藤堂は、声をかけてきた野々村をはねのけ「一人になりたいから」と、トイレに向かった。今回のライブは複数のコンビが出演する合同ライブ。楽屋は他の出演者やスタッフもいる。さらに、楽屋にいると他のコンビが笑いを取っている声が聞こえてくる。そんな状況に耐えられなかったらしい。
とりあえず一人になりたいと、藤堂はトイレの個室に入る。完全に一人になると、悔しさから涙が溢れてきた。こんな調子では、次の漫才大会の予選突破すら難しいだろうと考え、さらに首をうなだれる。
そんな時、ドアがノックされる音が響いた。
このライブハウスのスタッフ用のトイレの個室は2つ。藤堂がトイレに足を運んだ時、隣の個室は開いていて、その後に誰か入ってきた気配もない。それなのに、何故か目の前にあるトイレのドアがノックされている。
個室に入りたいのなら、隣の個室に行けばいいのに、そう思って藤堂は返事をせずにいた。すると、ガチャッと音がしてトイレのドアが開いた。
「え!?」
中から鍵をかけていたのに、どうやって鍵を開けたのか、藤堂は目を白黒させる。ただ、それ以上に藤堂を驚かせたのは、目の前に立つ人物の風貌だった。
「こんにちは!ドリーム保険です!保険いかがですか!?」
そう笑顔で語る女性は、半分は金髪、片側は赤髪のツインテールとド派手な髪型なのに、服装は就活生のリクルートスーツと変わらない。かと思えば、手首にはパワーストーンのようなブレスレットがじゃらじゃらついていたり、靴は真っ赤なスニーカーだったり色々ちぐはぐだ。
「…は?」
「藤堂さん!保険入ってます?」
目の前に現れた女性は、言いながらドアを閉める。元々狭い個室がギュウギュウ詰め状態になるが、そんなことお構いなしに女性は藤堂に対しパンフレットを押し付ける。顔に押し付けるように見せられたパンフレットに書かれていた文字は『滑り保険』だった。
「滑り保険…?スキーかスノボの保険?」
「違いますよぉ!お笑いで滑った時のための保険です!」
「…は?」
意味が分からないと、パンフレットを押し返そうとする藤堂に対し、女性はどこからかタブレットを取り出し、操作を始めた。すると、そこにさっきのライブの様子が映された。
直前のコンビが盛り上げたおかげで会場はいい感じに温まっていた筈なのに、藤堂の一言で会場から笑いが消えた。悪夢のような瞬間だ。その後も、盛り上がることがなく出番が終わっていく。
「盗撮かよ。撮影禁止って書いてあっただろ?」
藤堂は咎めるように言うが、保険屋の女は気にする素振りもない。悪びれることもなく、話を続ける。
「渾身のギャグで滑るって、大けがや死亡事故に相当するものだと思いませんか?」
「…確かに大やけどだけど」
「ね!そんな状況から立ち直れるように補償をする保険が『滑り保険』です!」
「保障って…滑ったら見舞金でもくれるってのか?」
「はい!その通り!見舞金で美味しいご飯でも食べれば、英気を養えますよね!それに何より、滑ってもお金が貰えるなど嬉しいことがあれば、滑ることを恐れずお笑いに向き合えますよね!私達ドリーム保険は、お笑いに対し真摯に向き合う人を助けるために始まった保険です!」
最初は、怪しいと思っていた藤堂だが、気が付けば相手の話を真剣に聞いていた。
ついさっきのライブで滑った傷は意外と大きかった。本気でお笑いから足を洗った方が良いのではないかと考える程だった。そして、次のライブや漫才の大会に対する不安が渦巻いていた。
しかし、もしも滑っても補償がある、気持ちを切り替えることができる方法があるのなら、怖がらず笑いに向き合うことができるだろう。保険というのは、藤堂にとって悪い話ではない。
「…でも、そんな保険高いんじゃ…」
藤堂のお笑いでの月収は、高校生のお小遣いと変わらない程ということが殆どだ。そのため、生活費はバイトを掛け持ちして賄う状態だ。日々の生活で精一杯で、保険料を支払う余裕なんてない。今日もライブ終わりなのに、打ち上げに行くお金も心許ないほどだ。
「保険料は、1ステージ100円からとなっています」
「月額じゃなくて?」
「月額プランは月1000万円からです。藤堂さん用意できます?」
「い、1000万円って…!!!高すぎる!!!」
「でも1ステージなら、100円から利用可能です。1回きりの利用も可能ですよ?」
藤堂は、1回きりという言葉に心が揺れた。怪しいけれど、滑ったら補償が発生する上に、滑ることを気にせずステージに出れるというのは、利用者にとってメリットしかない話だ。もし怪しい保険だった場合は、次から契約しなければいいだけだ。
「じゃあ、1回だけ」
「ご契約ありがとうございます!」
藤堂は、ジュースを買うためにポケットに入れていた小銭の中から100円を払った。
「確かに。保険料は、ワタクシ北斗が受け取りました!」
女性は嬉しそうに100円をしまい込む。
それと同時に、スマホを取り出し藤堂に向けた。すると、藤堂のポケットに入れていたスマホが震えた。
「え?」
「契約書です」
スマホを開くと、そこにはドリーム保険からのメッセージが届いていた。連絡先を交換した覚えはない。それなのに、一通のメッセージが入っていた。
そこには
『ドリーム保険の契約は他言無用です。たとえ相方であっても、加入をしたことを報告すれば、1兆円の支払いを求めます』
と、書かれていた。
「なんだよこれ!?」
「利用規約です」
「払えるわけがない!!」
「誰にも言わなければいいだけの話です。簡単でしょ?」
そう言われ、藤堂は考える。野々村とは幼馴染で、相方という関係だが、別に何でも話す訳ではない。気になる相手がいても報告することもなければ、野々村には彼女がいるっぽいのにその報告を受けたこともない。元々、程よい距離感で接してきていた。家族とも離れて暮らしている。滑り保険に限らず、保険について誰かに話すことはまずない環境にいる。それなら、滑り保険について誰かに話すこともないだろう。
「分かったよ…。誰にも言わない」
「ご理解いただきありがとうございます!じゃあ、これは成約特典です!」
北斗はそう言うと、再びスマホを操作し始めた。それと同時に、藤堂のスマホにもう一通のメッセージが届く。開いてみると、それは牛丼屋のギフト券2,000円分のデジタルギフトだった。
「今日、滑った分の補償です。滑りに対する補填、いわゆる『スベリダイ』ってやつですね。美味しい物でも食べて、気分転嫁してくださいね!」
「今回のって、俺1円も払ってないのに。払ったのは次のステージ分だけの100円なのに。それで2,000円分って超お得じゃん!牛丼大盛に玉子とか追加できるじゃん!」
そう言いながら、藤堂が顔を上げると、そこに北斗の姿はなかった。目の前のドアは閉まったままだし、トイレの外に出ても、北斗がいる気配はなかった。藤堂はさっきのことが夢だったのではないかと、スマホに目を落とす。しかし、そこには間違いなくドリーム保険からのメッセージが2通残っていた。
原因は、幼馴染の野々村倫人と組んだ漫才コンビ『砂場』で出演したライブで、あり得ない滑り方をしてしまったためだ。砂場を組んだのは、キッカケは野々村が大学受験に失敗したことだった。元々お笑いの道に進むことを決めていた藤堂は、浪人するかどうか悩んでいた野々村に声をかけ、2人でお笑い界に飛び込んだ。
当然の話だが、お笑いの世界はかなり厳しく、結成から3年経過した現在、何度かテレビに出る機会こそあったものの同期の中でも、知名度人気共に最下位とも言われる程の状況が続いていた。半年後に開催される漫才の大会で決勝まで進めば、一気にブレイクすることも夢ではないと頑張ってきたが、小さな箱のライブですらボケを担当する藤堂は大滑りをしてしまった。
「智樹、ごめん。おれがあそこから盛り返すことができれば」
「倫人のせいじゃない。俺がふがいないせいだ」
藤堂は、声をかけてきた野々村をはねのけ「一人になりたいから」と、トイレに向かった。今回のライブは複数のコンビが出演する合同ライブ。楽屋は他の出演者やスタッフもいる。さらに、楽屋にいると他のコンビが笑いを取っている声が聞こえてくる。そんな状況に耐えられなかったらしい。
とりあえず一人になりたいと、藤堂はトイレの個室に入る。完全に一人になると、悔しさから涙が溢れてきた。こんな調子では、次の漫才大会の予選突破すら難しいだろうと考え、さらに首をうなだれる。
そんな時、ドアがノックされる音が響いた。
このライブハウスのスタッフ用のトイレの個室は2つ。藤堂がトイレに足を運んだ時、隣の個室は開いていて、その後に誰か入ってきた気配もない。それなのに、何故か目の前にあるトイレのドアがノックされている。
個室に入りたいのなら、隣の個室に行けばいいのに、そう思って藤堂は返事をせずにいた。すると、ガチャッと音がしてトイレのドアが開いた。
「え!?」
中から鍵をかけていたのに、どうやって鍵を開けたのか、藤堂は目を白黒させる。ただ、それ以上に藤堂を驚かせたのは、目の前に立つ人物の風貌だった。
「こんにちは!ドリーム保険です!保険いかがですか!?」
そう笑顔で語る女性は、半分は金髪、片側は赤髪のツインテールとド派手な髪型なのに、服装は就活生のリクルートスーツと変わらない。かと思えば、手首にはパワーストーンのようなブレスレットがじゃらじゃらついていたり、靴は真っ赤なスニーカーだったり色々ちぐはぐだ。
「…は?」
「藤堂さん!保険入ってます?」
目の前に現れた女性は、言いながらドアを閉める。元々狭い個室がギュウギュウ詰め状態になるが、そんなことお構いなしに女性は藤堂に対しパンフレットを押し付ける。顔に押し付けるように見せられたパンフレットに書かれていた文字は『滑り保険』だった。
「滑り保険…?スキーかスノボの保険?」
「違いますよぉ!お笑いで滑った時のための保険です!」
「…は?」
意味が分からないと、パンフレットを押し返そうとする藤堂に対し、女性はどこからかタブレットを取り出し、操作を始めた。すると、そこにさっきのライブの様子が映された。
直前のコンビが盛り上げたおかげで会場はいい感じに温まっていた筈なのに、藤堂の一言で会場から笑いが消えた。悪夢のような瞬間だ。その後も、盛り上がることがなく出番が終わっていく。
「盗撮かよ。撮影禁止って書いてあっただろ?」
藤堂は咎めるように言うが、保険屋の女は気にする素振りもない。悪びれることもなく、話を続ける。
「渾身のギャグで滑るって、大けがや死亡事故に相当するものだと思いませんか?」
「…確かに大やけどだけど」
「ね!そんな状況から立ち直れるように補償をする保険が『滑り保険』です!」
「保障って…滑ったら見舞金でもくれるってのか?」
「はい!その通り!見舞金で美味しいご飯でも食べれば、英気を養えますよね!それに何より、滑ってもお金が貰えるなど嬉しいことがあれば、滑ることを恐れずお笑いに向き合えますよね!私達ドリーム保険は、お笑いに対し真摯に向き合う人を助けるために始まった保険です!」
最初は、怪しいと思っていた藤堂だが、気が付けば相手の話を真剣に聞いていた。
ついさっきのライブで滑った傷は意外と大きかった。本気でお笑いから足を洗った方が良いのではないかと考える程だった。そして、次のライブや漫才の大会に対する不安が渦巻いていた。
しかし、もしも滑っても補償がある、気持ちを切り替えることができる方法があるのなら、怖がらず笑いに向き合うことができるだろう。保険というのは、藤堂にとって悪い話ではない。
「…でも、そんな保険高いんじゃ…」
藤堂のお笑いでの月収は、高校生のお小遣いと変わらない程ということが殆どだ。そのため、生活費はバイトを掛け持ちして賄う状態だ。日々の生活で精一杯で、保険料を支払う余裕なんてない。今日もライブ終わりなのに、打ち上げに行くお金も心許ないほどだ。
「保険料は、1ステージ100円からとなっています」
「月額じゃなくて?」
「月額プランは月1000万円からです。藤堂さん用意できます?」
「い、1000万円って…!!!高すぎる!!!」
「でも1ステージなら、100円から利用可能です。1回きりの利用も可能ですよ?」
藤堂は、1回きりという言葉に心が揺れた。怪しいけれど、滑ったら補償が発生する上に、滑ることを気にせずステージに出れるというのは、利用者にとってメリットしかない話だ。もし怪しい保険だった場合は、次から契約しなければいいだけだ。
「じゃあ、1回だけ」
「ご契約ありがとうございます!」
藤堂は、ジュースを買うためにポケットに入れていた小銭の中から100円を払った。
「確かに。保険料は、ワタクシ北斗が受け取りました!」
女性は嬉しそうに100円をしまい込む。
それと同時に、スマホを取り出し藤堂に向けた。すると、藤堂のポケットに入れていたスマホが震えた。
「え?」
「契約書です」
スマホを開くと、そこにはドリーム保険からのメッセージが届いていた。連絡先を交換した覚えはない。それなのに、一通のメッセージが入っていた。
そこには
『ドリーム保険の契約は他言無用です。たとえ相方であっても、加入をしたことを報告すれば、1兆円の支払いを求めます』
と、書かれていた。
「なんだよこれ!?」
「利用規約です」
「払えるわけがない!!」
「誰にも言わなければいいだけの話です。簡単でしょ?」
そう言われ、藤堂は考える。野々村とは幼馴染で、相方という関係だが、別に何でも話す訳ではない。気になる相手がいても報告することもなければ、野々村には彼女がいるっぽいのにその報告を受けたこともない。元々、程よい距離感で接してきていた。家族とも離れて暮らしている。滑り保険に限らず、保険について誰かに話すことはまずない環境にいる。それなら、滑り保険について誰かに話すこともないだろう。
「分かったよ…。誰にも言わない」
「ご理解いただきありがとうございます!じゃあ、これは成約特典です!」
北斗はそう言うと、再びスマホを操作し始めた。それと同時に、藤堂のスマホにもう一通のメッセージが届く。開いてみると、それは牛丼屋のギフト券2,000円分のデジタルギフトだった。
「今日、滑った分の補償です。滑りに対する補填、いわゆる『スベリダイ』ってやつですね。美味しい物でも食べて、気分転嫁してくださいね!」
「今回のって、俺1円も払ってないのに。払ったのは次のステージ分だけの100円なのに。それで2,000円分って超お得じゃん!牛丼大盛に玉子とか追加できるじゃん!」
そう言いながら、藤堂が顔を上げると、そこに北斗の姿はなかった。目の前のドアは閉まったままだし、トイレの外に出ても、北斗がいる気配はなかった。藤堂はさっきのことが夢だったのではないかと、スマホに目を落とす。しかし、そこには間違いなくドリーム保険からのメッセージが2通残っていた。
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