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鬼の夜
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一条天皇の御世。
平安京に都を移して百年足らず。
道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部らによって平安女流文学が花開いた時代。天皇自身、文芸に深い関心を示し、音楽にも堪能で笛を好み奏でていたという。
日本の首都は文化の香り高く栄華を誇っていた。
その都から東へ百里余り。
当時はただの閑地に過ぎなかった関東平野の外れに大きな荘園があった。肥沃な地勢から得た農作物によって裕福だったその土地は、藤原氏の遠縁にあたる豪族によって治められていた。
「巫」と姓氏を冠したこの豪族の屋敷に、ある日、赤子の泣き声が響き渡った。
頭首に五人目の児が誕生したのだ。
女児だった。
その児は「瑞穂」と名付けられ、男子ばかり四人も続いた一族に華を添える子宝と、一族郎党は云うに及ばず一般の民までが幼い姫君の誕生を無条件に祝福した。
だが、月日とともに美しく成長していく瑞穂姫には、その美しさとは裏腹に、よからぬ噂が付いて回った。
曰く、姫は千里の先を見透かす。
曰く、姫は人の運命を言い当てる。
転じて、姫は魔物に違いない・・・。
確かに、瑞穂には不可思議な力が宿っていた。誰も見た事のない異国の様子を絵に描いたり、既に他界し、会うはずもない曾祖父母の思い出話をしたかと思えば、翌年の飢饉を言い当てたり・・・。
幼い頃には笑い話で済んでいたが、言動がただの戯れ言ではなく、『千里眼』や『予言』の類なのだと人々が気づき始めた時には、『物之怪姫(もののけひめ)』として、遠く都にまで悪名が轟いていた。
幾つもの時間の流れが遙斗の周りを渦巻いていた。その時間の流れ達は、彼に幾本もの映像フィルムとして認知された。
それは時間に対する遙斗のイメージが反映され映像化したものだった。
もう、どれくらいこうしているのだろう。いや、あとどれくらいこうしているのだろう。
彼は記憶を反芻していた。
彼の廻りに流れている時間流とは独立した確固たる自分の記憶。だが、それすらも、少し気を緩めると、違う時空と繋がってしまい自我を消失しそうになる。
遙斗は途方に暮れた。
その時、徐々にフィルム〈=時間〉の流れが緩やかになってきた。まるで目的地に近づいた列車が減速したかの様だ。
やがて、遙斗は『遠く』に点滅する光りを見た。
それは今の彼にとって、嵐の夜、波間に見え隠れする灯台の光りに等しかった。
人気のない山奥の清流で、川の流れとは違う、水飛沫の音が周囲の森に木霊した。
美しい成人女性に成長した瑞穂が、沐浴をしている。
彼女がすっくと立ち上がると、水に濡れた白装束が身体に張り付き、美しいプロポーションを強調した。
突然、何かに打たれたように空を見上げる。
「・・・おぬしは誰じゃ?」
言葉を発するのと同時に、瑞穂は白目を剥いて気絶した。
時間流のフィルムが渦巻く空間で、遙斗と瑞穂が対峙している。
「おぬしは誰じゃ? わらわを呼んだのは、おぬしか?」
遙斗は最初、その少女が自分の知っているあの瑞穂だと思ったのだが、言葉遣いを聞いた時点で他人のそら似を確信した。
確かに、よく見れば顔の造作や身長が微妙に違う。だが、双子と云われて疑う者は誰もいないだろう。彼我の瑞穂の外見を決定する遺伝情報には、殆ど共通した塩基対が配列されているに違いない。
「えーと、ごめん。突然で驚いただろうけどでも、呼んだのはボクじゃない。君がボクを呼んだんだよ」
「???」
「君がボクを呼んで、ボクは君の中に取り込まれた。わかるだろ?」
「・・・面妖な」
その瞬間、瑞穂は自分が男の腕に抱きかかえられている事に気づいた。
男の名は、坂田光時。巫家が召し抱えた家臣であり、彼女の個人的な従者である。
光時は心配そうに瑞穂の顔をのぞき込みながら早足で山道を下っていた。
「大丈夫でござるか?」
彼は沐浴のお供をしていたのだが、瑞穂が長時間音沙汰無いのを心配し、様子を見に行った水辺で倒れている彼女を発見したのだった。
瑞穂が返答しようとした刹那、光時が立ち止まった。
すかさず辺りの気配を伺う。
と、背後の樹々がなぎ倒された。
そこから、一匹の獣が踊り出る。
その姿を見て、強張る瑞穂。
額だけでなく身体のあちこちから角が生えた異形の獣は、しかし、人の形をも模している。彼女はその姿を形容する言葉を一つだけ知っていた。
鬼だ。
光時は一瞬の躊躇もせず、瑞穂を背後に降ろすと腰の刀を抜いて身構えた。
「姫、お逃げ下さい! この場は光時が!」
「いやじゃ!」
予期せぬ瑞穂の答えに狼狽する光時。
「なっなんとおっしゃる!」
「死ぬる時は一緒じゃと申しておる!」
「!」
飛びかかってくる鬼。光時は瑞穂を庇ったため、身を翻す事が出来ず、直撃を刀で受け止めた。が、鬼の強力な筋力と鋭利な爪に耐えきれず、光時の刀はへし折れた。
『アンタ馬鹿か? 足手まといなんだよ!』
遙斗が、瑞穂の心の中で罵倒した。緊急事態につき、言葉遣いの悪さは平時の三倍増しで。
更に、遙斗は面白い事に気付いた。早速試してみる。すると、瑞穂の身体が、彼女の意志に反して走り出した。
「やめぬか! 他人の躰を勝手に動かすでない!」
瑞穂は抗議した。
『彼が生き延びるチャンスをアンタに奪う権利は無い!』
瑞穂=遙斗の背後で、鬼と光時の雄叫びが轟き渡る。
二人は、振り向きもせず走った。
瑞穂の眼には、涙が溢れていた。
瑞穂が住む街からほど近い、名も無い山の麓に洞窟が穿っていた。
入り口から数十メートル程は、岩肌が剥き出しの自然風穴が続いている。が、その奥には、人工的な材質の壁と床に囲まれた、音を発てれば反響する程に広大な空間が広がっていた。
時代にそぐわない高度な技術の手になる大小の機械類が広大な床面積を埋め尽くしている。キチンと機能的に整列して、各々が稼働しており、そこが単なる倉庫でない事が判る。
但し、設えられている機械類は用途不明の妖しげな形をしていた。少なくともこの時代に似つかわしくない技術レベルの産物だと見てとれるし、かといってデザイン的には、仏教やキリスト教など和洋折衷の宗教的な仏具、祭器の類に近かった。
その施設の中心で何やら思案に暮れる数人の人影。ユニフォームなのか、皆、山伏によく似た衣装を着ている。
しかも、彼らは明らかに東洋人ではない。この時代の日本にいる筈のないアーリア系白人種の容姿をしていた。しかも、翻訳機を介した様な、おかしなイントネーションの日本語で会話していた。
「失態だな。いったい何体逃げ出したんだ?」
「五体だ。つまり全部。うち一体は、この原住民に機能停止されたが・・・」
彼らの前に設えられたカプセル(透明で培養液に満たされている等身大の容器)の中に、下肢と左腕が千切れた光時の身体が浮かんでいた。
「彼は、生きているのか?」
「ああ、幸か不幸か、彼を襲った実験体の魂蟲が彼に再寄生してしまったらしい」
「それで、彼はどうなる?」
「わからん! 生きた人間を被験者にした例など無い。だが、最終的に人で無くなるのは間違いなかろう。生死には別にして」
「二重の失態だな。生体実験をしてしまうなど。この上、逃げ出した実験体が都の人間を襲い出したら・・・」
「とにかく、本部に指示を仰ごう。シェード極東支部の立ち上げが、黄色信号だとな」
「ああ・・・。ところで、例の姫様の調査はどうする? このプロジェクトの最優先事項だが」
「たしか、瑞穂とか云ったか」
「この件が片づくまで、凍結に決まってるだろう」
「そうだな。実験体を再コントロール出来れば、彼らを使ってさらわせる事も出来る」
異人達の対策会議は続いた。
傍らの生命維持装置の中で、人の形を失ったままの光時が、懸命に聞き耳を立てているとは夢にも思わずに・・・。
鬼の噂は、街中に広がっていた。
信じるもの、疑うもの、民草の反応は様々だったが、現実に家臣が一人、行方不明の巫家では、街を統べる首長の面目と責任にかけて、大掛かりな捜索隊を繰り出していた。
瑞穂は、自室に閉じこもっていた。
障子越しに、家臣が報告している。
「申しつけられた場所に光時殿の姿は、ございませんでした。どこかに落ち延びたやも知れませんので、辺りの山林も捜索しております」
ふさぎ込んでいる瑞穂。
『元気出せよ。あの人も言ってたじゃないか。死体は無かったって』
遙斗は慰めを伝えた。
「黙れ! 死体なんぞと不吉な事を! 光時は世間に物の怪と忌み嫌われておったわらわに、唯一付き従ってくれたのじゃ。あれの替わりはおらん。あやつがおらねば、わらわは生きてはおれん」
『やれやれ・・・聞く耳持たずか。アンタ、人の運命とかがわかるんだろ? その力で占ってみたら?』
「だまれ! おぬしが来てから、わらわの力は失せたわ!」
『・・・あ、そうなんだ』
その時、外が騒がしくなった。
「鬼だ、鬼が出たぞォ!」
街が、突然現れた四匹の鬼によって蹂躙されていた。
半鐘が鳴り響き、あちこちで火の手が上がる。
腕に覚えのある武芸者達があちこちで散漫に立ち向かっていったが、所詮彼らの敵ではない。立ち向かったはいいが、返り討ちにあい、自身を守るので精一杯だった。
荒れ狂う鬼達の内、二匹が瑞穂の屋敷に雪崩れ込んで来た。
敷地内に鬼達の侵入を許した段階で屋敷の家臣は半数が失われていた。生物としての戦闘力が根本的に違っているのだ。人間が如何に弓や刀で武装し、鎧で防御しようと肉弾戦で戦う限り、それはアドバンテージとは成らなかった。鬼達の角や牙、鋭い爪はどんな名刀よりも殺傷力を持った凶器であり、彼らの皮膚はどんな甲冑よりも硬かった。
人々の怒号と異形の咆吼が飛び交っている。
瑞穂=遙斗も、様子を伺うために部屋から外に出た。
が、屋敷中が騒がしいのに、彼女の部屋の周囲だけが、エアポケットの様に静まりかえっている。
二人の真後ろに立っている鬼が立っていた。
遙斗が先に気づく。
『後ろ!』
振り返る瑞穂。
彼女の視界は、鬼の顔で覆われた。
それ程の近接距離だった。
「!」
悲鳴をあげる間も無く、鬼は瑞穂の足元に崩れ落ちた。二人は、更にその後ろに立っていたもう一匹の鬼に気付いて身構えた。
他の鬼達とは違い、より人の形に近い体躯を持ち、二本角の頭部に刻まれた面相は、西洋の彫刻の様に彫り深く整っていた。
硬質ガラスの眼が瑞穂を凝視している。
「ひっ」
引きつる瑞穂に、二本角が言った。
「瑞穂殿」
岩が崩れ落ちる時のガラガラという音が混じった聞き取りづらい音声だった。声帯が硬いのだ。
二本角の鬼は、見る見るうちに人間へと変化していく。CGでよく見かけるモーフィング映像の立体版である。
身長自体が縮むほどの変化。
二本角の鬼は、光時になった。
破壊の跡が生々しい街の中心部。
しかし、事態は沈静している様子だった。
屋敷では、家臣が瑞穂に報告している。
「はい、どこからともなく天狗様の一団が現れまして、鬼どもを不思議な術で動けなくすると、山中に捨ててくるとかで、一匹残らず運び去ってしまいました」
「なに、天狗とな? それは面妖な。しかし、何はともあれ、一件落着したのは幸いじゃ」
部屋に引っ込む瑞穂。
「きゃつらだ」
彼女の部屋に匿われている光時が言った。
「山の洞窟で、怪しげな呪術を行っておるという輩か? 人ではないのか?」
「はい。天狗のごとき見目形とあらば間違いありません。人かどうかは定かでありませんが、今頃は、私が逃げのびた事も承知しているはず。更には、あの鬼どもを使って姫の誘拐をも企てておりました。早晩、ここへ現れるかと」
「その時は、そなたが守ってくれるのであろう?」
躊躇する光時。
「・・・いえ、それは叶いませぬ」
「何故じゃ?」
「きゃつらの一人が申しました。拙者は、いずれ完全に鬼と成ります。人に戻れなくなります。早急にここを立ち去らねば・・・」
沈黙が辺りを支配した。
「その時は、そなたがわらわを殺すがよい!」
「な、なんとおっしゃいます?」
「前にも言うた。そなたが居らねば、わらわは生きてはいけぬ。鬼となって立ち去る前に、わらわをそなたの手で逝かせよ」
決意を込めた瑞穂の瞳に、光時の驚愕した顔が映っていた。
『おいおい・・・』
遙斗の嘆息は勿論、瑞穂の心に届いていた。
しかし、意識を共有する瑞穂の心理も遙斗には伝わっていた。それは「生きてはいけぬ」という言葉に込められた彼女の真意であった。
「鬼だ! 鬼が出たぞ!」
鬼は、屋敷の塀を飛び越えた。
「姫が! 瑞穂殿がさらわれた!」
家臣達の叫びが錯綜する。
晩秋の大きな月に照らされた街並みを屋根から屋根へ飛び移り、その鬼、二本角の光時は疾走した。
二メートル余の巨体を屈め、腕と足を使った野獣のような四足歩行だ。光時鬼の見据える前方に、更に四匹の鬼がいる。
光時は、その四匹を追っていた。
追われる鬼達の先頭を走る一匹が、腕の中に人間の女を抱えている。
瑞穂だ。彼女は意識を失い、ぐったりと腕にぶらさがっていた。髪は乱れ、寝間着の白装束しか身に纏っておらず、不意の寝込みを襲われた事を物語っていた。
光時は己への怒りに燃えていた。
鬼達は、囮と実行犯、四匹の連携で誘拐を仕掛けてきた。彼らにそんな緻密な作戦に基づいた行動が出来るとは思いもよらず、不覚にも瑞穂を奪われてしまったからだ。彼らは既に、何者かのコントロール下にある制御された存在なのだった。
しかし、そんな事より何より、あれ程の信頼を寄せてくれる主を守れなかった事実。従者としての存在意義を問われる失態だった。光時は、不甲斐ない自分に激昂していた。
彼は怒りの雄叫びを上げた。
獣の咆吼だ。
追う者と追われる者、双方が都外れの雑木林に差しかかる。
その瞬間、四匹の内、三匹がきびすを返して光時に向かって来た。先頭の一匹を逃がすつもりなのだ。
鬼同士の肉弾戦が始まった。
互いに丸腰だが、彼ら自身の牙、爪、角が、必殺の殺傷力を持つ事は、既に証明済みだ。
三対一だったにも拘わらず、光時は瞬く間に鬼達を蹴散らした。
三匹が大した足止めにもならなかったので、光時は難なく先行した鬼に追いついた。
林を抜け、河原に出た所で背後に追っ手の気配を感じ、最後に残った鬼は、腕の中の瑞穂を柔らかい川藻の群生した場所に寝かせると、追っ手へと向って踵を返した。
だが、またしても勝負は一瞬だった。
光時は、圧倒的な力の差を見せつけ、向かってきた鬼を引き裂いた。それは武芸者としての光時の戦闘スキルが、戦闘兵器の性能差として具現した結果だった。何しろ、光時は相打ちとはいえ、生身の人間の状態で鬼を一匹仕留めているのだ。
障害を全てクリアして安堵した光時は、川藻に横たわる瑞穂にゆっくりと近づいた。
そのゆっくりとした歩みに呼応するように、鬼のシルエットが徐々に人間へと変化していく。
光時は、彼女の寝顔を見ながら呟いた。
「瑞穂殿・・・」
横たわっている瑞穂。
彼女の顔に手を伸ばす光時。だが、徐々にまた鬼の姿に戻りだした。
苦しむ光時。
瑞穂目覚める。同時に遙斗も。
苦しむ光時を見つめる瑞穂の視覚を通した遙斗の意識が悟った。
『ここに来た理由は・・・これか』
遙斗の意識は、先刻、光時が自分の身に起きた、鬼になった成り行きを説明する際に出てきた「しぇーど」という単語を思い出していた。
「何じゃ?」
『俺は、彼を救う方法を知っている』
「何じゃと、では光時を救うのじゃ! 早よう!」
『よく聞くんだ。その代わり、多分、アンタは彼とお別れしなくちゃならない』
瑞穂の慟哭が、遙斗の心を締め付けた。
「いやじゃ! ならば、わらわは光時と一緒に死ぬ!」
取り乱し、半狂乱になる瑞穂。別れの予感が、彼女の胸を締め付けていた。
その感覚を・・・遙斗も共有する。同情して折れそうになる気持ちを振り払い彼は云った。
『わからない事を言うな! これから彼を救う知れない方法をアンタの脳味噌に直接送るからな! その通りにするんだぞ、いいな!』
雷に打たれたように硬直する瑞穂。
遙斗から、未来へと連なる膨大な知識が流れ込んできた。
後は、瑞穂が決断するのだ。
「・・・わかった。光時が救えるのならば、わらわはどうなっても構わぬ」
瑞穂は、一瞬の躊躇もせず、己の感情より、光時の『生』を選択した。
そして彼女は、あの洞窟へと向かった。
光時から聞いていた説明を辿り進む。女の足でも洞窟まで数分で到着した。瑞穂をさらった鬼達の遁走は、既に街から洞窟までの距離を殆ど走破していたのだ。
山の中腹に穿たれた深淵の風穴。
充満する空気が許容するギリギリまで溶けきった水分が、湿度を好むカビ臭を育んでいる。入り口に立っただけで、ただならぬ霊気が薄暗い洞窟の奥から流れ出ているのを感じた。
それでも、瑞穂は足を踏み入れた。掛替えのない男の命火を守りたい一心で。
ゴツゴツとした岩場に何度となく躓いて、膝から下を血塗れにしながらも、手探りで奥へ奥へと突き進む。
ようやく辿り着いた洞窟の最深部には、大きな一枚岩が立ち塞がっていた。
科学知識の無い者には充分なカムフラージュだったのだろうが、コンクリートや合成樹脂の存在を知っている現代人の遙斗には一目で人工物だと判った。しかも、その岩にだけ苔が付着していない。
擬装の努力が足りないよ、と遙斗は瑞穂の意識の中で囁いた。その言葉を聞いて、周囲をまさぐる瑞穂。しかし、期待した隠しスイッチの類は、何も発見出来なかった。
落胆して岩にもたれ掛かった瞬間、瑞穂の身体が岩を透過して内部に転がり込んだ。
実際には岩がパックリと割れて、「開けゴマ」状態なのだったが、何が合い言葉だったのかは判らない。元々、セキュリティレスの自動ドアだったのかも知れない。
これ程無防備な理由はただ一つ。この場所を管理する者は、この時代の人間を舐めているのだ。少なくとも技術的優位を確信している。
つまり、此処の主は、やはり、この時代の存在ではない、という事なのか?
遙斗の疑問は瑞穂にも伝わったが、彼女には、その意味が解らなかった。
瑞穂が転がり込んだ空間は、光時が話していた通り、蝋燭やランプの類とは違う得体の知れない発光物で照明された、天井の高い、四方を無機質な材質の壁で囲まれた部屋だった。
遙斗の指示に従って室内の様子を見て廻った瑞穂は、部屋の奥に大きな水槽を見付けた。中には黄色に染まった培養液に満たされ、村を襲った鬼達が浸かっている。
よく眼を凝らしてみると培養液の中には小さなオタマジャクシが蠢いていた。ただ、普通のオタマジャクシと違っていたのは、蛍の様に生体発光している事だった。
興味深く水槽の中を観察する瑞穂=遙斗。
突然、二人をピンスポットが狙ってきた。眩しい光に視覚を奪われ、その場にうずくまる瑞穂。ただの光では無かったのか、彼女の全身は痺れて、意識が遠退いていった。
「おい!」と遙斗が覚醒を促したが、結局、彼女はそのまま気絶してしまった。
遙斗は、ブラックアウトした瑞穂の意識に取り残されたまま、暫く無為な時間を過ごさねばならなかった。
意識体の遙斗が視覚と認識している領域に、果てしない漆黒の海が無限に拡がっていく。もしかしたら瑞穂はもう目覚めないのではないか、という不安がループになって幾度と無く遙斗を襲ってきた。
『閉所恐怖症というのはこんな感じかな? もっとも空間だけでなく時間も閉鎖された状態だから閉時空恐怖症かな?・・・』どっちにしても限界だ。意識が混濁してきた・・・遙斗が諦めかけた、その瞬間。
遙斗の回りを満たしていた深淵を眩い稲妻が覆いつくした。何もなかった空間を光の奔流が席巻している。
しかし、音はしない。ただ、遠く囁く様な人の声が聞こえた。
「・・・驚いた・・・異時間の・・・同期している・・・」
突然、稲妻は去り、遙斗の意識は再び漆黒に包まれた。
変化の予感が裏切られ落胆する遙斗だったが、突然、光が知覚された。今度の光は、暗闇の一部が裂けて、そこから差し込んで来た。木漏れ日に似ている。
しかし、それは瑞穂の視覚に入射した外界の光だった。光が差し込む亀裂が、一本の筋からアーモンド形になっていく。眼の形だ。瞼が徐々に開かれているのだ。
瑞穂が覚醒しようとしている。遙斗は悟った。
しかし、喜び勇んではいられない。瑞穂が目覚めた瞬間に正しい行動をさせなくては。
気絶した状況から考えて、あまり好ましく無い現実が待ち受けているに違いない。場合によっては緊急事態かも知れない。
遙斗は、瑞穂の網膜に映る情景が脳に送られるよりも速く、周囲の現況を把握すべく身構えた。
・・・ああ、天狗がいる。
平安京に都を移して百年足らず。
道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部らによって平安女流文学が花開いた時代。天皇自身、文芸に深い関心を示し、音楽にも堪能で笛を好み奏でていたという。
日本の首都は文化の香り高く栄華を誇っていた。
その都から東へ百里余り。
当時はただの閑地に過ぎなかった関東平野の外れに大きな荘園があった。肥沃な地勢から得た農作物によって裕福だったその土地は、藤原氏の遠縁にあたる豪族によって治められていた。
「巫」と姓氏を冠したこの豪族の屋敷に、ある日、赤子の泣き声が響き渡った。
頭首に五人目の児が誕生したのだ。
女児だった。
その児は「瑞穂」と名付けられ、男子ばかり四人も続いた一族に華を添える子宝と、一族郎党は云うに及ばず一般の民までが幼い姫君の誕生を無条件に祝福した。
だが、月日とともに美しく成長していく瑞穂姫には、その美しさとは裏腹に、よからぬ噂が付いて回った。
曰く、姫は千里の先を見透かす。
曰く、姫は人の運命を言い当てる。
転じて、姫は魔物に違いない・・・。
確かに、瑞穂には不可思議な力が宿っていた。誰も見た事のない異国の様子を絵に描いたり、既に他界し、会うはずもない曾祖父母の思い出話をしたかと思えば、翌年の飢饉を言い当てたり・・・。
幼い頃には笑い話で済んでいたが、言動がただの戯れ言ではなく、『千里眼』や『予言』の類なのだと人々が気づき始めた時には、『物之怪姫(もののけひめ)』として、遠く都にまで悪名が轟いていた。
幾つもの時間の流れが遙斗の周りを渦巻いていた。その時間の流れ達は、彼に幾本もの映像フィルムとして認知された。
それは時間に対する遙斗のイメージが反映され映像化したものだった。
もう、どれくらいこうしているのだろう。いや、あとどれくらいこうしているのだろう。
彼は記憶を反芻していた。
彼の廻りに流れている時間流とは独立した確固たる自分の記憶。だが、それすらも、少し気を緩めると、違う時空と繋がってしまい自我を消失しそうになる。
遙斗は途方に暮れた。
その時、徐々にフィルム〈=時間〉の流れが緩やかになってきた。まるで目的地に近づいた列車が減速したかの様だ。
やがて、遙斗は『遠く』に点滅する光りを見た。
それは今の彼にとって、嵐の夜、波間に見え隠れする灯台の光りに等しかった。
人気のない山奥の清流で、川の流れとは違う、水飛沫の音が周囲の森に木霊した。
美しい成人女性に成長した瑞穂が、沐浴をしている。
彼女がすっくと立ち上がると、水に濡れた白装束が身体に張り付き、美しいプロポーションを強調した。
突然、何かに打たれたように空を見上げる。
「・・・おぬしは誰じゃ?」
言葉を発するのと同時に、瑞穂は白目を剥いて気絶した。
時間流のフィルムが渦巻く空間で、遙斗と瑞穂が対峙している。
「おぬしは誰じゃ? わらわを呼んだのは、おぬしか?」
遙斗は最初、その少女が自分の知っているあの瑞穂だと思ったのだが、言葉遣いを聞いた時点で他人のそら似を確信した。
確かに、よく見れば顔の造作や身長が微妙に違う。だが、双子と云われて疑う者は誰もいないだろう。彼我の瑞穂の外見を決定する遺伝情報には、殆ど共通した塩基対が配列されているに違いない。
「えーと、ごめん。突然で驚いただろうけどでも、呼んだのはボクじゃない。君がボクを呼んだんだよ」
「???」
「君がボクを呼んで、ボクは君の中に取り込まれた。わかるだろ?」
「・・・面妖な」
その瞬間、瑞穂は自分が男の腕に抱きかかえられている事に気づいた。
男の名は、坂田光時。巫家が召し抱えた家臣であり、彼女の個人的な従者である。
光時は心配そうに瑞穂の顔をのぞき込みながら早足で山道を下っていた。
「大丈夫でござるか?」
彼は沐浴のお供をしていたのだが、瑞穂が長時間音沙汰無いのを心配し、様子を見に行った水辺で倒れている彼女を発見したのだった。
瑞穂が返答しようとした刹那、光時が立ち止まった。
すかさず辺りの気配を伺う。
と、背後の樹々がなぎ倒された。
そこから、一匹の獣が踊り出る。
その姿を見て、強張る瑞穂。
額だけでなく身体のあちこちから角が生えた異形の獣は、しかし、人の形をも模している。彼女はその姿を形容する言葉を一つだけ知っていた。
鬼だ。
光時は一瞬の躊躇もせず、瑞穂を背後に降ろすと腰の刀を抜いて身構えた。
「姫、お逃げ下さい! この場は光時が!」
「いやじゃ!」
予期せぬ瑞穂の答えに狼狽する光時。
「なっなんとおっしゃる!」
「死ぬる時は一緒じゃと申しておる!」
「!」
飛びかかってくる鬼。光時は瑞穂を庇ったため、身を翻す事が出来ず、直撃を刀で受け止めた。が、鬼の強力な筋力と鋭利な爪に耐えきれず、光時の刀はへし折れた。
『アンタ馬鹿か? 足手まといなんだよ!』
遙斗が、瑞穂の心の中で罵倒した。緊急事態につき、言葉遣いの悪さは平時の三倍増しで。
更に、遙斗は面白い事に気付いた。早速試してみる。すると、瑞穂の身体が、彼女の意志に反して走り出した。
「やめぬか! 他人の躰を勝手に動かすでない!」
瑞穂は抗議した。
『彼が生き延びるチャンスをアンタに奪う権利は無い!』
瑞穂=遙斗の背後で、鬼と光時の雄叫びが轟き渡る。
二人は、振り向きもせず走った。
瑞穂の眼には、涙が溢れていた。
瑞穂が住む街からほど近い、名も無い山の麓に洞窟が穿っていた。
入り口から数十メートル程は、岩肌が剥き出しの自然風穴が続いている。が、その奥には、人工的な材質の壁と床に囲まれた、音を発てれば反響する程に広大な空間が広がっていた。
時代にそぐわない高度な技術の手になる大小の機械類が広大な床面積を埋め尽くしている。キチンと機能的に整列して、各々が稼働しており、そこが単なる倉庫でない事が判る。
但し、設えられている機械類は用途不明の妖しげな形をしていた。少なくともこの時代に似つかわしくない技術レベルの産物だと見てとれるし、かといってデザイン的には、仏教やキリスト教など和洋折衷の宗教的な仏具、祭器の類に近かった。
その施設の中心で何やら思案に暮れる数人の人影。ユニフォームなのか、皆、山伏によく似た衣装を着ている。
しかも、彼らは明らかに東洋人ではない。この時代の日本にいる筈のないアーリア系白人種の容姿をしていた。しかも、翻訳機を介した様な、おかしなイントネーションの日本語で会話していた。
「失態だな。いったい何体逃げ出したんだ?」
「五体だ。つまり全部。うち一体は、この原住民に機能停止されたが・・・」
彼らの前に設えられたカプセル(透明で培養液に満たされている等身大の容器)の中に、下肢と左腕が千切れた光時の身体が浮かんでいた。
「彼は、生きているのか?」
「ああ、幸か不幸か、彼を襲った実験体の魂蟲が彼に再寄生してしまったらしい」
「それで、彼はどうなる?」
「わからん! 生きた人間を被験者にした例など無い。だが、最終的に人で無くなるのは間違いなかろう。生死には別にして」
「二重の失態だな。生体実験をしてしまうなど。この上、逃げ出した実験体が都の人間を襲い出したら・・・」
「とにかく、本部に指示を仰ごう。シェード極東支部の立ち上げが、黄色信号だとな」
「ああ・・・。ところで、例の姫様の調査はどうする? このプロジェクトの最優先事項だが」
「たしか、瑞穂とか云ったか」
「この件が片づくまで、凍結に決まってるだろう」
「そうだな。実験体を再コントロール出来れば、彼らを使ってさらわせる事も出来る」
異人達の対策会議は続いた。
傍らの生命維持装置の中で、人の形を失ったままの光時が、懸命に聞き耳を立てているとは夢にも思わずに・・・。
鬼の噂は、街中に広がっていた。
信じるもの、疑うもの、民草の反応は様々だったが、現実に家臣が一人、行方不明の巫家では、街を統べる首長の面目と責任にかけて、大掛かりな捜索隊を繰り出していた。
瑞穂は、自室に閉じこもっていた。
障子越しに、家臣が報告している。
「申しつけられた場所に光時殿の姿は、ございませんでした。どこかに落ち延びたやも知れませんので、辺りの山林も捜索しております」
ふさぎ込んでいる瑞穂。
『元気出せよ。あの人も言ってたじゃないか。死体は無かったって』
遙斗は慰めを伝えた。
「黙れ! 死体なんぞと不吉な事を! 光時は世間に物の怪と忌み嫌われておったわらわに、唯一付き従ってくれたのじゃ。あれの替わりはおらん。あやつがおらねば、わらわは生きてはおれん」
『やれやれ・・・聞く耳持たずか。アンタ、人の運命とかがわかるんだろ? その力で占ってみたら?』
「だまれ! おぬしが来てから、わらわの力は失せたわ!」
『・・・あ、そうなんだ』
その時、外が騒がしくなった。
「鬼だ、鬼が出たぞォ!」
街が、突然現れた四匹の鬼によって蹂躙されていた。
半鐘が鳴り響き、あちこちで火の手が上がる。
腕に覚えのある武芸者達があちこちで散漫に立ち向かっていったが、所詮彼らの敵ではない。立ち向かったはいいが、返り討ちにあい、自身を守るので精一杯だった。
荒れ狂う鬼達の内、二匹が瑞穂の屋敷に雪崩れ込んで来た。
敷地内に鬼達の侵入を許した段階で屋敷の家臣は半数が失われていた。生物としての戦闘力が根本的に違っているのだ。人間が如何に弓や刀で武装し、鎧で防御しようと肉弾戦で戦う限り、それはアドバンテージとは成らなかった。鬼達の角や牙、鋭い爪はどんな名刀よりも殺傷力を持った凶器であり、彼らの皮膚はどんな甲冑よりも硬かった。
人々の怒号と異形の咆吼が飛び交っている。
瑞穂=遙斗も、様子を伺うために部屋から外に出た。
が、屋敷中が騒がしいのに、彼女の部屋の周囲だけが、エアポケットの様に静まりかえっている。
二人の真後ろに立っている鬼が立っていた。
遙斗が先に気づく。
『後ろ!』
振り返る瑞穂。
彼女の視界は、鬼の顔で覆われた。
それ程の近接距離だった。
「!」
悲鳴をあげる間も無く、鬼は瑞穂の足元に崩れ落ちた。二人は、更にその後ろに立っていたもう一匹の鬼に気付いて身構えた。
他の鬼達とは違い、より人の形に近い体躯を持ち、二本角の頭部に刻まれた面相は、西洋の彫刻の様に彫り深く整っていた。
硬質ガラスの眼が瑞穂を凝視している。
「ひっ」
引きつる瑞穂に、二本角が言った。
「瑞穂殿」
岩が崩れ落ちる時のガラガラという音が混じった聞き取りづらい音声だった。声帯が硬いのだ。
二本角の鬼は、見る見るうちに人間へと変化していく。CGでよく見かけるモーフィング映像の立体版である。
身長自体が縮むほどの変化。
二本角の鬼は、光時になった。
破壊の跡が生々しい街の中心部。
しかし、事態は沈静している様子だった。
屋敷では、家臣が瑞穂に報告している。
「はい、どこからともなく天狗様の一団が現れまして、鬼どもを不思議な術で動けなくすると、山中に捨ててくるとかで、一匹残らず運び去ってしまいました」
「なに、天狗とな? それは面妖な。しかし、何はともあれ、一件落着したのは幸いじゃ」
部屋に引っ込む瑞穂。
「きゃつらだ」
彼女の部屋に匿われている光時が言った。
「山の洞窟で、怪しげな呪術を行っておるという輩か? 人ではないのか?」
「はい。天狗のごとき見目形とあらば間違いありません。人かどうかは定かでありませんが、今頃は、私が逃げのびた事も承知しているはず。更には、あの鬼どもを使って姫の誘拐をも企てておりました。早晩、ここへ現れるかと」
「その時は、そなたが守ってくれるのであろう?」
躊躇する光時。
「・・・いえ、それは叶いませぬ」
「何故じゃ?」
「きゃつらの一人が申しました。拙者は、いずれ完全に鬼と成ります。人に戻れなくなります。早急にここを立ち去らねば・・・」
沈黙が辺りを支配した。
「その時は、そなたがわらわを殺すがよい!」
「な、なんとおっしゃいます?」
「前にも言うた。そなたが居らねば、わらわは生きてはいけぬ。鬼となって立ち去る前に、わらわをそなたの手で逝かせよ」
決意を込めた瑞穂の瞳に、光時の驚愕した顔が映っていた。
『おいおい・・・』
遙斗の嘆息は勿論、瑞穂の心に届いていた。
しかし、意識を共有する瑞穂の心理も遙斗には伝わっていた。それは「生きてはいけぬ」という言葉に込められた彼女の真意であった。
「鬼だ! 鬼が出たぞ!」
鬼は、屋敷の塀を飛び越えた。
「姫が! 瑞穂殿がさらわれた!」
家臣達の叫びが錯綜する。
晩秋の大きな月に照らされた街並みを屋根から屋根へ飛び移り、その鬼、二本角の光時は疾走した。
二メートル余の巨体を屈め、腕と足を使った野獣のような四足歩行だ。光時鬼の見据える前方に、更に四匹の鬼がいる。
光時は、その四匹を追っていた。
追われる鬼達の先頭を走る一匹が、腕の中に人間の女を抱えている。
瑞穂だ。彼女は意識を失い、ぐったりと腕にぶらさがっていた。髪は乱れ、寝間着の白装束しか身に纏っておらず、不意の寝込みを襲われた事を物語っていた。
光時は己への怒りに燃えていた。
鬼達は、囮と実行犯、四匹の連携で誘拐を仕掛けてきた。彼らにそんな緻密な作戦に基づいた行動が出来るとは思いもよらず、不覚にも瑞穂を奪われてしまったからだ。彼らは既に、何者かのコントロール下にある制御された存在なのだった。
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獣の咆吼だ。
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鬼同士の肉弾戦が始まった。
互いに丸腰だが、彼ら自身の牙、爪、角が、必殺の殺傷力を持つ事は、既に証明済みだ。
三対一だったにも拘わらず、光時は瞬く間に鬼達を蹴散らした。
三匹が大した足止めにもならなかったので、光時は難なく先行した鬼に追いついた。
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だが、またしても勝負は一瞬だった。
光時は、圧倒的な力の差を見せつけ、向かってきた鬼を引き裂いた。それは武芸者としての光時の戦闘スキルが、戦闘兵器の性能差として具現した結果だった。何しろ、光時は相打ちとはいえ、生身の人間の状態で鬼を一匹仕留めているのだ。
障害を全てクリアして安堵した光時は、川藻に横たわる瑞穂にゆっくりと近づいた。
そのゆっくりとした歩みに呼応するように、鬼のシルエットが徐々に人間へと変化していく。
光時は、彼女の寝顔を見ながら呟いた。
「瑞穂殿・・・」
横たわっている瑞穂。
彼女の顔に手を伸ばす光時。だが、徐々にまた鬼の姿に戻りだした。
苦しむ光時。
瑞穂目覚める。同時に遙斗も。
苦しむ光時を見つめる瑞穂の視覚を通した遙斗の意識が悟った。
『ここに来た理由は・・・これか』
遙斗の意識は、先刻、光時が自分の身に起きた、鬼になった成り行きを説明する際に出てきた「しぇーど」という単語を思い出していた。
「何じゃ?」
『俺は、彼を救う方法を知っている』
「何じゃと、では光時を救うのじゃ! 早よう!」
『よく聞くんだ。その代わり、多分、アンタは彼とお別れしなくちゃならない』
瑞穂の慟哭が、遙斗の心を締め付けた。
「いやじゃ! ならば、わらわは光時と一緒に死ぬ!」
取り乱し、半狂乱になる瑞穂。別れの予感が、彼女の胸を締め付けていた。
その感覚を・・・遙斗も共有する。同情して折れそうになる気持ちを振り払い彼は云った。
『わからない事を言うな! これから彼を救う知れない方法をアンタの脳味噌に直接送るからな! その通りにするんだぞ、いいな!』
雷に打たれたように硬直する瑞穂。
遙斗から、未来へと連なる膨大な知識が流れ込んできた。
後は、瑞穂が決断するのだ。
「・・・わかった。光時が救えるのならば、わらわはどうなっても構わぬ」
瑞穂は、一瞬の躊躇もせず、己の感情より、光時の『生』を選択した。
そして彼女は、あの洞窟へと向かった。
光時から聞いていた説明を辿り進む。女の足でも洞窟まで数分で到着した。瑞穂をさらった鬼達の遁走は、既に街から洞窟までの距離を殆ど走破していたのだ。
山の中腹に穿たれた深淵の風穴。
充満する空気が許容するギリギリまで溶けきった水分が、湿度を好むカビ臭を育んでいる。入り口に立っただけで、ただならぬ霊気が薄暗い洞窟の奥から流れ出ているのを感じた。
それでも、瑞穂は足を踏み入れた。掛替えのない男の命火を守りたい一心で。
ゴツゴツとした岩場に何度となく躓いて、膝から下を血塗れにしながらも、手探りで奥へ奥へと突き進む。
ようやく辿り着いた洞窟の最深部には、大きな一枚岩が立ち塞がっていた。
科学知識の無い者には充分なカムフラージュだったのだろうが、コンクリートや合成樹脂の存在を知っている現代人の遙斗には一目で人工物だと判った。しかも、その岩にだけ苔が付着していない。
擬装の努力が足りないよ、と遙斗は瑞穂の意識の中で囁いた。その言葉を聞いて、周囲をまさぐる瑞穂。しかし、期待した隠しスイッチの類は、何も発見出来なかった。
落胆して岩にもたれ掛かった瞬間、瑞穂の身体が岩を透過して内部に転がり込んだ。
実際には岩がパックリと割れて、「開けゴマ」状態なのだったが、何が合い言葉だったのかは判らない。元々、セキュリティレスの自動ドアだったのかも知れない。
これ程無防備な理由はただ一つ。この場所を管理する者は、この時代の人間を舐めているのだ。少なくとも技術的優位を確信している。
つまり、此処の主は、やはり、この時代の存在ではない、という事なのか?
遙斗の疑問は瑞穂にも伝わったが、彼女には、その意味が解らなかった。
瑞穂が転がり込んだ空間は、光時が話していた通り、蝋燭やランプの類とは違う得体の知れない発光物で照明された、天井の高い、四方を無機質な材質の壁で囲まれた部屋だった。
遙斗の指示に従って室内の様子を見て廻った瑞穂は、部屋の奥に大きな水槽を見付けた。中には黄色に染まった培養液に満たされ、村を襲った鬼達が浸かっている。
よく眼を凝らしてみると培養液の中には小さなオタマジャクシが蠢いていた。ただ、普通のオタマジャクシと違っていたのは、蛍の様に生体発光している事だった。
興味深く水槽の中を観察する瑞穂=遙斗。
突然、二人をピンスポットが狙ってきた。眩しい光に視覚を奪われ、その場にうずくまる瑞穂。ただの光では無かったのか、彼女の全身は痺れて、意識が遠退いていった。
「おい!」と遙斗が覚醒を促したが、結局、彼女はそのまま気絶してしまった。
遙斗は、ブラックアウトした瑞穂の意識に取り残されたまま、暫く無為な時間を過ごさねばならなかった。
意識体の遙斗が視覚と認識している領域に、果てしない漆黒の海が無限に拡がっていく。もしかしたら瑞穂はもう目覚めないのではないか、という不安がループになって幾度と無く遙斗を襲ってきた。
『閉所恐怖症というのはこんな感じかな? もっとも空間だけでなく時間も閉鎖された状態だから閉時空恐怖症かな?・・・』どっちにしても限界だ。意識が混濁してきた・・・遙斗が諦めかけた、その瞬間。
遙斗の回りを満たしていた深淵を眩い稲妻が覆いつくした。何もなかった空間を光の奔流が席巻している。
しかし、音はしない。ただ、遠く囁く様な人の声が聞こえた。
「・・・驚いた・・・異時間の・・・同期している・・・」
突然、稲妻は去り、遙斗の意識は再び漆黒に包まれた。
変化の予感が裏切られ落胆する遙斗だったが、突然、光が知覚された。今度の光は、暗闇の一部が裂けて、そこから差し込んで来た。木漏れ日に似ている。
しかし、それは瑞穂の視覚に入射した外界の光だった。光が差し込む亀裂が、一本の筋からアーモンド形になっていく。眼の形だ。瞼が徐々に開かれているのだ。
瑞穂が覚醒しようとしている。遙斗は悟った。
しかし、喜び勇んではいられない。瑞穂が目覚めた瞬間に正しい行動をさせなくては。
気絶した状況から考えて、あまり好ましく無い現実が待ち受けているに違いない。場合によっては緊急事態かも知れない。
遙斗は、瑞穂の網膜に映る情景が脳に送られるよりも速く、周囲の現況を把握すべく身構えた。
・・・ああ、天狗がいる。
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