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#12 鶴野の罪
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それから1週間、大学の講義が始まる。
栗田はるかが正門を抜けると、前方を歩く長身の姿を見つける。友人だと思ったがどこか違う──背中の中ほどまであった髪は短くなっていた、姫カットだったこめかみ辺りの髪の長さに合わせて後ろ髪を切ったソフトマッシュになっているのだ。いつもタイトスカートできれいな足を見せていた細身の体は、ジーンズとTシャツに包んでいる。一瞬は人違いかと思ったが、歩き方だろうか、親友だと確信した。
「ユキー!」
声をかけ小走りに近づく、呼びかけにその人は振り返った。
やや緊張した面持ちの石沢悠希は足を止めはるかが近づくのを待った、はるかは一瞬、歩みが遅くなる──やはり別人だと思ったのだ、化粧をしてない悠希は服装といい完全に男性だった。だが面影はある、見覚えのある泣きほくろがその事実を伝えてくれた。
ああそうか、これが彼女──いや、彼なのだと分かった。
十分近づいてから足を止め、待っていてくれた悠希を見上げる。
「今日はどうしたの? 髪まで切って」
笑顔で聞いていた、悠希は恥ずかし気に目を反らす。
「ごめん──なんか変に噂になるよりは、って思って、ごめん、はるか、せっかく庇ってくれたのに」
声すらはるかの知らない低い声だ。まあ確かにとはるかは思う、掲示板にも一定数の否定する言葉は散見していた。そんな者たちに後ろ指を指されるくらいならば男性として振る舞ったほうがいいのかもしれないが。
「いいの? アイデンティティを隠すのは辛くない?」
優しい言葉に悠希は笑って返す。
「ありがとう、なんでみんなそんなに心が広いんだろう」
トランスジェンダーなど、もっと嫌われていると思った──こんなにも受け入れてもらえるなら、なぜ隠し続けてしまったのか。
「うーん? 私はやおい、好きだったし」
「……やおい?」
知らぬ単語に頭を傾げる。
「あ、ごめん、それは昔の言葉、性嗜好の話ね」
そう言って微笑み、詳しい説明はしない。
「まあ理解はあるつもり、同性愛とか、トランスジェンダーとか、クロスジェンダー含め、全然嫌いじゃない。当事者のユキからしたら浅い知識でしょうけど、心と体の性が合わない人がいるという理解している、それが苦しいだろうなっていうのも想像もできる、私は完全に女の自覚があって、この体が男性だったらって思えばやっぱり苦悩すると思うわ。でもその不一致が気にならない人もいることも知っているし、それに性自認が変化していく人もいると聞いたことがあるから、ユキはそれなのかもしれないわね」
「そうなのかしら……」
「鶴野のバカのせいで破れかぶれになってるならやめてね。もちろん男として生きていくことにしたと言うなら大歓迎だし、そもそも男女を分ける必要もないのかな?」
「そうね……ありがと。やっぱり女性でいたいとなったら、その時はブレることなくそうするわ」
声は男性なのに言葉遣いはどこか女性らしい、はるかの前だとそうなってしまうという自覚は悠希にはなかった。はるかはくすりと微笑んでいた。
「うん、それがいい。、ユキはユキらしくが一番、ユキが選んだ道を応援する」
今まで違和感なく女性だった悠希だ、無理はしてほしくないとはるかが笑顔で言った時だった。
「悠希くん!?」
背後の声に振り返っていた、天音が満面の笑みで手を振りながら小走りにやってくる。
「あー……そういうことか」
はるかはにやりと笑い、悠希を見る。
「天音ちゃん、とても積極的だと思ってたけど、初めから知っていたんだものね」
言われて悠希は視線を反らして逃げる。
「悠希くーん!」
嬉しそうに呼び、突撃する勢いで悠希に抱き着いた。
「大学もその恰好で来たんだ! やっぱかっこいい!」
天音の嬉しそうな声が響いた。先ほどから道行く人がチラチラと悠希の姿を確認し誰だろうと思っていたが、天音の様子に恋人だと判り途端に興味を失っていく。
「名前は、本当は『ゆうき』なのね?」
はるかが確認する。
「うん、字はそのままで読み方だけ……別に『ゆうき』って名の女性もいるだろうけど、もう少し女性らしくなるかなって」
「そっか。私はどっちで呼んだらいい?」
「どっちでも──呼びやすいほうで」
「そ」
ならばしばらくは『ユキ』と呼ぶことになるだろうか、出会って2年半、ずっとそう呼んでいたのだ。
「うーん……確かにかっこいいわよねえ……女性としても美人だと思ってたけど、なんか悔しい」
「そんな……」
「あげませんよ!」
天音は悠希に密着したまま、顔だけをはるかに向ける。
「これは私のなんですから!」
「これって」
物扱いに悠希は呆れるが、
「はるかさんと仲がいいのは判っているだけに譲れん! やっと想いも伝えられたのに!」
天音は悠希と密着したまま見上げ訴える。
「悠希くんも私が好きなんだもんねっ!」
強引とも思える天音の言葉が嬉しく心に響く。
「うん、大好きだよ」
身を屈め、小さな天音の体をしっかりと抱きしめる。
そんな二人の姿にはるかは肩をすくめた、横取りするつもりなど毛頭ないが、誤解で馬に蹴れるつもりない。
☆
それが面白くないのは、噂を流した鶴野本人だ。
「はあああ!? ユキが男になって現れた~!?」
初めは誰も気づけなかったと耳に入った、だがはるかと親しくしている様子と、いつもいるはずの『ユキ』がいないこと、そして鶴野が流した情報からその男が『ユキ』本人で、本当に男だったともちきりになったようだ。
講義の合間に噂は流れてきた、どうにも面白くない。学部が違うため鶴野はその姿は見れていないが、皆が言うのは美男子だという。あの顔なら間違いがあってもいいなどと冷やかすような話まで流れてきて無性に腹が立った、いや、むしろそこをついてからかってやろうと画策を始める。
そして放課後はキャンパスコンテストの実行委員会の集まりがある、ホームページの更新やアクセス件数の解析、新たな撮影スケジュールの話しあいなどするための集合だ。
その場でも悠希の話で盛り上がっていた。皆で本当に男だった、やべえかっこいいなど口々に言ってる最中に、はるかと一緒に悠希は現れた、皆の口があんぐりと開く。
「──ども」
その意味は聞かなくても悠希は分かり、ぺこりと頭を下げて短く挨拶をしたが。
「は! 正体がバレて逃げられないから、馬脚を露したか!」
この時とばかりに鶴野は声を張り上げた。それを言われては悠希の胸が痛む、まったくの的外れではない。
「まったく飛んだ変質者じゃーん! 女装して学校来てたなんて! キッモ!」
「それについては反論するつもりはありませんが」
悠希は小さく深呼吸をしてから冷静に言葉を紡ぐ、ハスキーな裏声とは違う地声は、確かに発声しやすそうだと聞いている皆が思った。
「できれば在学中に適合手術を受けるつもりがあったことはお知らせしておきます。学校にも入学時にそう伝えてありました」
悠希の言葉をはるかはその隣でうなずいた、皆もそれに従う、サークルのネット掲示板などで流されてしまった情報で多くの者の耳に入っていた。
「え、噂になっちゃったから、諦めちゃった感じ?」
実行委員の一人が心配そうに聞いた、トランスジェンダーを隠すのは辛いだろう。
「えっと、まあ、それが誘因だったのは事実ですけど、正直ほっとしたというのもあって……あの、すみません、天音と交際を始めたので、天音のためにも……」
それも隠しておけないと正直に話したが、食いついたのは鶴野だ。
「はああ? 女装もしてた性自認女が、なんで天音ちゃんと付き合ってんの~? レズですなんて言い訳すんなよぉ? 結局ノーマルなのに女装で周り騙して、女たちに囲まれてウハウハしてた変態だったってことっしょ? マジキモ!」
そういわれては身も蓋もない、悠希はかすかに唇を噛み締めたが、
「はあああ?」
ふんぞり返り答えたのは、はるかだった。
「その変態を裏でコソコソつるし上げようとしてた男の方がよっぽど頭おかしいし、キモイんですけど~」
言われて鶴野の顔が引きつる。
「お、俺はただ、真実を知りたいと……!」
苦し紛れに言うが、はるかが仁王立ちのまま答える。
「男だろうが女だろうが、ユキはユキなのよ」
噂になっていたというネット掲示板でもそう言ってくれたのだろう、悠希の胸が熱くなる。
「ただの女装ってバカにすんじゃないわよ、鶴野さんが罰ゲームで女装するのとは訳が違うのよ、人生をかけて女になりたい気持ちの表れでしょうが、少しは理解しなさいよ。天音ちゃんを恋人に選んだって言うのも、レズだろうがノーマルだろうが鶴野さんには関係ないでしょ。ありのままのユキを受け入れた天音ちゃんという最高の女性を選んだ、素敵なことじゃない。女なら誰でもいい鶴野さんとは違うのよ」
それには皆が頷いてしまう、まったくの正論だ。悠希は小さな声で礼を述べていた。
「俺だって誰でもいいわけじゃねえわ、つかそこで変態ユキと一緒にしてほしくねえし!」
「人間が違うのよ、ここへ来ても人を蔑む能しかない人とは!」
はるかの嫌味に鶴野は舌打ちをして黙り込んだ。
「はあ……しっかし見れば見るほど美形……」
砂羽が見惚れて言う。
「男でも女でも美形ってなんなん……ううん、男性でめちゃくちゃ美形だから女になっても違和感がなかったのか」
「本当ーっ、うちら、完全に負けるわー!」
他の参加者の一人も肩をすくめながら声を上げた。
「鶴野くんも勝てないわ」
別の参加者の嫌味に鶴野はふんと鼻を鳴らすだけで答えに変える。
「ねえねえ、岩崎くんとどっちが美形かな、来年は二人でコンテストに参加してほしい、一般からの得票数で判定したら面白そう。あ! めっちゃかっこいい写真撮って、ブロマイドとして販売しません!? 相当稼げそう!」
「お、いいね、それ採用」
そんな前例のない企画で実行委員がメンバーで盛り上がっていると、悠希たちの背後のドアがノックされ開いた。
「こんにちわー、お久しぶりでーす!」
天音が元気に入ってくる、だがドアの前には悠希とはるかが陣取っていて中が見えなかった。
「今からでも私が口説きたーい!」
女性の声にいち早く反応したのは天音だ、口説かれようとしているのが悠希だとなぜだか一瞬で判った。
「ダメでーす、悠希くんは、私の彼氏でーす」
悠希の腰に背後から抱き着き天音は宣言する、もちろん皆も笑ってそれを肯定した、いらっしゃい、久しぶりなどと挨拶も返ってくる。
「もう、悠希くん、やっぱ女の子のままでいて。私、やきもちし過ぎて死んじゃうかも」
天音の文句に、悠希は微笑み天音に腕をかけると前方に引き寄せ抱きしめた。
「それは気が向いたらね」
そんな言葉に天音は笑顔で悠希の体に頬をこすりつける、どちらの悠希も好きなのは事実だ。
その時部屋のドアがノックされた、返事を待たずにドアは開く。やってきたのは年配の男性二人──大学の理事と事務だった、天音たち三人は脇に避けて二人をいざなう。
「ミスコンの実行委員会だね、委員長はいるかい」
白髪の理事が声をかける、委員長はすぐに立ち上がった。
「──ああ、鶴野くんもいるのか」
言われ鶴野は椅子の背もたれに寄り掛かりそちらを見た。
「──ちょうどよかった、少し話がある、一緒に来てくれ」
何のことなのか、鶴野は自分かと指さしてみる。
「委員長、申し訳ないが鶴野くんは、キャンパスコンテストのメンバーから外してくれ」
はい?と聞き返したのは全員といっていい。
「先刻メールが来てね。添付されていた動画に由々しき事態が映されていた」
「由々しき事態?」
委員長が立ち上がり聞き返す。
「20歳未満の人への飲酒の強要の一部始終だ、それは問題行動です」
「は!?」
鶴野は勢いをつけて立ち上がる。
「なんのことっすか! 俺、そんなことした覚えないっすよ!」
「詳しくは別室で聞こう、被害者という子もこれから調べ──」
と何気なく視線を動かした理事が、天音を見て言葉を止めた。
「君、鶴野くんとカラオケに行ったかね?」
天音はほんの1秒だけ考え、あ、と思い当たった。
「はい、行きました、8月のことです」
理事と事務は顔を見合わせうなずく。
「鶴野くんにお酒を勧められたね?」
「はい、でも鶴野さんだけじゃなくて、その場にいた人みんなに……あ! でも私、飲んでません! え、少しは飲んじゃいましたけど、そんな」
無実だと両手を振りながら答えたが。
「うんうん、大丈夫だよ、全ては動画に収まっていた、君は勧められる度に断り、ソフトドリンクを飲んでいた」
一連の動きが収まっていた。天音が飲んでいるジュースのグラスに鶴野たちが酒を注ぐのだ、しかも別の者が声をかけた隙にという連係プレーである。一口飲んだ天音が気付き文句を言うと鶴野たちは気のせいだというが、天音はそれを鶴野たちに渡し、別のグラスにしようとする。すると別の者がグラスを差し出すがそれも酒が入っており気づいた天音が文句を言うが、大丈夫、飲め飲め、行けるっしょと囃し立てる様子がしっかりと──時間にして十分程度で音声は歌声に掻き消され気味で不明瞭だが、事の次第ははっきりと判る内容だった。天音の顔自体はさすがに目のあたりのみだがぼかしが入っていた、それでも今本人を前にすれば天音と一致する。
鶴野が盛大な舌打ちをする。
「誰だよ、んなもん撮ったの……!」
あの日は気心の知れたメンバーだった、そんな裏切り行為をするとは思えない──実際には天音への暴行の様子を撮ろうと画策した者がいた、天音を気に入り後日脅しのネタにもするためだったが、天音に逃げられたのが悔しく勝手に動画をSNSにあげてしまったのだ。「拉致失敗!」「星林JD」「女はやっぱ18歳」「酒豪女子に完敗!」などとハッシュタグをつければ、誰に何をしたのか告白しているようなものだ、匿名で大学に通報された。
「ちょっとした悪ふざけでした、実際にはなにも起きてませんし、すみませんでした」
鶴野は弁明し、最敬礼で頭を下げたが。
「詳しく聞こう。実行委員長、そういうことだから」
「はい」
「え、そんな、俺はやめな……!」
鶴野の叫び声は委員長の返事を掻き消した。
「あまり見苦しいことをすると学校も辞めることになるが、いいか」
威圧的な声に鶴野は諦め、荒々しい足取りで部屋を出て行く。途中天音の前を通ると殺さんばかりに睨みつけたが、悠希が抱きしめその視界から逃れさせる。
委員長が大きなため息を吐いた。
「ホームページのチェックをする日でよかった……かな。さすがに問答無用で鶴野くんのページは削除しよう、理由は、一身上の都合、でいいかな」
担当がはいと答えてその操作を行う、他のメンバーもため息交じりに囁きあっていた、おおむね同情の余地はない、身から出た錆でしょうと呆れた様子だった。
はるかが天音の肩を叩く。
「酒を飲ませて何をしようとしてたんだか……天音ちゃんが未遂で済んでよかったわ、もしかしたら余罪たっぷりだったして」
「えー、でも鶴野さんたち、お酒、めっちゃ弱かったですよ? あれじゃあ女の子を酔わせてどうこうなんてできないと思います」
天音が指を振り振り言う様子に、悠希は呆れる。
「それは違うでしょ、天音ちゃんが小悪魔過ぎただけ」
「え! なんで悪口!?」
「飲ませたいなら自分たちが飲めって勧めて潰したって言ってなかった?」
「え、でもだって、それは自己防衛で潰す意図はまったくなく……あ、でもそうそう! 結局悠希くんが来てくれて、助かったんです! あの時の悠希くん、かっこよかったぁ」
嬉しそうに言って再度悠希の腰に抱き着く天音は完全に惚気ている、もう既にお似合いの二人なのだと周囲は呆れるばかりだ。
結果、鶴野は1週間の停学処分を受けた。その事実を知る者は多くなかったが、キャンパスコンテストのエントリーから消えたことが話題になり、20歳未満に酒を勧めたという話は瞬く間に広がった。そして恐れていたとおり同様の被害があったと十数に上る申し出があり──鶴野と数名の男子が学校から去ったことは、あまり大きな話題にはならなかった。
栗田はるかが正門を抜けると、前方を歩く長身の姿を見つける。友人だと思ったがどこか違う──背中の中ほどまであった髪は短くなっていた、姫カットだったこめかみ辺りの髪の長さに合わせて後ろ髪を切ったソフトマッシュになっているのだ。いつもタイトスカートできれいな足を見せていた細身の体は、ジーンズとTシャツに包んでいる。一瞬は人違いかと思ったが、歩き方だろうか、親友だと確信した。
「ユキー!」
声をかけ小走りに近づく、呼びかけにその人は振り返った。
やや緊張した面持ちの石沢悠希は足を止めはるかが近づくのを待った、はるかは一瞬、歩みが遅くなる──やはり別人だと思ったのだ、化粧をしてない悠希は服装といい完全に男性だった。だが面影はある、見覚えのある泣きほくろがその事実を伝えてくれた。
ああそうか、これが彼女──いや、彼なのだと分かった。
十分近づいてから足を止め、待っていてくれた悠希を見上げる。
「今日はどうしたの? 髪まで切って」
笑顔で聞いていた、悠希は恥ずかし気に目を反らす。
「ごめん──なんか変に噂になるよりは、って思って、ごめん、はるか、せっかく庇ってくれたのに」
声すらはるかの知らない低い声だ。まあ確かにとはるかは思う、掲示板にも一定数の否定する言葉は散見していた。そんな者たちに後ろ指を指されるくらいならば男性として振る舞ったほうがいいのかもしれないが。
「いいの? アイデンティティを隠すのは辛くない?」
優しい言葉に悠希は笑って返す。
「ありがとう、なんでみんなそんなに心が広いんだろう」
トランスジェンダーなど、もっと嫌われていると思った──こんなにも受け入れてもらえるなら、なぜ隠し続けてしまったのか。
「うーん? 私はやおい、好きだったし」
「……やおい?」
知らぬ単語に頭を傾げる。
「あ、ごめん、それは昔の言葉、性嗜好の話ね」
そう言って微笑み、詳しい説明はしない。
「まあ理解はあるつもり、同性愛とか、トランスジェンダーとか、クロスジェンダー含め、全然嫌いじゃない。当事者のユキからしたら浅い知識でしょうけど、心と体の性が合わない人がいるという理解している、それが苦しいだろうなっていうのも想像もできる、私は完全に女の自覚があって、この体が男性だったらって思えばやっぱり苦悩すると思うわ。でもその不一致が気にならない人もいることも知っているし、それに性自認が変化していく人もいると聞いたことがあるから、ユキはそれなのかもしれないわね」
「そうなのかしら……」
「鶴野のバカのせいで破れかぶれになってるならやめてね。もちろん男として生きていくことにしたと言うなら大歓迎だし、そもそも男女を分ける必要もないのかな?」
「そうね……ありがと。やっぱり女性でいたいとなったら、その時はブレることなくそうするわ」
声は男性なのに言葉遣いはどこか女性らしい、はるかの前だとそうなってしまうという自覚は悠希にはなかった。はるかはくすりと微笑んでいた。
「うん、それがいい。、ユキはユキらしくが一番、ユキが選んだ道を応援する」
今まで違和感なく女性だった悠希だ、無理はしてほしくないとはるかが笑顔で言った時だった。
「悠希くん!?」
背後の声に振り返っていた、天音が満面の笑みで手を振りながら小走りにやってくる。
「あー……そういうことか」
はるかはにやりと笑い、悠希を見る。
「天音ちゃん、とても積極的だと思ってたけど、初めから知っていたんだものね」
言われて悠希は視線を反らして逃げる。
「悠希くーん!」
嬉しそうに呼び、突撃する勢いで悠希に抱き着いた。
「大学もその恰好で来たんだ! やっぱかっこいい!」
天音の嬉しそうな声が響いた。先ほどから道行く人がチラチラと悠希の姿を確認し誰だろうと思っていたが、天音の様子に恋人だと判り途端に興味を失っていく。
「名前は、本当は『ゆうき』なのね?」
はるかが確認する。
「うん、字はそのままで読み方だけ……別に『ゆうき』って名の女性もいるだろうけど、もう少し女性らしくなるかなって」
「そっか。私はどっちで呼んだらいい?」
「どっちでも──呼びやすいほうで」
「そ」
ならばしばらくは『ユキ』と呼ぶことになるだろうか、出会って2年半、ずっとそう呼んでいたのだ。
「うーん……確かにかっこいいわよねえ……女性としても美人だと思ってたけど、なんか悔しい」
「そんな……」
「あげませんよ!」
天音は悠希に密着したまま、顔だけをはるかに向ける。
「これは私のなんですから!」
「これって」
物扱いに悠希は呆れるが、
「はるかさんと仲がいいのは判っているだけに譲れん! やっと想いも伝えられたのに!」
天音は悠希と密着したまま見上げ訴える。
「悠希くんも私が好きなんだもんねっ!」
強引とも思える天音の言葉が嬉しく心に響く。
「うん、大好きだよ」
身を屈め、小さな天音の体をしっかりと抱きしめる。
そんな二人の姿にはるかは肩をすくめた、横取りするつもりなど毛頭ないが、誤解で馬に蹴れるつもりない。
☆
それが面白くないのは、噂を流した鶴野本人だ。
「はあああ!? ユキが男になって現れた~!?」
初めは誰も気づけなかったと耳に入った、だがはるかと親しくしている様子と、いつもいるはずの『ユキ』がいないこと、そして鶴野が流した情報からその男が『ユキ』本人で、本当に男だったともちきりになったようだ。
講義の合間に噂は流れてきた、どうにも面白くない。学部が違うため鶴野はその姿は見れていないが、皆が言うのは美男子だという。あの顔なら間違いがあってもいいなどと冷やかすような話まで流れてきて無性に腹が立った、いや、むしろそこをついてからかってやろうと画策を始める。
そして放課後はキャンパスコンテストの実行委員会の集まりがある、ホームページの更新やアクセス件数の解析、新たな撮影スケジュールの話しあいなどするための集合だ。
その場でも悠希の話で盛り上がっていた。皆で本当に男だった、やべえかっこいいなど口々に言ってる最中に、はるかと一緒に悠希は現れた、皆の口があんぐりと開く。
「──ども」
その意味は聞かなくても悠希は分かり、ぺこりと頭を下げて短く挨拶をしたが。
「は! 正体がバレて逃げられないから、馬脚を露したか!」
この時とばかりに鶴野は声を張り上げた。それを言われては悠希の胸が痛む、まったくの的外れではない。
「まったく飛んだ変質者じゃーん! 女装して学校来てたなんて! キッモ!」
「それについては反論するつもりはありませんが」
悠希は小さく深呼吸をしてから冷静に言葉を紡ぐ、ハスキーな裏声とは違う地声は、確かに発声しやすそうだと聞いている皆が思った。
「できれば在学中に適合手術を受けるつもりがあったことはお知らせしておきます。学校にも入学時にそう伝えてありました」
悠希の言葉をはるかはその隣でうなずいた、皆もそれに従う、サークルのネット掲示板などで流されてしまった情報で多くの者の耳に入っていた。
「え、噂になっちゃったから、諦めちゃった感じ?」
実行委員の一人が心配そうに聞いた、トランスジェンダーを隠すのは辛いだろう。
「えっと、まあ、それが誘因だったのは事実ですけど、正直ほっとしたというのもあって……あの、すみません、天音と交際を始めたので、天音のためにも……」
それも隠しておけないと正直に話したが、食いついたのは鶴野だ。
「はああ? 女装もしてた性自認女が、なんで天音ちゃんと付き合ってんの~? レズですなんて言い訳すんなよぉ? 結局ノーマルなのに女装で周り騙して、女たちに囲まれてウハウハしてた変態だったってことっしょ? マジキモ!」
そういわれては身も蓋もない、悠希はかすかに唇を噛み締めたが、
「はあああ?」
ふんぞり返り答えたのは、はるかだった。
「その変態を裏でコソコソつるし上げようとしてた男の方がよっぽど頭おかしいし、キモイんですけど~」
言われて鶴野の顔が引きつる。
「お、俺はただ、真実を知りたいと……!」
苦し紛れに言うが、はるかが仁王立ちのまま答える。
「男だろうが女だろうが、ユキはユキなのよ」
噂になっていたというネット掲示板でもそう言ってくれたのだろう、悠希の胸が熱くなる。
「ただの女装ってバカにすんじゃないわよ、鶴野さんが罰ゲームで女装するのとは訳が違うのよ、人生をかけて女になりたい気持ちの表れでしょうが、少しは理解しなさいよ。天音ちゃんを恋人に選んだって言うのも、レズだろうがノーマルだろうが鶴野さんには関係ないでしょ。ありのままのユキを受け入れた天音ちゃんという最高の女性を選んだ、素敵なことじゃない。女なら誰でもいい鶴野さんとは違うのよ」
それには皆が頷いてしまう、まったくの正論だ。悠希は小さな声で礼を述べていた。
「俺だって誰でもいいわけじゃねえわ、つかそこで変態ユキと一緒にしてほしくねえし!」
「人間が違うのよ、ここへ来ても人を蔑む能しかない人とは!」
はるかの嫌味に鶴野は舌打ちをして黙り込んだ。
「はあ……しっかし見れば見るほど美形……」
砂羽が見惚れて言う。
「男でも女でも美形ってなんなん……ううん、男性でめちゃくちゃ美形だから女になっても違和感がなかったのか」
「本当ーっ、うちら、完全に負けるわー!」
他の参加者の一人も肩をすくめながら声を上げた。
「鶴野くんも勝てないわ」
別の参加者の嫌味に鶴野はふんと鼻を鳴らすだけで答えに変える。
「ねえねえ、岩崎くんとどっちが美形かな、来年は二人でコンテストに参加してほしい、一般からの得票数で判定したら面白そう。あ! めっちゃかっこいい写真撮って、ブロマイドとして販売しません!? 相当稼げそう!」
「お、いいね、それ採用」
そんな前例のない企画で実行委員がメンバーで盛り上がっていると、悠希たちの背後のドアがノックされ開いた。
「こんにちわー、お久しぶりでーす!」
天音が元気に入ってくる、だがドアの前には悠希とはるかが陣取っていて中が見えなかった。
「今からでも私が口説きたーい!」
女性の声にいち早く反応したのは天音だ、口説かれようとしているのが悠希だとなぜだか一瞬で判った。
「ダメでーす、悠希くんは、私の彼氏でーす」
悠希の腰に背後から抱き着き天音は宣言する、もちろん皆も笑ってそれを肯定した、いらっしゃい、久しぶりなどと挨拶も返ってくる。
「もう、悠希くん、やっぱ女の子のままでいて。私、やきもちし過ぎて死んじゃうかも」
天音の文句に、悠希は微笑み天音に腕をかけると前方に引き寄せ抱きしめた。
「それは気が向いたらね」
そんな言葉に天音は笑顔で悠希の体に頬をこすりつける、どちらの悠希も好きなのは事実だ。
その時部屋のドアがノックされた、返事を待たずにドアは開く。やってきたのは年配の男性二人──大学の理事と事務だった、天音たち三人は脇に避けて二人をいざなう。
「ミスコンの実行委員会だね、委員長はいるかい」
白髪の理事が声をかける、委員長はすぐに立ち上がった。
「──ああ、鶴野くんもいるのか」
言われ鶴野は椅子の背もたれに寄り掛かりそちらを見た。
「──ちょうどよかった、少し話がある、一緒に来てくれ」
何のことなのか、鶴野は自分かと指さしてみる。
「委員長、申し訳ないが鶴野くんは、キャンパスコンテストのメンバーから外してくれ」
はい?と聞き返したのは全員といっていい。
「先刻メールが来てね。添付されていた動画に由々しき事態が映されていた」
「由々しき事態?」
委員長が立ち上がり聞き返す。
「20歳未満の人への飲酒の強要の一部始終だ、それは問題行動です」
「は!?」
鶴野は勢いをつけて立ち上がる。
「なんのことっすか! 俺、そんなことした覚えないっすよ!」
「詳しくは別室で聞こう、被害者という子もこれから調べ──」
と何気なく視線を動かした理事が、天音を見て言葉を止めた。
「君、鶴野くんとカラオケに行ったかね?」
天音はほんの1秒だけ考え、あ、と思い当たった。
「はい、行きました、8月のことです」
理事と事務は顔を見合わせうなずく。
「鶴野くんにお酒を勧められたね?」
「はい、でも鶴野さんだけじゃなくて、その場にいた人みんなに……あ! でも私、飲んでません! え、少しは飲んじゃいましたけど、そんな」
無実だと両手を振りながら答えたが。
「うんうん、大丈夫だよ、全ては動画に収まっていた、君は勧められる度に断り、ソフトドリンクを飲んでいた」
一連の動きが収まっていた。天音が飲んでいるジュースのグラスに鶴野たちが酒を注ぐのだ、しかも別の者が声をかけた隙にという連係プレーである。一口飲んだ天音が気付き文句を言うと鶴野たちは気のせいだというが、天音はそれを鶴野たちに渡し、別のグラスにしようとする。すると別の者がグラスを差し出すがそれも酒が入っており気づいた天音が文句を言うが、大丈夫、飲め飲め、行けるっしょと囃し立てる様子がしっかりと──時間にして十分程度で音声は歌声に掻き消され気味で不明瞭だが、事の次第ははっきりと判る内容だった。天音の顔自体はさすがに目のあたりのみだがぼかしが入っていた、それでも今本人を前にすれば天音と一致する。
鶴野が盛大な舌打ちをする。
「誰だよ、んなもん撮ったの……!」
あの日は気心の知れたメンバーだった、そんな裏切り行為をするとは思えない──実際には天音への暴行の様子を撮ろうと画策した者がいた、天音を気に入り後日脅しのネタにもするためだったが、天音に逃げられたのが悔しく勝手に動画をSNSにあげてしまったのだ。「拉致失敗!」「星林JD」「女はやっぱ18歳」「酒豪女子に完敗!」などとハッシュタグをつければ、誰に何をしたのか告白しているようなものだ、匿名で大学に通報された。
「ちょっとした悪ふざけでした、実際にはなにも起きてませんし、すみませんでした」
鶴野は弁明し、最敬礼で頭を下げたが。
「詳しく聞こう。実行委員長、そういうことだから」
「はい」
「え、そんな、俺はやめな……!」
鶴野の叫び声は委員長の返事を掻き消した。
「あまり見苦しいことをすると学校も辞めることになるが、いいか」
威圧的な声に鶴野は諦め、荒々しい足取りで部屋を出て行く。途中天音の前を通ると殺さんばかりに睨みつけたが、悠希が抱きしめその視界から逃れさせる。
委員長が大きなため息を吐いた。
「ホームページのチェックをする日でよかった……かな。さすがに問答無用で鶴野くんのページは削除しよう、理由は、一身上の都合、でいいかな」
担当がはいと答えてその操作を行う、他のメンバーもため息交じりに囁きあっていた、おおむね同情の余地はない、身から出た錆でしょうと呆れた様子だった。
はるかが天音の肩を叩く。
「酒を飲ませて何をしようとしてたんだか……天音ちゃんが未遂で済んでよかったわ、もしかしたら余罪たっぷりだったして」
「えー、でも鶴野さんたち、お酒、めっちゃ弱かったですよ? あれじゃあ女の子を酔わせてどうこうなんてできないと思います」
天音が指を振り振り言う様子に、悠希は呆れる。
「それは違うでしょ、天音ちゃんが小悪魔過ぎただけ」
「え! なんで悪口!?」
「飲ませたいなら自分たちが飲めって勧めて潰したって言ってなかった?」
「え、でもだって、それは自己防衛で潰す意図はまったくなく……あ、でもそうそう! 結局悠希くんが来てくれて、助かったんです! あの時の悠希くん、かっこよかったぁ」
嬉しそうに言って再度悠希の腰に抱き着く天音は完全に惚気ている、もう既にお似合いの二人なのだと周囲は呆れるばかりだ。
結果、鶴野は1週間の停学処分を受けた。その事実を知る者は多くなかったが、キャンパスコンテストのエントリーから消えたことが話題になり、20歳未満に酒を勧めたという話は瞬く間に広がった。そして恐れていたとおり同様の被害があったと十数に上る申し出があり──鶴野と数名の男子が学校から去ったことは、あまり大きな話題にはならなかった。
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