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#4 春の日の祝福

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それからも、明香里は水天宮を訪ねる。
三日と空けず。
そして大きな行事や節目の時には必ず。
天之御中主神アメノミナカヌシノカミは狐の姿を借りてでも再び会いたいと思うのに、狐はあれ以来近くに来ようとすらしない。

「何が神使だ」

文句は言うが、

「体を乗っ取られるのは、仕事のうちではございません」

白狐の言い分はもっともだ。

ある時、真新しい制服を着てやってきた、高校に入学したのだと判る。明香里はきちんと絵馬に希望の高校に受かる様にと書いていた。
それはここから遠くない、市内きっての進学校だ。近いからと言う理由で選んだ事にしているが、明香里の本心は、水天宮への日参を欠かしたくないからだった。
その入学式の帰りに、明香里は両親と共に参拝した。

「桜が満開ねえ」

浴衣姿しか見たことのない母が、境内の二本の桜を見上げて言った。

「そうだねえ、明香里の入学のお祝いだね」

初めて見る明香里の父も喜ぶ、すぐに大きな一眼レフで、桜を見上げて写真を撮り始めた。明香里や美幸もモデルに入れて撮影する。

「そうか、それはめでたいな」

天之御中主神アメノミナカヌシノカミは、厨子から顔を緩めてその様子を見ていた。明香里は笑顔で桜を見ていたが、それをもっと笑わせてやりたいと思う。

「どれ、俺も祝いをしてやろう」

左手を上げ、僅かに振るった。
途端に社の周りに一陣の風が吹く、それは二本の桜の木を揺らし、盛大に花吹雪を散らせる。

「きゃあ、すごーい!」

雨のように降り注ぐ花びらに、母は歓喜し、明香里は溜息を吐いて桜を見上げた。

「綺麗……」

思わず手を差し出す、そこへ一片の花びらがふわりと舞い降りた。まるで祝福だと、明香里の口元がほころぶ。
その笑顔に、天之御中主神も嬉しくなった。

「綺麗なのはお前だ」

満足気に呟いたが、

「天之御中主神さま!」

狐が遠くから怒鳴る。

「一体あなたは何をしておいでですか! こんな事に神通力を使うなど!」
「風が吹いただけだろう」
「あの娘に向かってでしょう! 全く、何事も無関心だったあなたが、一体どうしたと言うんですか!?」
「ふん、いい事をしたのに怒られるとはな」
「いい事ぉ!? どこがですか!」

狐は最近しゃべると怒ってしかいないな、と思ったが、それをいっては火に油を注ぐだけだとわかる。せっかく気分がいいのに、これ以上お小言が増えるのはかなわない、ただ笑顔で膝の上に頬杖をついた。


***


社の外は季節が移ろう。
天之御中主神アメノミナカヌシノカミは気温の変化でそれはわからないが、目ではわかる。
桜が散って新緑が眩しくなり、それが濃くなったころ夏が来てその終わりには例大祭がある。
明香里は真新しい浴衣で女友達と来ていた。いつものように手を合わせこうべを垂れる姿に、天之御中主神の感慨もひとしおだ。明香里を挟むように左右にいる友人達の姿など目に入っていない、初めて見るその顔は高校でできた友達だが、それすら関心はない。ただ友人たちとワイワイと楽し気にしている様子が嬉しかった。

そして日に日に太陽は力を弱め冬が訪れ、また春が来る。

毎日のように通う明香里は、社を見上げて溜息を吐く。

あの時会ったの少年は自分より年上だった、今は高校生か大学生か、もしかしたらもう社会人で、とっくにこの地を離れているかもしれない。
そう思っても、ここへ来てその姿を見る事を期待せずにはいられない。
せめてひと目会って、礼を伝えたい。もしかしたら相手はそんなこと忘れてしまっているかもしれないが、それは明香里にとって重要なことではなかった。

天之御中主神にはその気持ちがわかっていた、きちんと言葉にされなくてもわかることもあるのだと思った。
思いつめた瞳で社を、その奥の厨子をみつめられて、胸が締め付けられる。

「罪なことよ──」

いつか諦めるだろう、やがて姿を見れなくなってしまうかもと思っていたのに、明香里はかわらず日参を欠かさない。だからその気持ちに応えたいと心の底から思うのに、天之御中主神アメノミナカヌシノカミがどんなに念じても、その姿を具現化することはできない。狐の姿を借りてもいいが、それであの夜に会った男児だなどと言っても意味がない事だとわかる、そもそも狐がその役目を負おうとはしない。

「──もう一度、お前と手と繋いで歩いてみたいものだ……」

そんな些細な願いすら叶えられないとは。この世に神などいないと身をもって思い知る。





その年の例大祭に、例年通り明香里は浴衣姿で現れた、その姿を見て天之御中主神は嬉しそうに身を乗り出したが、すぐさま眉間に皴を寄せた。

「──なんだ、あいつは」

明香里のすぐ隣に男が並んで歩いていた。

たまたま並んでいるだけか、いいや違うとすぐにわかる。男は懸命に明香里に声を掛けていた、昂揚した顔からも明香里に何らかの想いがある事はすぐにわかった。
しかし明香里の方はうんうんと頷いているだけだ、完全に聞き手に回っているらしい。それが天之御中主神はなんとなく気に入らない、これで明香里が嬉しそうにしていれば祝福してやろうかと言う気にもなるが、嫌がっているのを無理矢理か、と思えたのだ。
そこへ、狐の耳がひょこんと視界に入ってきた。

「おお、あの娘に恋人ができたようですな。めでたい、めでたい」
「めでたいことなどあるか」

明香里が賽銭を投げ込んで手を合わせた、それを見て男も手を合わせ頭を下げる。
そんな姿にむか腹が更に立った。

「何を祈るか」
「早くねんごろになれるように、ではありませんかぁ?」
「──ねんごろ」

とびきり低い声で繰り返した。

「まあ、どんなに大切に思っても、しょせん娘もヒトの子ですからねえ。どう頑張ってあなた様があの娘と通じることなどないんですよ。いい加減無駄な片思いなど諦めて、素直にふたりの門出を祝福なさいませ」

狐が口上を述べる間にも、参拝を終えたふたりは目を合わせ微笑み合うと背を向けた。歩き出すと男の手が不自然に左右に揺れる、明香里と手を繋ごうと言う気らしい。

(その手は俺のものだ)

邪魔をしてやろうと言う心根が力に出た。

西に明るさが残る夕闇の空に、たちまち黒い雲が立ち込めた。人々がそれに気付くより前に雨が、まさしくバケツをひっくり返したが如く降り始める。

人々が悲鳴と共に右往左往し始める、ある者は屋根がある屋台に避難し、ある者は近くの建物に逃げ込んだ。

天之御中主神アメノミナカヌシノカミさま!?」

狐がとびきり甲高い声で叫ぶ。

「これはあなた様の力ですね!!! 今すぐ治めてください!」
「──やかましい」

失敗した、と臍を噛んでいるのは天之御中主神のほうだ。
明香里たちふたりは、すぐさま社の庇の下に戻って来た。手を繋ごうとする野望は阻止できたのに間違いないが、避難したふたりは突然の豪雨に互いの目を見て驚き、笑い合った。そして濡れてしまった男の髪を明香里は手提げの籠から出した小さなタオルで拭き始める。男は慌ててそれを止めて自分のハンカチで拭こうとしたが、何を思ったのかそれは明香里の頬を撫でた。
明香里は驚いたが、ふと笑みを零して受け入れた。そのまま互いに拭きあう形になる。
そんな姿に、天之御中主神はふん、と鼻を鳴らすしかない。

「──もう、俺は寝る」
「寝るって!!! そもそも睡眠も必要としていないのに!」

それでも背を向けて丸くなろうとする天之御中主神の背に、狐は怒声を浴びせる。

「雨は止ませてからにしてください! 天之御中主神アメノミナカヌシノカミさま!」
「あめあめ、うるさいのう」

そうは言うが、雨はぴたりと止んだ。

その様子に明香里たちは再び驚き見つめ合い、微笑み合うと歩き出す。今度はとても自然に男は明香里の肩を抱いていた。体をぴったりと寄せ合って雑踏に消えていくふたりの背を、天之御中主神は視界の端で睨むことしかできない。

(しょせん、俺とお前では──!)

奥歯を噛みしめるが、音すら響くことはなかった。





それからも明香里は、変わらず水天宮に寄り道をする。

それを天之御中主神は、厨子から見ている。

ときめく心を懸命に抑えた。
明香里の参拝は、単なる習慣なのだと思うことにした。他にも通りかかった折に氏神に挨拶をして行く者は多い、そのうちのひとりなのだ。必死になにかを願う様子には気づかないことにした。

厨子の奥に置いた風鈴のかんざしを手にする。

「──もうお前は、俺の手を必要としている幼子ではないのだな」

この簪をしていた少女はもういない、成長しないのは自分だけ、それはよくわかった。見た目だけではない、心もだ。

「あなた様は、そもそも誰かひとりのために存在しているのではありません」

狐の声がした、厨子の前の床にきちんとお座りの姿勢で座り厨子を見上げている。

「あなた様は造化三神、万物の中心、あらゆる存在のバランスと保つ役目。そして水天宮に祀られてからは、安徳天皇様のお護りする立場」
「わかっておる」
「ならば、もう世俗はお捨てください。以前の懶惰らんだな神にお戻りくださって構いませんから」
「──狐は一言多い」

溜息を吐いて身を小さくした、風鈴を身に抱え目を閉じる。

(思い出すくらいはいいだろう)

あの日、自分を頼り切って手を握り締めくれた小さな女の子の姿を。その手を取った時なんとも誇らしい気持ちになったことも。甘い香りとともによみがえるその記憶は、天之御中主神にとってはついこの間のような気がした。

(──もう一度くらい──)

小さな風鈴を頬にこすり付ける、もっともそれは何の感触もない。

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