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7.同伴出社
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月曜日の朝。ついに出社となる。
陽葵はせめて家を出る時間はずらしたいと訴えたが尚登には通じない。二人揃って家を出、エレベーターに乗り込んだ。そのエレベーターがすぐに減速する、誰かが乗り込んでくるのだ。嵌め殺しのガラス窓に見覚えのある顔が見えて、陽葵の顔は引きつった。
5階に住む中年女性──小宮だ。小宮からも二人は丸見えだ、目が合った瞬間からニコニコと、いや、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。
「まあまあまあまあ」
開くドアを押し開きながら入ってくる小宮の声はとても響いた。その小宮に場所を空けようと尚登は陽葵に体を寄せてくる、隅に追いやられ陽葵は体を小さくした。
「こんな朝早くから一緒だなんて、泊まって行かれたのかしら?」
二人の顔を見比べながらの言葉に、尚登はにこやかに「はい」と答え、陽葵は返事は濁した「ええ、まあ」となる。
「ついこの間、たまたま送ってくれた上司の方だって言ってたのに、ねえ?」
小宮は陽葵を見ていやらしい笑みを浮かべる、陽葵は今でも上司ですと陽葵は心の中で叫ぶ。
「友達を見送りに来ただけですとか言っていたのに、ねえ? まあまあ」
それは尚登への言葉だ、尚登はにこりと微笑み答える。
「ええ、押しかけてみました」
本当ですよと叫びたいのをぐっと抑え、ただ嵌め殺しの窓の外の流れていく景色を見ていた。早く1階に着いてほしいと願う陽葵とは裏腹に尚登と小宮は会話を楽しんでいる、尚登のコミュケーション能力が高さに陽葵は驚いた。
エレベーターはようやく1階に着いたが、建物を出ると行く方向は同じだった。小宮はその先のコンビニへ行くようだ、その手前の角まで一緒に行くことになる。
「んもう、お幸せにね~」
別れ際、大きな声で送り出された。数人だがいるまったく無関係の通行人の視線が陽葵には痛い。
慣れた経路でみなとみらい駅に到着する──ホームに降りた途端感じた、慣れているその場所がいつもと様子が違う。道すがら多くの社員の視線が突き刺さるのだ。少し離れていても挨拶をしてくるのはやはり副社長たる尚登がいるからか。そして普段は追い越して行く者などそうはいないと感じるが、今日はぐんぐん追い抜かれていく、地下から上がる長い長いエスカレーターではそれが顕著だった。その者がすれ違いざまに挨拶をしていくのは当然だと思うが、さらに先を行く者に声をかければ振り返りヒソヒソと話すのは、やはり二人の関係を話題にしているのだろうと想像できた。
そもそも尚登が目立ちすぎるのだと陽葵は意味もなく恨めしく思う。長身の美形で若い副社長、その者が陽葵を職場から連れ出したことなど社内中で噂になっているだろう。話題の中心にいることに恥ずかしさを感じ、エスカレーターを降りると尚登から離れるためと歩みを緩めようとした時、陽葵の手を尚登が握った。
「え……っ」
一瞬びくりとしてしまう、しかし優しい力で握られ、その手を信用していいのだと判った。このままなら顔を上げずに歩けると前向きにとらえ手を繋いだまま社屋へ入る。
受付嬢たちが尚登に気づき立ち上がる、だが陽葵の姿も見つけて途端にむっとしたのを陽葵は見逃さなかった。それでも受付嬢たちは最上の笑顔で挨拶をすれば、尚登も「おはよう」と答えた。陽葵も挨拶を返したが小さくなったのは、受付嬢たちの言葉が自分に向けてではないと判っているからだ。
受付を通りすぎれば、小さな声が聞こえてきた。
「……えー……本当に、仲良くご出勤よ~……?」
誰の声なのかは判らない、しかし込められた感情を読み取り陽葵は肩身が狭い。
「まだ子どもじゃない……副社長の趣味、疑う……」
囁き合うような声が聞こえてしまうとは──確かにろくにおしゃれも化粧もしていない自分など子どもかもしれない。そんな自分は末吉の副社長の相手にふさわしいわけがない──つないだ手が申し訳なく感じられそっと外そうとしたが、尚登は緩みかけた手を無意識のうちに強く握っていた。
その時尚登の視線の先に見知った横顔が見えた。
「あ、あの子」
声に陽葵が視線を追えば、そこには三宅がいた。その三宅がふとこちらを見たのは、周囲の挨拶をする声が聞こえたからだ。視線が合えば、やや遠くても尚登の方から手を振り「おはようございます」と声をかけていた、それまでの不特定多数にかける朝の挨拶とは違うことに皆も気づいた、途端に人混みが分かれ三宅までの道ができる。尚登はありがとう、ごめんねと言いながらその道を歩き三宅に近づいた。
「お、おはようございます!」
三宅はきちんと尚登に体を向け、90度まで体を曲げて元気に挨拶を返す。
「金曜日はありがとうございました」
尚登が営業向けの声と笑顔で言うと、三宅は陽葵が見たことがない笑顔で応じる。
「そんな! とんでもないです! 陽葵ちゃんのためなら!」
絶対そんなことは思っていないと感じ文句を言いたいが、陽葵は小さなため息とともに天井を見るだけにとどめた。
「助かりました、な、陽葵」
尚登は笑顔で言うと握った陽葵の手を持ち上げ、その指先にキスをした──陽葵は喉の奥で小さな悲鳴を上げたが、周囲が上げた悲鳴にかき消される。
「な、仲いいですねぇ……いつの間に?」
三宅は呆れたように言う。
「陽葵が入社したころから目をつけてました」
尚登はなんとも嬉しそうに嘘をつく、三宅さえもそんな馬鹿なと冷たく「へえ」と返した。
「あ、すみません、お名前を確認し忘れてました」
尚登に聞かれ、三宅はそれはそれは嬉しそうに微笑み、真っ赤になる頬を両手で包みながら叫ぶ。
「三宅さくらと申しますぅ!!!」
自己紹介を羨ましいと思った女性は一人や二人ではない、自分も個別認識してほしいと思うがここで名乗りを上げるわけにもいかない。
「さくらさんか、陽葵といい、花の名前はかわいくていいですね」
褒められ三宅は鼻息も荒くいえいえそんなこと謙遜した。陽葵は感心していた、確かに葵という文字は入っているが、向日葵を意識した名だと話したのを覚えているのだろう。
「そうそう、陽葵とスイーツバイキングに行くって聞いてます。俺も一緒にって言うのに、陽葵がダメっていうんです」
「えっ!?」
尚登の苦情に陽葵と三宅の声が重なる、もちろんトーンも表情も全く違うものだ。
「それは……!」
尚登と一緒には行きたくないとは言えず、陽葵はぐっと言葉を飲み込む。
「副社長もご一緒だなんて光栄です! 私はいつでも暇です!」
三宅は目をハートマークにして叫んだ。
「だってさ、陽葵。いつにする?」
嬉しそうに言う尚登を陽葵は睨みつけた、周囲を巻き込むなと言いたい。
そしてエレベーターが到着する。副社長たる尚登に先に乗ってくれと人々が左右にどき、尚登も陽葵の手を引いて遠慮なく乗り込んだ。陽葵はなんとも居心地が悪い──自分は恋人であることも婚約者であることも仮なのに──だが尚登は気にもせず陽葵をカゴの隅に追いやり、その隣に立った。
経理部がある20階に着くまで三宅はチラチラと陽葵たちを盗み見る、どうせならしっかり見ればいいと開き直った気持ちと、隠れるものなら隠れたい気持ちに陽葵は苛まれた。隠れるならば尚登の背中だろうか──尚登は自分の目の前に立って欲しいと思いながらもそんなお願いもできずずっと俯いていた。
ようやく20階に到着し三宅が降りる、その直前小さな声で手まで添えて言った。
「今夜、連絡するからね」
スイーツバイキングの相談だろうか、行かないよと即答したいのを我慢し、曖昧に微笑み三宅と別れた。
「──だいたい、なお……副社長は、甘いものなんか食べるんですか?」
恨みを込めて上目遣いに見ながら小さな声で聞けば、尚登は嬉しそうに微笑んだ。
「おう、好き好き、大好き。生クリームてんこもりのハワイアンパンケーキなんて大好物」
へえと陽葵は呟いていた、人は見かけによらないものだが、確かに昨日行ったプラネタリウムで、同じ階にある星空のコンセプトにしたカフェでは甘そうなドーナツ頼んでいた、もっともビールも一緒だった、その組み合わせはいいのかと思ったがおいしそうに食べていたのは好きだからだろう。
そしてそんな尚登の嗜好を、まだエレベーター内に残る女性社員たちが心の辞書に刻んでいることなど、知る由もなかった。
☆
昼食は商談の帰り道に外で寄り道することになった、仕事帰りのため社長たる尚登の父・仁志も一緒だった。山本と社長付きの二人の秘書も一緒で陽葵は必要以上に緊張した、いっそのこと山本たちが別室だというなら一緒に行こうと思ったのに──。
「陽葵さんは、尚登のどんなところが好きになったのかなあ」
仁志がなんとも嬉しそうに聞いてくるが、陽葵に恋愛感情はない、回答に困っていると。
「本人目の前にド直球な質問だな」
尚登が笑ってはぐらかした。
「副社長はおモテになりますから、今更どこをなんて聞かなくても『全部』くらいの答えしかないかもしれませんし」
山本も遠慮なく言えば、仁志はうんうんと頷いた。これまでの見合い相手たちもせめてお付き合いくらい、いやもう一度会うくらいと皆に食い下がられた、昨日会うはずだった者にもせっかく時間を空けておりましたのにと言われたが、なんとか言い含めたほどだ。
「むしろ副社長に藤田さんの好きなところをお聞きになったらよいのではないでしょうか」
にこやかだが意地が悪い質問に、え、と声を上げたのは陽葵だ。
「そういえば、気になる子がいるくらいにしか聞いていなかったな」
仁志は身を乗り出すようにして言った。陽葵は本当にそういう話しかしていなかったのだと判り、尚登を許す気持ちになった。しかしなぜその程度で自分が嫁候補にならなければならないのか、尚登もそれほど結婚を急ぐ年齢でもない様に思うが。
「好きなとこねぇ」
尚登はテーブルに頬杖をつき考え始める。
「まあぶっちゃけ一目惚れと言って終わりなんだが」
にこりと微笑んでから語り出す、陽葵は早くも頬が熱くなるのを感じた。
「なんつうか物憂げで弱々しいから、俺が守ってやらねえとって思ったし」
それには陽葵はうんと頷いていた、目黒駅のホームで出会った時は確かにそう見えたことだろう。
「そのくせ意地っ張りで不器用で、もっと俺を頼ればいいのに頑なに拒むところが他の女にはなくてよかったし」
意地っ張りか、と陽葵は変に納得した。確かに九州へ行った時から一人で生きていかねばと思ったのだ、強くならねばと思ったような気がする。
「逃げると追いたくなる心理かね、絶対逃がさねえって思ったんだよな」
そんな言葉にはムッとする、弊社の副社長など自分には絶対無理だと視線で知らせる。
「まあそんなところも含めて、とにかく全部かわいいってとこだな」
とびきりの笑みで言われ、陽葵は急に恥ずかしくなる。自分のことを客観的に言われたことがない上、なにやらお世辞めいた内容だった、まるで公開処刑を受けた気分だ。
息子の惚気に仁志はご満悦に微笑んでいる、いつ知り合い、どこまで関係が進んだかなど関係ない。尚登が陽葵を理解し、愛していると判った。
「そうかそうか、相思相愛で結構だな!」
相思相愛などではないと陽葵は心の中で叫ぶ。
「陽葵さんの心が決まり次第になるが、式や披露宴の支度は早く始めなくては駄目なんだ。会場を押さえるのも一苦労でな」
披露宴はまさにお披露目の場だ、血縁、親戚のみならず取引のある会社関係も呼ぶことになる。その数は優に数百人は超え、仁志の時は二日間に渡り、午前と午後の二部制で行ったほどだ。
「陽葵さんがその気になったらすぐに言ってくださいね──それと、陽葵さんのご家族へのご挨拶だが」
そればかりは声を抑えめにし、一呼吸入れてから続けた。
「尚登から聞いています、陽葵さんの意向に沿いますので無理はなさらぬよう。我々としてもそこまで形式張るつもりはないので、なんでも相談してください。陽葵さんさえよければ結納を行いますし、せめてご挨拶くらい伺えればと思っています」
優しい声に陽葵は俯き頷いた、古式ゆかしくならば結婚とは家と家とのつながりだ。だが自分にはその家族がない状態であり──恥じ入る気持ちを尚登が背を撫でくれたことで慰められた。
☆
食事を済ませ社に戻ってきた。エレベーターを降れば尚登と仁志は手を振って別れ、それぞれの執務室へ向かう。
ドアには錠の機構はついているが特に鍵などかけることはない、そのドアもほとんどは解放されたままで、不在時や来客の折に閉める程度だ。そのドアを山本が開けたが、中を見てぴたりと足を止めた。
「──どなたです?」
山本の厳しい声がした、副社長が不在時に誰が待っているというのか──。
「尚登さぁん!」
なんとも媚びた女の声が響く、山本越しにその人物が見えた尚登は思わず後ずさった。その人物は座っていたソファーから立ち上がるとようこそと言わんばかりに手を広げ尚登を迎えに来る。
「失礼ですがお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
尚登を守るがごとく山本は仁王立ちになり鋭い声で聞いた。
「丸山塔子ですわぁ」
甘えた声での名乗りに尚登は小さな声でその名前を繰り返した、まったく覚えがない名だ。
「申し訳ありません、本日ご訪問の予定は聞いておりません、お相手を間違えてはおられませんか?」
山本はなおも緊張を解かず聞いた。客が来る予定の覚えはなく、そもそも来訪者は受付に名乗り出て、受付はその確認を取ってから対象の階に案内するのが手順だ。重役クラスならば秘書が受付まで迎えに来る。訪問相手が外出中ならば3階の受付があるロビーか、4階の商談室で待っていてもらうのがルールである、それがわざわざ不在の副社長室で待っているなど、おかしい話なのだ。
「落合課長にご案内いただきましたわぁ」
「──落合」
尚登と山本が同時に呟いた、陽葵も「え」と声が出てしまう。秘書課の課長で尚登に見合い相手を押し付けている人物がやりそうなことだと意見が一致した。
尚登はドアを押し開けた姿勢で立つ山本の背をそっとつつき、わずかに振り返った山本に親指で背後を示して知らせる──社長を呼んで来いというのだ。言葉もない指示だが山本は理解し視線だけで頷いて廊下へ出た。そんなツーカーなやり取りに二人は信頼しあっているのだろうと陽葵は感心する。
「ご用件を伺いましょう」
尚登は笑顔で聞くが、目は笑っていない。
「昨日、お会いできるのを楽しみにいておりましたのに、突然会えないと連絡がありましてとても残念でしたの。ですから本日、はせ参じてしまいましたわ!」
「……昨日」
尚登は呟き繰り返した、陽葵にも判る、見合い相手だ。
「まあ、わたくしのことなど、お忘れなのね!」
両手を顔の近くに持っていく動作といい、服や化粧のセンスも陽葵は違和感を感じた。尚登に会うために意識しすぎていているのか、そもそものセンスが的外れなのか、時代遅れなのか──もっと似合うものがあるだろうに、無理しているようにしか見えない。
「申し訳ありません、こと女性に関しては最近はお会いする機会が多く、どなたがどなたなのか」
尚登は素直に謝る、単に覚える気がなかっただけだがそれは言えない。
「中学時代の学友ですわ! 同じ学び舎で学んだ仲ではありませんか!」
知らねー、と呟く尚登の声は陽葵にだけ聞こえた。
「あの頃からずっとお慕い申し上げておりましたわ! わたくしが毎年のバレンタインデーに告白をしておりましたのも覚えていらっしゃらなくて?」
「申し訳ありません、その手の者は多くおりましたし、自分は勉学に忙しくてそれどころではなかったので、完全にその他大勢に入ってました」
微々たる自慢を交えながらの嫌味に、陽葵がヒヤヒヤしてしまう。
「高校に上がってもおそばにいると誓いましたのに尚登さんはアメリカに行ってしまわれて、わたくし傷心でしたのよ?」
「はあ」
尚登はなおも無関心に相づちを打つ。
「ご帰国されていたなんて存じ上げませんでしたわ! ご連絡がないなんて尚登さんは恥ずかしがり屋さんですのね!」
違うわと毒気づく尚登の声が聞こえ、心の中だけで収めてくれと陽葵は焦る。
「この度ご結婚相手にと選んでいただけたこと、大変喜ばしく思っておりましたのよ!」
言いながら不必要に腰を振りながら歩いてくる、女性らしさを強調したいのだろうが明らかに逆効果だと陽葵は思った、無関係でも逃げ腰になる。
「お見合い相手に、とのことですね」
尚登は顔を引きつらせながら訂正した。
「突然のキャンセルで気を悪くされたなら謝ります、ずっと好きだった女性がやっと私と交際することを受け入れてくれまして、なのに他の女性と見合いだなんてよくないでしょう」
ずっと好きだった人がいたのか、などと陽葵はのんびり思った。
「まあ……わたくしというものがありながら、他の女性と……!」
「別の方と勘違いをされていませんか? 私としては丸山さまにそのように言われる筋合いはありません」
もう少しオブラートにと陽葵は焦る、現に丸山は顔を紅潮させてふるふると震えだした。
「尚登さんから是非にとお申し入れがあったと聞いております!」
「さっぱり記憶にございませんが」
「ご指名に喜んで準備を重ねてまいりましたのよ!」
「それ、本当に俺ですか?」
「ええ! 落合課長から、そう伺っておりますわ!」
あんのくそババア、という呪詛はそれなりに大きな声だった。
「どのようにお話が伝わったのか知りませんが、俺が結婚相手に選んだのは」
尚登の怒った口調に陽葵がはっとした時には尚登に腕を掴まれていた、軽い力だったのに落ちるように尚登の腕に閉じ込められてしまう。
「この人です」
尚登は陽葵を背後から抱き締め、その肩に顔を乗せるようにして宣言した。熱い言葉が耳のすぐそばでして陽葵の顔は瞬時に朱に染まる。こんな卑怯だ──ときめきに心臓が激しく動き出した時、目の前の丸山と目が合いはたと気づいた、今誰よりも最前線にいるのは自分ではないか──丸山の顔が怒りで歪むのが間近に見えた。
「まあ……失礼ですが、まだ子供のようですけど」
「ああ、あなたに比べたらずいぶん若いですよね」
喧嘩腰の尚登の返事に陽葵はハラハラしどおしだ、現に丸山は顔を真っ赤にして怒りを示す。
「そちらの趣味がおありでしたのね!」
「まあ俺もそれなりに年は重ねたので、同じ年よりは年下のほうが好みというより、選びますね」
尚登が29歳ならば同窓生だったという丸山も同じ歳だ、それくらいの年齢の女性ならば結婚に焦りを覚えていてもおかしくない、そんな丸山を傷つけるような物言いはよくない──口を挟みたくても言葉が見つからなかった、なんとか小さく手を振り自分は違うと伝えるが、怒りに震える丸山には通じてなそうだ。
「将来末吉商事を背負って立つ尚登さんを支えるには不安がありますけど!」
「残念、俺は末吉の社長にはなりません、彼女がいてくれれば十分です」
そんなことはっきり言っていいのか、のちのち跡継ぎ問題に発展してしまうのでは──青ざめる陽葵の目の前で丸山が声を張り上げる。
「尚登さん!」
「尚登!」
丸山の声に重なり背後で仁志の声がする、駆けつけた仁志は中にいる丸山を見つけると二人を押しのけ中へ飛び込んだ。
「この度のこと大変申し訳なかったです、大層心痛もおありでしょう。ささ、私がお話を伺いますから、こちらへ!」
部屋の外へといざなった、社長室へ行こうというのだろう。社長付きの女性秘書が丸山の背に手を添え案内しようとする。
「わたくしは! 尚登さんとお話がいたしたくて、参じましたのよ!」
秘書の手を振り払い叫んだ。
「お見合いの中止を決めたのは父である私です、お詫び申し上げます」
末吉の社長に頭を下げられ、丸山は鼻息の荒さはそのままに歩き出す。まだバックハグ中の陽葵と尚登の前を通り過ぎる時、尚登につけまつげも派手な目を何度もまばたきして色気をアピールしたが、尚登は視線も合わせず陽葵の頭上で「けっ」と毒気づく。それが聞こえたのか丸山は陽葵のことは射殺さんばかりに睨みつけから出て行った。社長の秘書が頭を下げその後に続く、社長が小さな声で「済まなかった」と謝るのには尚登は不機嫌に舌打ちで応えた。
そして山本が入れ替わりに入りドアを静かに閉め、大きなため息を吐く。ここでようやく山本が社長を呼びに行っていたのだと陽葵は判った。
「判ったろ、俺が見合いなんかで相手選びたがらないの。あんなんばっかだぜ」
尚登はイライラした様子でネクタイまで緩めて文句を言う。
「同情いたします」
山本もため息を吐きながら言う、それには陽葵も同意した。
「落合課長が招き入れた点もお伝えしております、さすがにお怒りでした」
「だろうな。いい加減配置換えか、クビにでもすりゃいいんだ」
だが元は自らを取り合いしたという恋敵だ、社長といえども扱いも難しいのかもしれない。
「クビはお厳しい」
山本もやんわりと口を添える。
「左遷だ、左遷。あーっ、陽葵ーっ」
尚登は叫び再度陽葵を背後から抱き締める。陽葵は、ひ、と声が漏れそうになり体も硬直させたが、意外にも温かい尚登の体を受け入れていた。尚登は陽葵の首筋に眉間を押し当て深呼吸する。
「あー陽葵、いい匂いー、はあ、生き返ったー」
元気な声で言い陽葵を解放した。最後に髪をひと撫でしていくそんな仕草に陽葵の心がわずかに高鳴る、だがそんなはずはないと否定し、机へ向かう尚登の背を見送っていた。
「仲がよろしいですね」
様子を見ていた山本に言われ、陽葵は途端に不機嫌になってしまう、一方的に搾取されているといいたい。
ふと室内を見て驚いた、応接セットのテーブルには紅茶まで出されている、一体誰が出したというのか。それを山本が片付けようとするとの見て陽葵は慌ててそれを止めた、それくらい自分がやらねばと引き受ける。
尚登の秘書になってからはろくに仕事をしていない感覚だ、こんな状態で給料などもらえない。
☆
接待などがなければ定時退社だが、今日はやや遅くなった。夕飯担当の尚登が食べてから帰ろうというが、倹約が身に染みた陽葵は帰ろうと提案しかける、だが山本も一緒だと判れば素直に従い、野毛にあるラーメン屋に向かった。
場所柄飲み屋も多い、行きたいとソワソワする尚登を山本が引き留めてくれた。決して酒に弱いわけではないが、翌日酒の匂いなどさせていては困るといえば、尚登は不機嫌ながらも従った。つくづくこの二人は仲がいいと陽葵は感心してしまう。
「あっ、ここは私がお支払いしますっ!」
陽葵が店の前で財布を出しながら声を上げた、尚登が「ええー?」と笑顔で異を唱える。
「またかよ、もう諦めろよ」
「でもっ」
「じゃあ私は関係ないので、お先に買わせていただきますね」
山本は笑顔で言うとさっさと券売機で購入してしまう。
「ほれ、陽葵もなに食う?」
「副社長こそ!」
「だーかーらー」
「私の気が済みませんっ」
「ほんと生真面目だな」
尚登は笑う、そんなところが義妹につけいれられているのだろうと思う。
「判ったよ、じゃあ、マジでこれでチャラな。ラーメン替え玉付きと、玉子とチャーシュー追加、ビールもおねしゃす」
「え、そんなに食べるんですか、それでなんで太らないんですか?」
一緒に生活を始めてからも判る、特に節制をしている様子も配慮もなく気の向くままに食べたいものを食べたいだけ食べている印象だ、それでもむしろ痩せている方ではないのか。
「運動はしてるわな、まあ最近は運動というよりボディメイクが主だけど」
「それで維持できてるなら羨ましいです」
「前はマーシャルアーツにドはまりしてやってたから、その貯金はあるかもな」
「マーシャルアーツですか」
エクササイズとしてその名を聞いたことがあった。様々格闘技を組み合わせたものだ、パルクールのような演武もあったような気がする。尚登が体を動かす習慣があるのだと判った。
「興味あんなら、今度一緒に行ってみるか?」
「マーシャルアーツなんて無理です」
かなり身軽な印象だ。
「ボディメイクの方だよ」
「それなら──」
行ってみたいと言いかけ飲み込んだ、そんな約束はまるで本当の恋人のようではないか。
唇を引き結んでから自分用にはラーメンを購入するボタンを押した、替え玉を購入するくらいならこの麺を半分あげても──思いながら券売機に吸い込まれる5千円札を見つめた、とりあえず尚登に借りを返せたようでほっとした。
食べ終わると店の前で山本とは別れる。駅へ向かう山本を見送り、陽葵たちは歩いて帰宅することにした。
「だいぶ冷えるようになったな」
尚登が夜空を見上げて言う。10月も下旬だ、夜ともなれば冬が間近だと身をもって実感する。
「寒かったら抱きしめてやるぞ」
嬉しそうな尚登の提案を陽葵は冷ややかな目でけん制した、そんな陽葵を尚登は笑って受け入れる。
現に歩いて帰宅すれば十分温まった、もらった合鍵で尚登がドアを開錠する。どうぞ、と招き入れた瞬間、陽葵のスマートフォンが着信を知らせる。
「え……っ」
靴を脱ぎながら鞄を開く、そこにある文字を見て息を呑んだ、『Diana』──史絵瑠だ。
「なんだ、まだ諦めてなかったのか。陽葵同様しつこいな」
尚登は陽葵の手元を覗き込むと、さっさとスマートフォンを取り上げた。
「え……っ、なお……っ」
「もしもーし?」
スピーカーで応答し受話口に口を寄せることもなく靴を脱ぎ、玄関を上がる。
『なんであんたなのよ!』
すぐさま史絵瑠の大きな声が響いた。
「ご挨拶だな、俺だって当事者なんだよ」
答えれば史絵瑠はふんと鼻を鳴らす。
『姉は! いないの!?』
「いるけど、てめえと話すことはないってよ」
ネクタイを緩めながらソファーに座り尚登は答える、そんな荒っぽい回答に陽葵は青ざめるばかりだ、あまり喧嘩腰にはならないで欲しい。
『単に私の相手ができないだけでしょ、気が弱いから私の頼みを断れなくて』
「判ってんならもう電話してくんなよ」
『姉からスマホ預かってんの!?』
「そこまでしてねえよ、ちゃんと陽葵が持ってる」
『じゃあ、姉を出しなさいよ!』
「陽葵」
呼んだが電話を代ろうというのでない、手招き付きで呼ばれた陽葵が遠慮がちに隣り合わせに座れば、尚登は通話をビデオに変え同じ画面に二人並んで映りこんだ。
『お姉ちゃん』
嬉しそうな史絵瑠の声がして画面が切り替わる、満面の笑みの史絵瑠が映し出された。
『……って、あら、そこお姉ちゃんち?』
陽葵たちの背後に映るキッチンの様子に気が付いた、もっとも見えているのは吊戸棚くらいだが自宅だと推察できた。
『案外広そうじゃない』
それならと史絵瑠は思うが、尚登はなおも冷たい。
「広くないとはいわないがワンルームなんでね。あんたが住めるスペースはない」
もっと仲が良い身内や友人同士ならば住めないこともないだろうが、犬猿の仲の姉妹が住めるとは思えなかった。
『ほんとにあんたって……! お姉ちゃんはどうなのよ、一人や二人増えたってどうってことないでしょ!』
「どうってことは……」
ある、と言いたい。住人が増えれば管理会社にも届けなくてはいけない、つい先日尚登も住むことになったと管理人に知らせればなんとも好色そうな笑顔で見られた。こんな短期間にまた人が増えたなどと知らせるのなんとなく嫌だった。
『そこってどこなの?』
住所を聞き出し乗り込んでやろう──そんな思惑で聞いたが、尚登は笑顔で答える。
「川崎市中原区」
その答えに陽葵は驚き、史絵瑠は苛ついた様子で顔を歪めた。史絵瑠が現在も住む家の住所に間違いないからだ。
『ふざけんじゃないわよ!』
「諦めろって言ってんだよ、もうかけてくんな」
陽葵の頭に手をかけ愛おしそうに抱き寄せる様を見せつけてから通話を切った。
「……尚登くん……っ」
電源まで落としてからスマートフォンを返し、陽葵を解放する。
「判ったろ、あいつは十分図太い」
陽葵は自殺を心配していたが大丈夫だといいたい、陽葵は不安げながらも頷きスマートフォンを抱きしめた。
「まあ、ともあれ、やっぱ俺いてよかったじゃん」
陽葵の髪をひと撫でしてから立ち上がる尚登に頷いていた、それは間違いなかった。
陽葵はせめて家を出る時間はずらしたいと訴えたが尚登には通じない。二人揃って家を出、エレベーターに乗り込んだ。そのエレベーターがすぐに減速する、誰かが乗り込んでくるのだ。嵌め殺しのガラス窓に見覚えのある顔が見えて、陽葵の顔は引きつった。
5階に住む中年女性──小宮だ。小宮からも二人は丸見えだ、目が合った瞬間からニコニコと、いや、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。
「まあまあまあまあ」
開くドアを押し開きながら入ってくる小宮の声はとても響いた。その小宮に場所を空けようと尚登は陽葵に体を寄せてくる、隅に追いやられ陽葵は体を小さくした。
「こんな朝早くから一緒だなんて、泊まって行かれたのかしら?」
二人の顔を見比べながらの言葉に、尚登はにこやかに「はい」と答え、陽葵は返事は濁した「ええ、まあ」となる。
「ついこの間、たまたま送ってくれた上司の方だって言ってたのに、ねえ?」
小宮は陽葵を見ていやらしい笑みを浮かべる、陽葵は今でも上司ですと陽葵は心の中で叫ぶ。
「友達を見送りに来ただけですとか言っていたのに、ねえ? まあまあ」
それは尚登への言葉だ、尚登はにこりと微笑み答える。
「ええ、押しかけてみました」
本当ですよと叫びたいのをぐっと抑え、ただ嵌め殺しの窓の外の流れていく景色を見ていた。早く1階に着いてほしいと願う陽葵とは裏腹に尚登と小宮は会話を楽しんでいる、尚登のコミュケーション能力が高さに陽葵は驚いた。
エレベーターはようやく1階に着いたが、建物を出ると行く方向は同じだった。小宮はその先のコンビニへ行くようだ、その手前の角まで一緒に行くことになる。
「んもう、お幸せにね~」
別れ際、大きな声で送り出された。数人だがいるまったく無関係の通行人の視線が陽葵には痛い。
慣れた経路でみなとみらい駅に到着する──ホームに降りた途端感じた、慣れているその場所がいつもと様子が違う。道すがら多くの社員の視線が突き刺さるのだ。少し離れていても挨拶をしてくるのはやはり副社長たる尚登がいるからか。そして普段は追い越して行く者などそうはいないと感じるが、今日はぐんぐん追い抜かれていく、地下から上がる長い長いエスカレーターではそれが顕著だった。その者がすれ違いざまに挨拶をしていくのは当然だと思うが、さらに先を行く者に声をかければ振り返りヒソヒソと話すのは、やはり二人の関係を話題にしているのだろうと想像できた。
そもそも尚登が目立ちすぎるのだと陽葵は意味もなく恨めしく思う。長身の美形で若い副社長、その者が陽葵を職場から連れ出したことなど社内中で噂になっているだろう。話題の中心にいることに恥ずかしさを感じ、エスカレーターを降りると尚登から離れるためと歩みを緩めようとした時、陽葵の手を尚登が握った。
「え……っ」
一瞬びくりとしてしまう、しかし優しい力で握られ、その手を信用していいのだと判った。このままなら顔を上げずに歩けると前向きにとらえ手を繋いだまま社屋へ入る。
受付嬢たちが尚登に気づき立ち上がる、だが陽葵の姿も見つけて途端にむっとしたのを陽葵は見逃さなかった。それでも受付嬢たちは最上の笑顔で挨拶をすれば、尚登も「おはよう」と答えた。陽葵も挨拶を返したが小さくなったのは、受付嬢たちの言葉が自分に向けてではないと判っているからだ。
受付を通りすぎれば、小さな声が聞こえてきた。
「……えー……本当に、仲良くご出勤よ~……?」
誰の声なのかは判らない、しかし込められた感情を読み取り陽葵は肩身が狭い。
「まだ子どもじゃない……副社長の趣味、疑う……」
囁き合うような声が聞こえてしまうとは──確かにろくにおしゃれも化粧もしていない自分など子どもかもしれない。そんな自分は末吉の副社長の相手にふさわしいわけがない──つないだ手が申し訳なく感じられそっと外そうとしたが、尚登は緩みかけた手を無意識のうちに強く握っていた。
その時尚登の視線の先に見知った横顔が見えた。
「あ、あの子」
声に陽葵が視線を追えば、そこには三宅がいた。その三宅がふとこちらを見たのは、周囲の挨拶をする声が聞こえたからだ。視線が合えば、やや遠くても尚登の方から手を振り「おはようございます」と声をかけていた、それまでの不特定多数にかける朝の挨拶とは違うことに皆も気づいた、途端に人混みが分かれ三宅までの道ができる。尚登はありがとう、ごめんねと言いながらその道を歩き三宅に近づいた。
「お、おはようございます!」
三宅はきちんと尚登に体を向け、90度まで体を曲げて元気に挨拶を返す。
「金曜日はありがとうございました」
尚登が営業向けの声と笑顔で言うと、三宅は陽葵が見たことがない笑顔で応じる。
「そんな! とんでもないです! 陽葵ちゃんのためなら!」
絶対そんなことは思っていないと感じ文句を言いたいが、陽葵は小さなため息とともに天井を見るだけにとどめた。
「助かりました、な、陽葵」
尚登は笑顔で言うと握った陽葵の手を持ち上げ、その指先にキスをした──陽葵は喉の奥で小さな悲鳴を上げたが、周囲が上げた悲鳴にかき消される。
「な、仲いいですねぇ……いつの間に?」
三宅は呆れたように言う。
「陽葵が入社したころから目をつけてました」
尚登はなんとも嬉しそうに嘘をつく、三宅さえもそんな馬鹿なと冷たく「へえ」と返した。
「あ、すみません、お名前を確認し忘れてました」
尚登に聞かれ、三宅はそれはそれは嬉しそうに微笑み、真っ赤になる頬を両手で包みながら叫ぶ。
「三宅さくらと申しますぅ!!!」
自己紹介を羨ましいと思った女性は一人や二人ではない、自分も個別認識してほしいと思うがここで名乗りを上げるわけにもいかない。
「さくらさんか、陽葵といい、花の名前はかわいくていいですね」
褒められ三宅は鼻息も荒くいえいえそんなこと謙遜した。陽葵は感心していた、確かに葵という文字は入っているが、向日葵を意識した名だと話したのを覚えているのだろう。
「そうそう、陽葵とスイーツバイキングに行くって聞いてます。俺も一緒にって言うのに、陽葵がダメっていうんです」
「えっ!?」
尚登の苦情に陽葵と三宅の声が重なる、もちろんトーンも表情も全く違うものだ。
「それは……!」
尚登と一緒には行きたくないとは言えず、陽葵はぐっと言葉を飲み込む。
「副社長もご一緒だなんて光栄です! 私はいつでも暇です!」
三宅は目をハートマークにして叫んだ。
「だってさ、陽葵。いつにする?」
嬉しそうに言う尚登を陽葵は睨みつけた、周囲を巻き込むなと言いたい。
そしてエレベーターが到着する。副社長たる尚登に先に乗ってくれと人々が左右にどき、尚登も陽葵の手を引いて遠慮なく乗り込んだ。陽葵はなんとも居心地が悪い──自分は恋人であることも婚約者であることも仮なのに──だが尚登は気にもせず陽葵をカゴの隅に追いやり、その隣に立った。
経理部がある20階に着くまで三宅はチラチラと陽葵たちを盗み見る、どうせならしっかり見ればいいと開き直った気持ちと、隠れるものなら隠れたい気持ちに陽葵は苛まれた。隠れるならば尚登の背中だろうか──尚登は自分の目の前に立って欲しいと思いながらもそんなお願いもできずずっと俯いていた。
ようやく20階に到着し三宅が降りる、その直前小さな声で手まで添えて言った。
「今夜、連絡するからね」
スイーツバイキングの相談だろうか、行かないよと即答したいのを我慢し、曖昧に微笑み三宅と別れた。
「──だいたい、なお……副社長は、甘いものなんか食べるんですか?」
恨みを込めて上目遣いに見ながら小さな声で聞けば、尚登は嬉しそうに微笑んだ。
「おう、好き好き、大好き。生クリームてんこもりのハワイアンパンケーキなんて大好物」
へえと陽葵は呟いていた、人は見かけによらないものだが、確かに昨日行ったプラネタリウムで、同じ階にある星空のコンセプトにしたカフェでは甘そうなドーナツ頼んでいた、もっともビールも一緒だった、その組み合わせはいいのかと思ったがおいしそうに食べていたのは好きだからだろう。
そしてそんな尚登の嗜好を、まだエレベーター内に残る女性社員たちが心の辞書に刻んでいることなど、知る由もなかった。
☆
昼食は商談の帰り道に外で寄り道することになった、仕事帰りのため社長たる尚登の父・仁志も一緒だった。山本と社長付きの二人の秘書も一緒で陽葵は必要以上に緊張した、いっそのこと山本たちが別室だというなら一緒に行こうと思ったのに──。
「陽葵さんは、尚登のどんなところが好きになったのかなあ」
仁志がなんとも嬉しそうに聞いてくるが、陽葵に恋愛感情はない、回答に困っていると。
「本人目の前にド直球な質問だな」
尚登が笑ってはぐらかした。
「副社長はおモテになりますから、今更どこをなんて聞かなくても『全部』くらいの答えしかないかもしれませんし」
山本も遠慮なく言えば、仁志はうんうんと頷いた。これまでの見合い相手たちもせめてお付き合いくらい、いやもう一度会うくらいと皆に食い下がられた、昨日会うはずだった者にもせっかく時間を空けておりましたのにと言われたが、なんとか言い含めたほどだ。
「むしろ副社長に藤田さんの好きなところをお聞きになったらよいのではないでしょうか」
にこやかだが意地が悪い質問に、え、と声を上げたのは陽葵だ。
「そういえば、気になる子がいるくらいにしか聞いていなかったな」
仁志は身を乗り出すようにして言った。陽葵は本当にそういう話しかしていなかったのだと判り、尚登を許す気持ちになった。しかしなぜその程度で自分が嫁候補にならなければならないのか、尚登もそれほど結婚を急ぐ年齢でもない様に思うが。
「好きなとこねぇ」
尚登はテーブルに頬杖をつき考え始める。
「まあぶっちゃけ一目惚れと言って終わりなんだが」
にこりと微笑んでから語り出す、陽葵は早くも頬が熱くなるのを感じた。
「なんつうか物憂げで弱々しいから、俺が守ってやらねえとって思ったし」
それには陽葵はうんと頷いていた、目黒駅のホームで出会った時は確かにそう見えたことだろう。
「そのくせ意地っ張りで不器用で、もっと俺を頼ればいいのに頑なに拒むところが他の女にはなくてよかったし」
意地っ張りか、と陽葵は変に納得した。確かに九州へ行った時から一人で生きていかねばと思ったのだ、強くならねばと思ったような気がする。
「逃げると追いたくなる心理かね、絶対逃がさねえって思ったんだよな」
そんな言葉にはムッとする、弊社の副社長など自分には絶対無理だと視線で知らせる。
「まあそんなところも含めて、とにかく全部かわいいってとこだな」
とびきりの笑みで言われ、陽葵は急に恥ずかしくなる。自分のことを客観的に言われたことがない上、なにやらお世辞めいた内容だった、まるで公開処刑を受けた気分だ。
息子の惚気に仁志はご満悦に微笑んでいる、いつ知り合い、どこまで関係が進んだかなど関係ない。尚登が陽葵を理解し、愛していると判った。
「そうかそうか、相思相愛で結構だな!」
相思相愛などではないと陽葵は心の中で叫ぶ。
「陽葵さんの心が決まり次第になるが、式や披露宴の支度は早く始めなくては駄目なんだ。会場を押さえるのも一苦労でな」
披露宴はまさにお披露目の場だ、血縁、親戚のみならず取引のある会社関係も呼ぶことになる。その数は優に数百人は超え、仁志の時は二日間に渡り、午前と午後の二部制で行ったほどだ。
「陽葵さんがその気になったらすぐに言ってくださいね──それと、陽葵さんのご家族へのご挨拶だが」
そればかりは声を抑えめにし、一呼吸入れてから続けた。
「尚登から聞いています、陽葵さんの意向に沿いますので無理はなさらぬよう。我々としてもそこまで形式張るつもりはないので、なんでも相談してください。陽葵さんさえよければ結納を行いますし、せめてご挨拶くらい伺えればと思っています」
優しい声に陽葵は俯き頷いた、古式ゆかしくならば結婚とは家と家とのつながりだ。だが自分にはその家族がない状態であり──恥じ入る気持ちを尚登が背を撫でくれたことで慰められた。
☆
食事を済ませ社に戻ってきた。エレベーターを降れば尚登と仁志は手を振って別れ、それぞれの執務室へ向かう。
ドアには錠の機構はついているが特に鍵などかけることはない、そのドアもほとんどは解放されたままで、不在時や来客の折に閉める程度だ。そのドアを山本が開けたが、中を見てぴたりと足を止めた。
「──どなたです?」
山本の厳しい声がした、副社長が不在時に誰が待っているというのか──。
「尚登さぁん!」
なんとも媚びた女の声が響く、山本越しにその人物が見えた尚登は思わず後ずさった。その人物は座っていたソファーから立ち上がるとようこそと言わんばかりに手を広げ尚登を迎えに来る。
「失礼ですがお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
尚登を守るがごとく山本は仁王立ちになり鋭い声で聞いた。
「丸山塔子ですわぁ」
甘えた声での名乗りに尚登は小さな声でその名前を繰り返した、まったく覚えがない名だ。
「申し訳ありません、本日ご訪問の予定は聞いておりません、お相手を間違えてはおられませんか?」
山本はなおも緊張を解かず聞いた。客が来る予定の覚えはなく、そもそも来訪者は受付に名乗り出て、受付はその確認を取ってから対象の階に案内するのが手順だ。重役クラスならば秘書が受付まで迎えに来る。訪問相手が外出中ならば3階の受付があるロビーか、4階の商談室で待っていてもらうのがルールである、それがわざわざ不在の副社長室で待っているなど、おかしい話なのだ。
「落合課長にご案内いただきましたわぁ」
「──落合」
尚登と山本が同時に呟いた、陽葵も「え」と声が出てしまう。秘書課の課長で尚登に見合い相手を押し付けている人物がやりそうなことだと意見が一致した。
尚登はドアを押し開けた姿勢で立つ山本の背をそっとつつき、わずかに振り返った山本に親指で背後を示して知らせる──社長を呼んで来いというのだ。言葉もない指示だが山本は理解し視線だけで頷いて廊下へ出た。そんなツーカーなやり取りに二人は信頼しあっているのだろうと陽葵は感心する。
「ご用件を伺いましょう」
尚登は笑顔で聞くが、目は笑っていない。
「昨日、お会いできるのを楽しみにいておりましたのに、突然会えないと連絡がありましてとても残念でしたの。ですから本日、はせ参じてしまいましたわ!」
「……昨日」
尚登は呟き繰り返した、陽葵にも判る、見合い相手だ。
「まあ、わたくしのことなど、お忘れなのね!」
両手を顔の近くに持っていく動作といい、服や化粧のセンスも陽葵は違和感を感じた。尚登に会うために意識しすぎていているのか、そもそものセンスが的外れなのか、時代遅れなのか──もっと似合うものがあるだろうに、無理しているようにしか見えない。
「申し訳ありません、こと女性に関しては最近はお会いする機会が多く、どなたがどなたなのか」
尚登は素直に謝る、単に覚える気がなかっただけだがそれは言えない。
「中学時代の学友ですわ! 同じ学び舎で学んだ仲ではありませんか!」
知らねー、と呟く尚登の声は陽葵にだけ聞こえた。
「あの頃からずっとお慕い申し上げておりましたわ! わたくしが毎年のバレンタインデーに告白をしておりましたのも覚えていらっしゃらなくて?」
「申し訳ありません、その手の者は多くおりましたし、自分は勉学に忙しくてそれどころではなかったので、完全にその他大勢に入ってました」
微々たる自慢を交えながらの嫌味に、陽葵がヒヤヒヤしてしまう。
「高校に上がってもおそばにいると誓いましたのに尚登さんはアメリカに行ってしまわれて、わたくし傷心でしたのよ?」
「はあ」
尚登はなおも無関心に相づちを打つ。
「ご帰国されていたなんて存じ上げませんでしたわ! ご連絡がないなんて尚登さんは恥ずかしがり屋さんですのね!」
違うわと毒気づく尚登の声が聞こえ、心の中だけで収めてくれと陽葵は焦る。
「この度ご結婚相手にと選んでいただけたこと、大変喜ばしく思っておりましたのよ!」
言いながら不必要に腰を振りながら歩いてくる、女性らしさを強調したいのだろうが明らかに逆効果だと陽葵は思った、無関係でも逃げ腰になる。
「お見合い相手に、とのことですね」
尚登は顔を引きつらせながら訂正した。
「突然のキャンセルで気を悪くされたなら謝ります、ずっと好きだった女性がやっと私と交際することを受け入れてくれまして、なのに他の女性と見合いだなんてよくないでしょう」
ずっと好きだった人がいたのか、などと陽葵はのんびり思った。
「まあ……わたくしというものがありながら、他の女性と……!」
「別の方と勘違いをされていませんか? 私としては丸山さまにそのように言われる筋合いはありません」
もう少しオブラートにと陽葵は焦る、現に丸山は顔を紅潮させてふるふると震えだした。
「尚登さんから是非にとお申し入れがあったと聞いております!」
「さっぱり記憶にございませんが」
「ご指名に喜んで準備を重ねてまいりましたのよ!」
「それ、本当に俺ですか?」
「ええ! 落合課長から、そう伺っておりますわ!」
あんのくそババア、という呪詛はそれなりに大きな声だった。
「どのようにお話が伝わったのか知りませんが、俺が結婚相手に選んだのは」
尚登の怒った口調に陽葵がはっとした時には尚登に腕を掴まれていた、軽い力だったのに落ちるように尚登の腕に閉じ込められてしまう。
「この人です」
尚登は陽葵を背後から抱き締め、その肩に顔を乗せるようにして宣言した。熱い言葉が耳のすぐそばでして陽葵の顔は瞬時に朱に染まる。こんな卑怯だ──ときめきに心臓が激しく動き出した時、目の前の丸山と目が合いはたと気づいた、今誰よりも最前線にいるのは自分ではないか──丸山の顔が怒りで歪むのが間近に見えた。
「まあ……失礼ですが、まだ子供のようですけど」
「ああ、あなたに比べたらずいぶん若いですよね」
喧嘩腰の尚登の返事に陽葵はハラハラしどおしだ、現に丸山は顔を真っ赤にして怒りを示す。
「そちらの趣味がおありでしたのね!」
「まあ俺もそれなりに年は重ねたので、同じ年よりは年下のほうが好みというより、選びますね」
尚登が29歳ならば同窓生だったという丸山も同じ歳だ、それくらいの年齢の女性ならば結婚に焦りを覚えていてもおかしくない、そんな丸山を傷つけるような物言いはよくない──口を挟みたくても言葉が見つからなかった、なんとか小さく手を振り自分は違うと伝えるが、怒りに震える丸山には通じてなそうだ。
「将来末吉商事を背負って立つ尚登さんを支えるには不安がありますけど!」
「残念、俺は末吉の社長にはなりません、彼女がいてくれれば十分です」
そんなことはっきり言っていいのか、のちのち跡継ぎ問題に発展してしまうのでは──青ざめる陽葵の目の前で丸山が声を張り上げる。
「尚登さん!」
「尚登!」
丸山の声に重なり背後で仁志の声がする、駆けつけた仁志は中にいる丸山を見つけると二人を押しのけ中へ飛び込んだ。
「この度のこと大変申し訳なかったです、大層心痛もおありでしょう。ささ、私がお話を伺いますから、こちらへ!」
部屋の外へといざなった、社長室へ行こうというのだろう。社長付きの女性秘書が丸山の背に手を添え案内しようとする。
「わたくしは! 尚登さんとお話がいたしたくて、参じましたのよ!」
秘書の手を振り払い叫んだ。
「お見合いの中止を決めたのは父である私です、お詫び申し上げます」
末吉の社長に頭を下げられ、丸山は鼻息の荒さはそのままに歩き出す。まだバックハグ中の陽葵と尚登の前を通り過ぎる時、尚登につけまつげも派手な目を何度もまばたきして色気をアピールしたが、尚登は視線も合わせず陽葵の頭上で「けっ」と毒気づく。それが聞こえたのか丸山は陽葵のことは射殺さんばかりに睨みつけから出て行った。社長の秘書が頭を下げその後に続く、社長が小さな声で「済まなかった」と謝るのには尚登は不機嫌に舌打ちで応えた。
そして山本が入れ替わりに入りドアを静かに閉め、大きなため息を吐く。ここでようやく山本が社長を呼びに行っていたのだと陽葵は判った。
「判ったろ、俺が見合いなんかで相手選びたがらないの。あんなんばっかだぜ」
尚登はイライラした様子でネクタイまで緩めて文句を言う。
「同情いたします」
山本もため息を吐きながら言う、それには陽葵も同意した。
「落合課長が招き入れた点もお伝えしております、さすがにお怒りでした」
「だろうな。いい加減配置換えか、クビにでもすりゃいいんだ」
だが元は自らを取り合いしたという恋敵だ、社長といえども扱いも難しいのかもしれない。
「クビはお厳しい」
山本もやんわりと口を添える。
「左遷だ、左遷。あーっ、陽葵ーっ」
尚登は叫び再度陽葵を背後から抱き締める。陽葵は、ひ、と声が漏れそうになり体も硬直させたが、意外にも温かい尚登の体を受け入れていた。尚登は陽葵の首筋に眉間を押し当て深呼吸する。
「あー陽葵、いい匂いー、はあ、生き返ったー」
元気な声で言い陽葵を解放した。最後に髪をひと撫でしていくそんな仕草に陽葵の心がわずかに高鳴る、だがそんなはずはないと否定し、机へ向かう尚登の背を見送っていた。
「仲がよろしいですね」
様子を見ていた山本に言われ、陽葵は途端に不機嫌になってしまう、一方的に搾取されているといいたい。
ふと室内を見て驚いた、応接セットのテーブルには紅茶まで出されている、一体誰が出したというのか。それを山本が片付けようとするとの見て陽葵は慌ててそれを止めた、それくらい自分がやらねばと引き受ける。
尚登の秘書になってからはろくに仕事をしていない感覚だ、こんな状態で給料などもらえない。
☆
接待などがなければ定時退社だが、今日はやや遅くなった。夕飯担当の尚登が食べてから帰ろうというが、倹約が身に染みた陽葵は帰ろうと提案しかける、だが山本も一緒だと判れば素直に従い、野毛にあるラーメン屋に向かった。
場所柄飲み屋も多い、行きたいとソワソワする尚登を山本が引き留めてくれた。決して酒に弱いわけではないが、翌日酒の匂いなどさせていては困るといえば、尚登は不機嫌ながらも従った。つくづくこの二人は仲がいいと陽葵は感心してしまう。
「あっ、ここは私がお支払いしますっ!」
陽葵が店の前で財布を出しながら声を上げた、尚登が「ええー?」と笑顔で異を唱える。
「またかよ、もう諦めろよ」
「でもっ」
「じゃあ私は関係ないので、お先に買わせていただきますね」
山本は笑顔で言うとさっさと券売機で購入してしまう。
「ほれ、陽葵もなに食う?」
「副社長こそ!」
「だーかーらー」
「私の気が済みませんっ」
「ほんと生真面目だな」
尚登は笑う、そんなところが義妹につけいれられているのだろうと思う。
「判ったよ、じゃあ、マジでこれでチャラな。ラーメン替え玉付きと、玉子とチャーシュー追加、ビールもおねしゃす」
「え、そんなに食べるんですか、それでなんで太らないんですか?」
一緒に生活を始めてからも判る、特に節制をしている様子も配慮もなく気の向くままに食べたいものを食べたいだけ食べている印象だ、それでもむしろ痩せている方ではないのか。
「運動はしてるわな、まあ最近は運動というよりボディメイクが主だけど」
「それで維持できてるなら羨ましいです」
「前はマーシャルアーツにドはまりしてやってたから、その貯金はあるかもな」
「マーシャルアーツですか」
エクササイズとしてその名を聞いたことがあった。様々格闘技を組み合わせたものだ、パルクールのような演武もあったような気がする。尚登が体を動かす習慣があるのだと判った。
「興味あんなら、今度一緒に行ってみるか?」
「マーシャルアーツなんて無理です」
かなり身軽な印象だ。
「ボディメイクの方だよ」
「それなら──」
行ってみたいと言いかけ飲み込んだ、そんな約束はまるで本当の恋人のようではないか。
唇を引き結んでから自分用にはラーメンを購入するボタンを押した、替え玉を購入するくらいならこの麺を半分あげても──思いながら券売機に吸い込まれる5千円札を見つめた、とりあえず尚登に借りを返せたようでほっとした。
食べ終わると店の前で山本とは別れる。駅へ向かう山本を見送り、陽葵たちは歩いて帰宅することにした。
「だいぶ冷えるようになったな」
尚登が夜空を見上げて言う。10月も下旬だ、夜ともなれば冬が間近だと身をもって実感する。
「寒かったら抱きしめてやるぞ」
嬉しそうな尚登の提案を陽葵は冷ややかな目でけん制した、そんな陽葵を尚登は笑って受け入れる。
現に歩いて帰宅すれば十分温まった、もらった合鍵で尚登がドアを開錠する。どうぞ、と招き入れた瞬間、陽葵のスマートフォンが着信を知らせる。
「え……っ」
靴を脱ぎながら鞄を開く、そこにある文字を見て息を呑んだ、『Diana』──史絵瑠だ。
「なんだ、まだ諦めてなかったのか。陽葵同様しつこいな」
尚登は陽葵の手元を覗き込むと、さっさとスマートフォンを取り上げた。
「え……っ、なお……っ」
「もしもーし?」
スピーカーで応答し受話口に口を寄せることもなく靴を脱ぎ、玄関を上がる。
『なんであんたなのよ!』
すぐさま史絵瑠の大きな声が響いた。
「ご挨拶だな、俺だって当事者なんだよ」
答えれば史絵瑠はふんと鼻を鳴らす。
『姉は! いないの!?』
「いるけど、てめえと話すことはないってよ」
ネクタイを緩めながらソファーに座り尚登は答える、そんな荒っぽい回答に陽葵は青ざめるばかりだ、あまり喧嘩腰にはならないで欲しい。
『単に私の相手ができないだけでしょ、気が弱いから私の頼みを断れなくて』
「判ってんならもう電話してくんなよ」
『姉からスマホ預かってんの!?』
「そこまでしてねえよ、ちゃんと陽葵が持ってる」
『じゃあ、姉を出しなさいよ!』
「陽葵」
呼んだが電話を代ろうというのでない、手招き付きで呼ばれた陽葵が遠慮がちに隣り合わせに座れば、尚登は通話をビデオに変え同じ画面に二人並んで映りこんだ。
『お姉ちゃん』
嬉しそうな史絵瑠の声がして画面が切り替わる、満面の笑みの史絵瑠が映し出された。
『……って、あら、そこお姉ちゃんち?』
陽葵たちの背後に映るキッチンの様子に気が付いた、もっとも見えているのは吊戸棚くらいだが自宅だと推察できた。
『案外広そうじゃない』
それならと史絵瑠は思うが、尚登はなおも冷たい。
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「どうってことは……」
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『そこってどこなの?』
住所を聞き出し乗り込んでやろう──そんな思惑で聞いたが、尚登は笑顔で答える。
「川崎市中原区」
その答えに陽葵は驚き、史絵瑠は苛ついた様子で顔を歪めた。史絵瑠が現在も住む家の住所に間違いないからだ。
『ふざけんじゃないわよ!』
「諦めろって言ってんだよ、もうかけてくんな」
陽葵の頭に手をかけ愛おしそうに抱き寄せる様を見せつけてから通話を切った。
「……尚登くん……っ」
電源まで落としてからスマートフォンを返し、陽葵を解放する。
「判ったろ、あいつは十分図太い」
陽葵は自殺を心配していたが大丈夫だといいたい、陽葵は不安げながらも頷きスマートフォンを抱きしめた。
「まあ、ともあれ、やっぱ俺いてよかったじゃん」
陽葵の髪をひと撫でしてから立ち上がる尚登に頷いていた、それは間違いなかった。
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