弊社の副社長に口説かれています

麻生璃藤(あそう・りふじ)

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3.藤田史絵瑠

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月曜日のお昼時、三宅とランチを食べるためにエレベーターに乗り込んだ、今日は外へ食べに行くため1階へ向かう。
到着したエレベーターから陽葵たち経理課と営業2課の者たちが一斉に降りる中、そのエレベーターに乗り込もうと待っている者たちがいた。一目で上層部の者たちと判り、陽葵と三宅は闇雲に頭を下げお疲れ様ですと言いながら歩いていく。他の者たちも同様だが、女子の数人がきゃあと歓喜の声を上げから挨拶をするため、なんだろうと見てみればひときわ目立つ尚登が挨拶をしながら笑顔を振りまいていた。
あ、と思い、心がわずかに踊るのを陽葵は感じた。しかしそれはひた隠し、目礼して声をかける。

「お疲れ様です」

瞬間、にこやかに答えていた尚登の視線が陽葵で止まった。

「君──」

定型句以外の言葉にぴたりと空気が止まった、皆が、いや女性社員が息を止め、陽葵を見たのだ。
陽葵はどう答えてよいか判らず、足も止めずにただ頭を下げただけで返事に変えたが。

「具合はよくなったようですね」

優しい声に足を止めた、だがまもとに顔を見ることもできずに答える。

「はい……おかげさまで」

小さな声だったが、尚登にはしっかりと届いた。

「そう、よかった」

優しい笑顔を陽葵は見ることはなかった、ぺこりと頭を下げそそくさと歩み去ってしまう。尚登も引き留めることもなくエレベーターに乗り込んだ。

「知り合いか?」

動き出したエレベーターの中で聞いたのは父であり末吉商事の社長の仁志《ひとし》だ、にやにやとした笑みを尚登は無視して微笑み答える。

「ええ、知り合いです」
「具合とは?」

仁志は立て続けに聞く。

「答える義務はないですねえ」

腕組みまでしてふんぞり返って答えたのは、それ以上の質問は受け付けないという意思表示だ。

「どこの誰だ?」
「さあ?」

はぐらかす尚登に、仁志は微笑む。

「まあ、いいだろう。社内恋愛は大歓迎だぞ」

満足そうな笑みでの言葉への返事は、ふんという鼻を鳴らすだけだった。

「社長の奥様も元秘書ですからね」

専務が口を添えた、一緒にいた常務と執行役員も頷く。
社内恋愛大歓迎の意味は知っている、末吉商事では入社に際して興信所を使いきちんとして身元調査は行う。犯罪歴や偏った信仰心がないかなどを家族まで調べるのは、高見沢家としても末吉商事としても些細でも醜聞は避けたいからだ。会長が見合いを推し進めるのも身元がはっきりした相手を婚姻相手としたい魂胆に表れだ、これで尚登が「どこの馬の骨とも判らない女性」を連れてきたならば、大歓迎で即結婚、とはならないだろう。

「可愛らしいかたですねぇ」

無責任に褒め始める幹部たちの言葉を尚登は完全に無視した、お前たちには関係ないと声を大にして叫べないのが悔しい。

陽葵はぎくしゃくした感覚のまま歩いていた。

「ねえ、ちょっとぉ、なあに、具合がよくなったってぇ」

こちらでも話題になる、三宅が陽葵の袖を引っ張りながら聞いた。

「えっと……あの……実は昨日、電車の中で気持ちが悪くなってしまって……」

正直に答えたが、多少のフェイクは入れることにした、全てを包み隠さず話す気にはなれなかった。

「たまたま副社長がいらして、介抱してくれたんです」
「ええ!? むちゃくちゃおいしいシチュエーションじゃん! それからそれから!?」

三宅が身を乗り出して聞いてくる、そばを歩いていた営業課の女子も耳を大きくしていることなど陽葵は気づかない。

「最寄り駅まで送ってもらいました」

前後を思い切り端折った話に、三宅はがっかりする。

「ええ? それだけ?」
「それだけです」

その他のことなど、話す気にはなれない──史絵瑠のことも思い出してしまい、わずかにごくりと息を呑んでいた。

「もったいない、ああ、もう駄目ですぅって枝垂れかかるくらいできたでしょー、せっかく副社長とお近づきになるチャンスだったのに」

言って額に手を当てフラフラとして見せる、そんな三宅の仕草に似たような場面があったようなと思い出した──そうだ、こぼれた涙を隠そうとした時抱き寄せられた、満員電車ではかなり体が近かったように──。

「でさあ、陽葵ちゃん独り暮らしでしょ、家まで送ってもらってベッドまで運んでもらって、朝まで介抱くらいしてもらわないとダメじゃん、って、なにかあったな?」

陽葵の顔がほんのりと赤く染まるのを三宅は見逃さなかった。

「え、ないです、本当に、なにも、ないです」

慌てて手を振り言うがそれはまるで疑ってくれと言っているようなものだ、三宅も「ふふん」と笑みを漏らし頷く。

「うむうむ! 副社長に偶然ばったり会ったことを話さなかったくらいだ、あんなことやこんなことやそんなことがあったのだろう! うんうん! 察してなにも聞かずにおいてやらなくては! ワタシ、優しい!」

心の声を全部出したかのような言葉に、陽葵は呆れるばかりだ。

「本当に期待してるようなことはなにもなかったですから」

できるだけ冷静に答えた、尚登に妙な噂が出ても困ると周囲に聞こえるよう大きめの声で言う。

「なにもなさ過ぎて、それを会ったよなんて自慢気に言えなかっただけです」

言うが三宅は「ほほう」とふざけた返事しかしなかったが、これ以上言葉を重ねれば疑ってくれと言っているようなものだと思い、陽葵は口をつぐむ。
あれこれ言い訳しなくてもきっと数日のうちに忘れる、三宅も尚登本人も──そう思った。





嫌なことはすっかり忘れ帰宅した。15畳のワンルームだ、カーテンを引いた玄関の真正面の壁に沿って置いたベッドの近くに鞄を置いてから手を洗うために玄関脇にある洗面所へ向かう。まずは食事の支度かと思い手を洗い終えてそこを出ると、空気が震えているのが判った、スマートフォンの着信だ。慌てて鞄を開けそれを手にした時、画面に出ている名前にぞくりとした。『Diana』は史絵瑠シエルのアカウントである、ついに連絡が来たのだ。

着信はスタンプがいくつか来たことを示していた、どうしようと悩む、すぐに既読をつけるのは勇気がいった。戸惑う間にすぐ次にメッセージが来たのがポップアップに出る、電話していい?と書かれていた、直接話をしたいのだろう。

(──どうしよう、断りたい──!)

なにか理由をつけてメッセージを送ろうとパスコードを入れようとした時、それはなんとも陽気な音で着信を知らせる。
いいかと聞いてきてその返事も待たずにか、とわずかに嫌な気持ちになった。できれば無視したい──いや、むしろさっさと終わらせてしまおう──陽葵は通話ボタンを押した。

『お姉ちゃん!』

途端に明るい声がした、陽葵は「はい」としか答えられない。

『ねえ、お姉ちゃんって一人暮らしだよね? 今どこに住んでるの?』

いきなりそんな質問かと半ばあきれた。

「ん……首都圏、だけど……」

かなり広く答えたが、史絵瑠はふうんと言って次の質問を投げかける。

『普通のマンション? 広いの? 社員寮とかじゃないよね?』

なぜそんなことを……不審に思い、相づち程度の返事しかしなかったが。

『あのさ、お姉ちゃんちに、私も一緒に住むこと、できないかな』

その言葉はとても小さく弱々しかった。

「え?」
『お姉ちゃん、私……』

消えてしまいそうな声に陽葵は耳を傾けてしまった、気を引くためにわざと間を開けたことも気づかずに。

『私ね、パパに、ずっと性的虐待を、受けているの』
「え!?」

大きな声になったのを慌てて口を手で覆い隠す、誰に聞かれるわけでもないのだが。

『ねえ……もうやなの……助けて……欲しい……』

父の京助が史絵瑠に性的虐待を──そんな馬鹿なと思いつつ、一瞬にして過去を振り返っていた。

(父がそんなことするわけ──でも心当たりはある──父は史絵瑠をよく膝に乗せてかわいがっていた、もう小学生の史絵瑠を……! 膝に乗せて何をしていた? ううん、私からはただ座らせていただけのように見えたけれど……!)

『お姉ちゃんは、されたことないの?』
「ないよ! 別に変な触られ方をした覚えも……!」

頭を撫でたり背中や肩に触れたことはあるが、いたって普通の行為で性的なものは何も感じなかった。

(まさか──父と史絵瑠は血のつながりはない、そして子供の私が見ても史絵瑠はかわいかった、それで父のタガが外れてそんなことを……? でも、義理でも親子となったのに──!)

『そっか、いいな……私も最初はパパに撫でられて嬉しいくらいに思ってた……キスされたり舐められたりするようになって、おかしいって思ったんだけど、ずっと言い出せなくて……処女を奪われたのは小学4年生の終わりだよ、お姉ちゃんが寮に入るために家を出て行って、すぐ』

(嘘……!)

こみ上げてくる吐き気を手で押さえて堪えた。

(まさか私が九州まで行かされたのは、そのためだと!?)

『それからはずっと、毎日パパとセックスしてる、本当だよ。パパは史絵瑠は特別なんだ、大好きだよって言うんだけど、そんなの間違ってるって判ってる。断っても、今更何をって笑っておしまい。逃げられないの、逃がしてくれないの』

嘘だ、そんな馬鹿なという考えばかりが脳内を駆け巡った。

「お義母さんは? 助けてくれないの?」

一番近くにいる身内だ、京助は他人だが、継母の新奈とは実の母なのだ、よき理解者ではないのか──史絵瑠は大きなため息を吐いた。

『ママは助けてなんかくれない──私とパパがセックスしてるの、いつも見てるんだよ』

更なる告白は、言葉の意味が理解できないほどの衝撃だった。

『お酒飲みながら、演技でももっと気持ちよさそうな顔しなさいよって笑ってる……動画撮る時もある、そんな画像は売りさばいてるみたい、それだけじゃない、もっと色っぽいポーズしろって写真まで……たくさんの人が私の裸を知ってるわ。それだけじゃない、自分たちのセックスを見てろって言うの、見られてると興奮するんだって。パパも元気だよね、私とのセックスが終わってもママとするんだから』

わなわなと体が震えだした。なんてことだと怒鳴りたい、父はいつからそんな人間になってしまったのか──!

『──もう本当にこんな生活、嫌なの。限界だと思って家を出ようとしたけど、そうしたら10万円仕送りしろって言われたの、今まで育ててやったお礼をしろって……今も、生活費として5万円入れてる、それだけでも大変なのに、10万なんて』

史絵瑠なら今はアルバイトだろう、月々の給料などたかが知れている、5万円だって学生の身では大金だ。既に会社員をしている陽葵にだって10万円はきつい。

『出て行くなんて言ったけど一人暮らしはちょっと怖いし、家賃も安くないよね。ずっと悩んでた時に、お姉ちゃんに会えた……! お姉ちゃんと一緒に住めたらいいなって思った、家賃とか光熱費とか折半できたらありがたいもん……ねえ、お姉ちゃん、助けて欲しい』

義理とはいえ妹が困っている──手を差し伸べなくてはと思うが、自身も子供の頃にされた仕打ちが心の奥底まで深く刻み込まれている。鬼の形相で叩く両親と、それを見てせせら笑う史絵瑠。そして早々に家から追い出され無関心を貫かれた──素直に、すぐに、助けるね、という言葉は発すことができなかった。

「──うん、ごめん、ちょっと、考えさせてほしい」
『お姉ちゃん、助けてよ』

悲痛な声がする、それは余計に陽葵の心の傷を広げる──陽葵の声は誰が聞いてくれただろう、陽葵が助けを求めて差し伸べた手は誰が取ってくれただろう。

「うん、ごめん、少しだけ──」
『少しって? 私、あとどれくらい待てばいい?』
「うん──」

声は声にならなかった。

「ごめん、また電話する……一旦切るね」

考えをまとめようと史絵瑠の返事は聞かずに通話を切った。だがすぐに電話が鳴り始める、しかし今は話などできないと無視をしてしまう、目いっぱいまで鳴り続けたそれがようやく静かになった。

父が義妹を──嘘だと思いたい。だが史絵瑠の様子からは、大げさなところがあるにしても嘘を言っていたようには感じなかった。

(──まさかだけど)

母を失ってからの再婚はとても早かったように思う、それはまさか、最初から史絵瑠が目的だったなんてことはあるのかと疑惑が芽生える。幼児趣味からの再婚──娘という立場を隠れ蓑に愛らしい女の子を蹂躙できるとでも考えたか──陽葵は恐ろしい思考を頭を振って追い出す。

だが、その史絵瑠を逃がすまいと10万もの大金を示して出て行くことを阻止しているとするならば納得できてしまう。それは愛なのだろうか、それならば新奈とは離婚し、史絵瑠と再婚すればよいのにと思ったが、史絵瑠には父親以上の愛情など必要ないから逃げたいと思っているのだと思えばため息が出てしまう。

(史絵瑠が、私に助けを求めている──)

電話が再度鳴り始める、必要以上に驚き画面に出た文字を見て「ひ」と声が出た、『Diana』だ。

「今は、待って……!」

慌てて鞄に押し込み耳を塞いだ、今はまだ結論と勇気が出ない──史絵瑠を受け入れる心の準備が整わない。
喉が妙な音を立て始め、息苦しく空気が吸えなくなる。

(……死……)

一瞬にして過ぎった、今、死んだら楽になるだろうと思えた、顔を手で覆いその時を待ってみる。だがその時、耳の奥に尚登の声が聞こえた気がした──過呼吸か、と呟く声だ。

(落ち着いて……ゆっくり吐いて……)

昨日の尚登の声を思い出した、背中を撫でながら行う呼吸を思い出した、髪に優しくかかる吐息を思い出しながら息を吐き出す。

(大丈夫……大丈夫……)

数十秒をかけてようやく生きた心地が戻る、今朝掛けられた優しい声音の言葉も思い出した。

(具合はよくなりましたか──)

大きく深呼吸してから、「はい」と答えていた。

都内の駅の改札を前に立つ史絵瑠は、『応答なし』の文字が並ぶスマートフォンの画面を見つめため息を吐く。

「……さすがにちょっとやり過ぎたかな」

ふふんと微笑んだ、通信アプリの名前すらフルネームの『藤田陽葵』であることに陽葵の真面目さが伺えて史絵瑠にはつまらない女だとしか思えない。
時計を確認する、もう間もなく18時になろうとしている。

(まだ時間あるな、もう一回くらい掛けるか)

受話器のマークをタップした時、

「リマちゃーん、お待たせー」

男の声に、史絵瑠はとびきりの笑顔を向けた。先日陽葵が目黒で会ったのとは違う男が手を振りながら近づいて来る。

「中谷さーんっ、リマ、いっぱい待ったー!」

甘えた声で言い、すぐさま腕に抱き着いた。男は目じりも口の端もだらけさせ喜ぶ。

「僕も頑張って早く来たんだけどなあ、リマちゃんの僕に会いたい気持ちには敵わないあ」

史絵瑠は嬉しそうにえへへと笑ってから、ちょっと待ってと断り発信していた電話を切った。

「あれ、お話し中だった?」
「ううん、掛けても出ないからいいの」
「もしかして次のお客さんかな。連絡つかないってキャンセル? なら僕が次の分も買おうか?」

中谷は常連だ、史絵瑠の仕事はよく知っている。

「違うわ、お友達。中谷さんの後は入れてないもん、門限があるから遅い時間までは会えないの、中谷さんも知ってるでしょ」

史絵瑠は中谷の腕に頬をこすりつけて言う。正確にはきちっとした門限があるわけではない、だが帰宅が20時、21時となれば、父の京助がいい顔をしないのだ。それを無視はせず面倒だと思うだけで従うくらいの人としての常識は持っていた。

「そうだよねえ、だから今日もご飯だけって約束だ。でもさあ、前戯なしでちゃちゃっと終わらせてよければホテル行こうか? 代金はその分出すし、同じ一時間でもそのほうがよくない?」

鼻息も荒く言われ、史絵瑠は微笑んだ。

「私からサービスはなしよ?」

史絵瑠の提案に中谷は何度も頷き肯定する、そしてすでに選んでいたかのようにこっちだとホテルへ向かって歩き出した。そもそも六本木を待ち合わせ場所にしてきたのは中谷だ、きっと地の利があるのだろう。史絵瑠は体を摺り寄せたまま素直について行く。
1時間ほど男の好きにさせれば金が手に入るなど楽な仕事だ、食事だけなら1万円程度だが、体を差し出せば3万円以上もらえる──パパ活などと呼ばれる仕事で金を稼いでいるが、それに後ろめたさはなかった。むしろ自分が持つ武器を最大限に利用している自負がある。年齢と学校名のネームバリューに目の色を変える男の多さだ。

お金はいくらあっても困らない、むしろあればあるほどもっと欲しくなる。だがまだ学生なら勉学に励めとうるさい京助のせいで稼ぐ時間が限られているのだ。口うるさい京助がいなければ、もう1件くらい増やせるのに──定期契約は敢えて結んでいなかった、より多くの男と会う方が史絵瑠には性に合っていた。
一人でも多くの男に会うために親元から離れたいが今更その口実もなく、そんな時に陽葵に出会い一瞬にして利用してやろうと思った自分は天才だと思った。

明日、また電話をしよう──せめて住所を聞き出せればなんとでもなる。


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