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第四章
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悠哉が突然学校を休んだのは、その数日後のことだった。
「休み? 風邪か」
1Bの教室の戸口で瀧川に捕まえられた戸田久志は、ちょっと脅えつつ、さあ、と首を傾げる。
「あのー、担任は、体調が悪いからって言ってましたけど……」
オレつぎ体育なんでっと立ち去ろうとする久志の襟首を、がしっと瀧川が掴む。
「戸田。……今日、何日だ」
「は? ええと……十月……二十九日、ですけど」
目を白黒させながら久志が答えると、そっか、と瀧川は呟いた。窓の向こうの、晴れた空を見上げる。雲のある位置が夏よりも上にあって、空が高く、遠く見えた。
「……そっか」
今日は……安岡尚之の命日なのだ。十五歳で空に飛んだ、ナオの。
◆ ◆
その朝、いつも通りの時刻に起床し、いつものように学ランを着込み、朝食をすませた悠哉は、今日は学校へは行かないからと言って家を出た。
それがなぜか、そして悠哉がどこへ向かうのか、見送った母親はわかってくれたらしい。余計な質問や慰めの言葉をかけられなかったことは、かえってありがたいと思えた。
鎌倉の高台にある寺の境内に、尚之の墓はある。ナオの自宅からは少し離れた場所だが、彼の父方の祖父が鎌倉に住んでおり、その縁の寺だと聞いていた。
さすがに一周忌にあたる今日はすでに誰かが訪れているらしく、綺麗に落ち葉の払われた墓石の前に、たくさんの花や線香が供えられている。悠哉もそれにならい、買って来た花を供え、そっと手を合わせた。
花束は、三つ用意した。一つを墓に供え、もう一つは母校の屋上に。そして最後の一つを持ったまま、悠哉は迷っていた。
鎌倉から戻り、母校の中学を訪れ、お昼過ぎには目的の場所へ着いた。決心はしてきたはずなのに、いざたどり着いてしまうと、どうしても足が竦む。
見慣れた家の前。久しぶりに訪れたそこは、なぜか以前より小さく、寂しげに映る。前はあんなに明るくて、笑いの絶えない家だったのに。
「悠ちゃん……」
そんな優しい声をかけられて、悠哉は顔を上げる。玄関先に佇んでこちらを見つめているのは、喪服姿の、ほっそりとした女性。一年前に会ったっきりの、ナオの母親だった。
「おばさん……」
「そんなところにいないで、中に入ってちょうだい。覚えていてくれたのね。……あの子、喜んでると思うわ」
背中を押されて、玄関へ上がる。ナオの父親はまだ鎌倉の本家の方にいるらしく、家の中はしんとしていた。
ナオの葬儀以来、墓には毎月のように足を運んだが、ここにはどうしても来られなかった。……ナオを死なせたという、後ろめたさのために。
居間に通されて、ナオの笑顔の写真の前で手を合わせる。持って来た花は、ナオの母親に手渡した。以前よりずいぶんと痩せてしまった彼女は、それでも前と少しも変わらない笑顔で、それを受け取った。学校が終わる時刻にはまだ早過ぎることはわかっているだろうに、彼女は何も言わなかった。
「花……悠ちゃんだったのね。毎月、お墓に持って行ってくれてたでしょう」
「そんなことぐらいしか……できなくて」
「嬉しかったわ。あの子のこと、覚えていてくれる人がいるんだって、嬉しかった。本当に……ありがとう」
悠哉はうつむいて首を振った。ありがとうなんて、言ってもらう資格はないのだ。
「おばさん……俺……ずっと、言えなかったことがあって」
ナオの写真。眩しいほどの笑顔を見上げながら、悠哉は言った。ずっと胸に眠らせていた言葉を、ようやく。
「ナオが死んだのは……俺のせいなんです」
ナオの母親は、黙ってその悠哉の言葉を聞いていた。先を促すように、穏やかな表情で首を傾げる。どこまでを話すべきなのか迷いながら、悠哉はゆっくりと目を伏せ、口を開いた。
「ナオが死ぬ二日前に、俺、あいつと……喧嘩したんです。ナオは俺を大事に思ってくれたのに……俺は、それをはねつけて、ひどく傷つけた。ナオは謝ったのに、俺は許すって言えなかった」
愛してる。ごめん。サヨナラ。
「俺のせいなんです」
顔を伏せたまま、もう一度そう言うと、ふわりと優しい力に肩を抱かれた。かすかなお香の匂いが、ふわりと漂う。
「悠ちゃんが、責任感じることじゃないのよ。あなたのせいじゃない。……ごめんなさい。ずっと、苦しませてたのね」
「でも……やっぱり俺が」
「確かに、原因はあなたとのことだったかもしれない。でもあの子は、あなたがこんなふうに苦しむことを望んで死んだわけじゃないわ。そんな子じゃ、なかったでしょ」
そう言って彼女は立ち上がり、位牌の脇に置いてあった白い封筒を手にとって、一枚の紙片を取り出して悠哉に渡した。
「読んでみて」
言われて、悠哉は白い紙を開いた。目に飛び込んできた見覚えのある文字を見て、思わずハッと顔を上げる。ナオの母親が、ゆっくりと頷いてみせた。
「あの子の書いたものよ」
震える指で、悠哉はその文字を辿った。筆圧の高い、くっきりとした文字。たった一行だった悠哉への手紙とは対照的に、そこには便箋一枚にきっちりと文章がつづられていた。
『母さんへ。
これが届くころ、オレはこの世にはいないと思います。驚かせて、ほんとにごめん。
でも、これだけはわかってほしい。オレは、何かが辛くて逃げるのではなく、何かに絶望したわけでもありません。
大切な人を、傷つけてしまいました。だからオレは死にます。それが誰か、母さんにもいつかわかるかもしれない。でも、その人を責めないでください。傷つけたのはオレの方で、その人は何も悪くない。
オレが死ぬことで、かえって苦しませることになるのかもしれない。でもきっといつか、オレのことを忘れて、幸せになってくれると思う。そのために、オレはその人の前からいなくなろうと思います。
オレを生んでくれてありがとう。育ててくれて、感謝してます。生まれたことを後悔して死ぬわけじゃないから……だから悲しまないでほしい。
尚之』
読み終えると、悠哉は白い紙片をもとのとおりに畳んで、ぎゅっと眉根を寄せた。
泣かない、と思った。自分よりも悲しんでいるはずの人が、目の前にいるのだから……この人の前では、みっともなく泣きじゃくるなんてできない。
「大事な人って……あなたのことだったのね。すぐにわかってあげてれば、悠ちゃんもこんなに苦しまなくて済んだのに」
「……違う。おばさんは、俺を……許さなくていいんです」
悠哉が言うと、彼女は静かに首を振った。
「駄目よ。私は、あなたを責めない。憎んだり、恨んだりしない。あなたを守るためにあの子が死んだのなら……それが、尚之の望みだったのなら……私が、それを無駄にするわけにはいかないの」
「じゃあ俺は、どうやって償えばいいんですか。何も……できない?」
すると彼女は目を伏せ、ゆっくりと悠哉の手を取った。どこまでも穏やかな、優しい仕草だった。
「そんなに言うなら……じゃあ、遠慮なく責めさせてもらうわ。……ねえ、ナオが死んだのはあなたのせいなんだから、私のお願いを二つ聞いてちょうだい」
悠哉は頷いた。責められた方が、いっそ楽なのだ。何か自分にできることがあるなら、どんなことでもする。
「ひとつめ。これからは、お花のかわりに……ピアノを弾いてあげて。あの子、あなたのピアノ、好きだったわ。……それから」
ふたつめ。そう呟いて、彼女はようやく涙を見せた。ぎゅうっと優しい力で抱き寄せられて、悠哉は目を閉じた。
「……幸せになって」
あの子の、ために。
「休み? 風邪か」
1Bの教室の戸口で瀧川に捕まえられた戸田久志は、ちょっと脅えつつ、さあ、と首を傾げる。
「あのー、担任は、体調が悪いからって言ってましたけど……」
オレつぎ体育なんでっと立ち去ろうとする久志の襟首を、がしっと瀧川が掴む。
「戸田。……今日、何日だ」
「は? ええと……十月……二十九日、ですけど」
目を白黒させながら久志が答えると、そっか、と瀧川は呟いた。窓の向こうの、晴れた空を見上げる。雲のある位置が夏よりも上にあって、空が高く、遠く見えた。
「……そっか」
今日は……安岡尚之の命日なのだ。十五歳で空に飛んだ、ナオの。
◆ ◆
その朝、いつも通りの時刻に起床し、いつものように学ランを着込み、朝食をすませた悠哉は、今日は学校へは行かないからと言って家を出た。
それがなぜか、そして悠哉がどこへ向かうのか、見送った母親はわかってくれたらしい。余計な質問や慰めの言葉をかけられなかったことは、かえってありがたいと思えた。
鎌倉の高台にある寺の境内に、尚之の墓はある。ナオの自宅からは少し離れた場所だが、彼の父方の祖父が鎌倉に住んでおり、その縁の寺だと聞いていた。
さすがに一周忌にあたる今日はすでに誰かが訪れているらしく、綺麗に落ち葉の払われた墓石の前に、たくさんの花や線香が供えられている。悠哉もそれにならい、買って来た花を供え、そっと手を合わせた。
花束は、三つ用意した。一つを墓に供え、もう一つは母校の屋上に。そして最後の一つを持ったまま、悠哉は迷っていた。
鎌倉から戻り、母校の中学を訪れ、お昼過ぎには目的の場所へ着いた。決心はしてきたはずなのに、いざたどり着いてしまうと、どうしても足が竦む。
見慣れた家の前。久しぶりに訪れたそこは、なぜか以前より小さく、寂しげに映る。前はあんなに明るくて、笑いの絶えない家だったのに。
「悠ちゃん……」
そんな優しい声をかけられて、悠哉は顔を上げる。玄関先に佇んでこちらを見つめているのは、喪服姿の、ほっそりとした女性。一年前に会ったっきりの、ナオの母親だった。
「おばさん……」
「そんなところにいないで、中に入ってちょうだい。覚えていてくれたのね。……あの子、喜んでると思うわ」
背中を押されて、玄関へ上がる。ナオの父親はまだ鎌倉の本家の方にいるらしく、家の中はしんとしていた。
ナオの葬儀以来、墓には毎月のように足を運んだが、ここにはどうしても来られなかった。……ナオを死なせたという、後ろめたさのために。
居間に通されて、ナオの笑顔の写真の前で手を合わせる。持って来た花は、ナオの母親に手渡した。以前よりずいぶんと痩せてしまった彼女は、それでも前と少しも変わらない笑顔で、それを受け取った。学校が終わる時刻にはまだ早過ぎることはわかっているだろうに、彼女は何も言わなかった。
「花……悠ちゃんだったのね。毎月、お墓に持って行ってくれてたでしょう」
「そんなことぐらいしか……できなくて」
「嬉しかったわ。あの子のこと、覚えていてくれる人がいるんだって、嬉しかった。本当に……ありがとう」
悠哉はうつむいて首を振った。ありがとうなんて、言ってもらう資格はないのだ。
「おばさん……俺……ずっと、言えなかったことがあって」
ナオの写真。眩しいほどの笑顔を見上げながら、悠哉は言った。ずっと胸に眠らせていた言葉を、ようやく。
「ナオが死んだのは……俺のせいなんです」
ナオの母親は、黙ってその悠哉の言葉を聞いていた。先を促すように、穏やかな表情で首を傾げる。どこまでを話すべきなのか迷いながら、悠哉はゆっくりと目を伏せ、口を開いた。
「ナオが死ぬ二日前に、俺、あいつと……喧嘩したんです。ナオは俺を大事に思ってくれたのに……俺は、それをはねつけて、ひどく傷つけた。ナオは謝ったのに、俺は許すって言えなかった」
愛してる。ごめん。サヨナラ。
「俺のせいなんです」
顔を伏せたまま、もう一度そう言うと、ふわりと優しい力に肩を抱かれた。かすかなお香の匂いが、ふわりと漂う。
「悠ちゃんが、責任感じることじゃないのよ。あなたのせいじゃない。……ごめんなさい。ずっと、苦しませてたのね」
「でも……やっぱり俺が」
「確かに、原因はあなたとのことだったかもしれない。でもあの子は、あなたがこんなふうに苦しむことを望んで死んだわけじゃないわ。そんな子じゃ、なかったでしょ」
そう言って彼女は立ち上がり、位牌の脇に置いてあった白い封筒を手にとって、一枚の紙片を取り出して悠哉に渡した。
「読んでみて」
言われて、悠哉は白い紙を開いた。目に飛び込んできた見覚えのある文字を見て、思わずハッと顔を上げる。ナオの母親が、ゆっくりと頷いてみせた。
「あの子の書いたものよ」
震える指で、悠哉はその文字を辿った。筆圧の高い、くっきりとした文字。たった一行だった悠哉への手紙とは対照的に、そこには便箋一枚にきっちりと文章がつづられていた。
『母さんへ。
これが届くころ、オレはこの世にはいないと思います。驚かせて、ほんとにごめん。
でも、これだけはわかってほしい。オレは、何かが辛くて逃げるのではなく、何かに絶望したわけでもありません。
大切な人を、傷つけてしまいました。だからオレは死にます。それが誰か、母さんにもいつかわかるかもしれない。でも、その人を責めないでください。傷つけたのはオレの方で、その人は何も悪くない。
オレが死ぬことで、かえって苦しませることになるのかもしれない。でもきっといつか、オレのことを忘れて、幸せになってくれると思う。そのために、オレはその人の前からいなくなろうと思います。
オレを生んでくれてありがとう。育ててくれて、感謝してます。生まれたことを後悔して死ぬわけじゃないから……だから悲しまないでほしい。
尚之』
読み終えると、悠哉は白い紙片をもとのとおりに畳んで、ぎゅっと眉根を寄せた。
泣かない、と思った。自分よりも悲しんでいるはずの人が、目の前にいるのだから……この人の前では、みっともなく泣きじゃくるなんてできない。
「大事な人って……あなたのことだったのね。すぐにわかってあげてれば、悠ちゃんもこんなに苦しまなくて済んだのに」
「……違う。おばさんは、俺を……許さなくていいんです」
悠哉が言うと、彼女は静かに首を振った。
「駄目よ。私は、あなたを責めない。憎んだり、恨んだりしない。あなたを守るためにあの子が死んだのなら……それが、尚之の望みだったのなら……私が、それを無駄にするわけにはいかないの」
「じゃあ俺は、どうやって償えばいいんですか。何も……できない?」
すると彼女は目を伏せ、ゆっくりと悠哉の手を取った。どこまでも穏やかな、優しい仕草だった。
「そんなに言うなら……じゃあ、遠慮なく責めさせてもらうわ。……ねえ、ナオが死んだのはあなたのせいなんだから、私のお願いを二つ聞いてちょうだい」
悠哉は頷いた。責められた方が、いっそ楽なのだ。何か自分にできることがあるなら、どんなことでもする。
「ひとつめ。これからは、お花のかわりに……ピアノを弾いてあげて。あの子、あなたのピアノ、好きだったわ。……それから」
ふたつめ。そう呟いて、彼女はようやく涙を見せた。ぎゅうっと優しい力で抱き寄せられて、悠哉は目を閉じた。
「……幸せになって」
あの子の、ために。
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