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第三章
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シャワーから出て来た瀧川は、部屋で待っていた悠哉をダイニングキッチンに呼んだ。タオルで濡れた髪を拭きながら、冷蔵庫からビールの缶を二つ取り出し、そのうちの片方を、悠哉に放って寄越す。
悠哉は条件反射で受け取って缶を開けたものの、すぐに飲もうという気にはなれなかった。食卓の椅子を引いて、ゆっくりと腰掛ける。
「……何から話せばいいですか」
「まず……そうだな……ナオってのは誰だ。直子? 尚美? 直人?」
言いながら、瀧川はさらにガサゴソと冷蔵庫を探り、卵やらネギやらを取り出した。慣れた様子で包丁を握り、ネギを刻み始めたその後ろ姿を見て、悠哉は目を丸くする。
どうやら、何か作るつもりらしい。予想外なその光景をぼんやりと眺めながら、悠哉は尋ねられた質問に答えた。
「安岡……尚之。中学の時の、友達です」
火にかけた鍋に調味料を加えつつ、パシュ、と音をたてて缶を開けた瀧川が、ビールを一口飲んで、ちらっと悠哉を見やる。
「友達、な。それで……何があった?」
「別に」
「別に、ってことはないだろ。あんな時に、ただの友達の名前なんて呼ぶかよ」
ふーっと悠哉がため息をつく。別に、ごまかせると思ってはぐらかしているわけではない。できれば、話したくないのだ。あの頃のことを思い出せば、冷静なポーカーフェイスなんて保っていられなくなる。
悠哉が黙り込んでいると、瀧川は煮たっている鍋に卵を割り入れ、しばらくして火を止めた。食器棚から取り出したカップに、そのスープを注いで悠哉の前に置く。
「飲めよ。……味は、保証しないけど」
「食欲……ない」
「ニガテか?」
からかうように顔を覗き込まれて、悠哉は思わず吹き出した。仕方なく、熱いスープカップを持ち上げる。
卵と、わかめとネギ。少しだけ胡椒のきいた、コンソメ味。
これまでに瀧川が悠哉に食べさせたもののうち、唯一まともな味の食べ物だと思った。シャワーの後で冷えた体が、ゆっくりと温められていく。
瀧川は悠哉の正面に座り、片手でほお杖をつくと話の先を促した。
「……おまえの、好きだった奴か」
静かに聞かれて、悠哉は首を振って否定する。
ナオとは、中二のときに同じクラスになって、親しくなった。性格も趣味もまったく違うのに、なぜか気が合った。いつ、どんなきっかけで友達になったのかは忘れた。
ナオは、感情を抑えがちだった悠哉から見れば不思議なほど、よく笑い、よく怒る奴だった。清々しいほど、まっすぐな性格をしていた。
「俺にとって……ナオは本当に大事な親友でしかなかった」
中三の、秋だ。あれから、もうすぐ一年になる。
「ナオに、好きだって言われたんです。ずっと好きだった、って。俺はそれがどういう意味なのか、最初は全然わからなくて……」
でもすぐに、わかった。気づかせられた。それが、ナオの言うそれが、友達としてのスキじゃないことに。
「ナオの部屋でした。ちょうど今と同じくらいの時期で……俺たちは、確か受験勉強の途中で」
試験や進路の話をしているうちに、急に、ナオが好きだと言い出した。サッカー好きだよと言ってるいつもの明るい表情とは違う顔で。
呆然としていた悠哉を、ナオは唐突に抱き締めて来た。好きだって言葉を、耳元で何回も聞かされた。そして……あとは、よく覚えていない。
「無理やり、レイプされたんです。俺……ただびっくりして、終わった後で、ナオのこと思いっきり殴ってた。殴って……情けないくらいボロボロ泣いてた」
あのときの感情を、うまく言葉で説明はできない。驚きと、恐怖と……裏切られたような思いと。あとは……心に焼き付いた、ナオの悲しげな表情。
「ごめんって謝って、ナオはすごく傷ついた顔をしてました。でも俺は、すぐにそれを許すなんて言えなくて……そこから、逃げ出した」
ナオがどんな思いで気持ちを打ち明けたかなんて、気遣う余裕はなかった。ナオがどれだけ苦しんだかなんて、思いやれるほど大人じゃなかった。
どうやって家までたどり着いたのかは覚えていない。走り続けて、自分の部屋に飛び込んで、何も思い出さないようにと耳を塞いだ。
その翌日は、学校を休んだ。ナオの顔を見たくない。そして今の自分を、誰にも見られたくなかった。
ナオの家に置いて来た鞄と参考書を、学校がえりにナオが届けてくれたが、悠哉は会わなかった。玄関先で母親と話しているナオの声を、階段の上で隠れるようにして聞いた。それが、最後だった。
「……ナオが死んだのが、その次の日です」
悠哉が言うと、瀧川は驚いたように視線を上げて、ビールの缶をテーブルに置いた。
「十月の、二十九日でした。学校の屋上から飛び降りて」
その日も学校を休んでいた悠哉に、ナオの訃報を知らせたのは、学校の担任だった。電話口で、悠哉は凍りついた。
嘘だ、と繰り返し呟いたが、頭ではそれが事実なのだとわかっていた。ナオは死んだ。
そして、ナオの死の二日後に、悠哉のもとに手紙が届いた。自殺する前に投函された、ナオからの手紙だった。
『愛してる。ごめん。サヨナラ』
そこには短く、ただそれだけが記されていた。
「ナオのお母さんも先生も、受験を苦に、っていうのが理由だろうって思ってます。でも……本当は、俺のせいなんです。俺が、ナオを……死なせた」
ずっと、誰にも言えなかった。言えるはずがない。それでも、一人でずっと抱え込んでいるのは辛かった。
「大事な、友達だった。でも、それじゃ駄目だったのかな。俺……どうすれば良かったのか……全然わからない」
そう呟いた悠哉の頭を、ぐいっと瀧川が抱き寄せた。その腕を避けずに、悠哉はゆっくりと目を閉じた。その途端、温かい涙が瞳から溢れたのがわかったが、止めることも隠すこともできなかった。
「おまえは、悪くない。おまえのせいじゃない。ナオって奴も、おまえを責めたくて死んだ訳じゃない」
「なら……死なないでほしかった」
愛してる。ごめん。サヨナラ。
そんな言葉よりももっと、欲しいものがあった。前と変わらずに、そばにいてくれればそれで良かった。
もっと、話したかったことがあった。一緒に笑ったり、何かに夢中になったり、くだらないことでムキになったり、たまにはケンカもしたり。そんな穏やかな毎日を、続けていたかった。
ナオのあの明るい笑顔を、こんなに苦しい気持ちで思い出すのは嫌なのだ。忘れたくないのに、覚えているのは辛い。
「なあ、おまえさ……」
瀧川は、言いかけて結局やめた。複雑なため息をついて、子供をあやすように、ポンポンと軽く悠哉の頭を叩く。
おまえ……そいつのこと好きだったんだな。
……言わない方が、いいのかもしれない。たぶん、余計に辛くなるだけだから。
悠哉は条件反射で受け取って缶を開けたものの、すぐに飲もうという気にはなれなかった。食卓の椅子を引いて、ゆっくりと腰掛ける。
「……何から話せばいいですか」
「まず……そうだな……ナオってのは誰だ。直子? 尚美? 直人?」
言いながら、瀧川はさらにガサゴソと冷蔵庫を探り、卵やらネギやらを取り出した。慣れた様子で包丁を握り、ネギを刻み始めたその後ろ姿を見て、悠哉は目を丸くする。
どうやら、何か作るつもりらしい。予想外なその光景をぼんやりと眺めながら、悠哉は尋ねられた質問に答えた。
「安岡……尚之。中学の時の、友達です」
火にかけた鍋に調味料を加えつつ、パシュ、と音をたてて缶を開けた瀧川が、ビールを一口飲んで、ちらっと悠哉を見やる。
「友達、な。それで……何があった?」
「別に」
「別に、ってことはないだろ。あんな時に、ただの友達の名前なんて呼ぶかよ」
ふーっと悠哉がため息をつく。別に、ごまかせると思ってはぐらかしているわけではない。できれば、話したくないのだ。あの頃のことを思い出せば、冷静なポーカーフェイスなんて保っていられなくなる。
悠哉が黙り込んでいると、瀧川は煮たっている鍋に卵を割り入れ、しばらくして火を止めた。食器棚から取り出したカップに、そのスープを注いで悠哉の前に置く。
「飲めよ。……味は、保証しないけど」
「食欲……ない」
「ニガテか?」
からかうように顔を覗き込まれて、悠哉は思わず吹き出した。仕方なく、熱いスープカップを持ち上げる。
卵と、わかめとネギ。少しだけ胡椒のきいた、コンソメ味。
これまでに瀧川が悠哉に食べさせたもののうち、唯一まともな味の食べ物だと思った。シャワーの後で冷えた体が、ゆっくりと温められていく。
瀧川は悠哉の正面に座り、片手でほお杖をつくと話の先を促した。
「……おまえの、好きだった奴か」
静かに聞かれて、悠哉は首を振って否定する。
ナオとは、中二のときに同じクラスになって、親しくなった。性格も趣味もまったく違うのに、なぜか気が合った。いつ、どんなきっかけで友達になったのかは忘れた。
ナオは、感情を抑えがちだった悠哉から見れば不思議なほど、よく笑い、よく怒る奴だった。清々しいほど、まっすぐな性格をしていた。
「俺にとって……ナオは本当に大事な親友でしかなかった」
中三の、秋だ。あれから、もうすぐ一年になる。
「ナオに、好きだって言われたんです。ずっと好きだった、って。俺はそれがどういう意味なのか、最初は全然わからなくて……」
でもすぐに、わかった。気づかせられた。それが、ナオの言うそれが、友達としてのスキじゃないことに。
「ナオの部屋でした。ちょうど今と同じくらいの時期で……俺たちは、確か受験勉強の途中で」
試験や進路の話をしているうちに、急に、ナオが好きだと言い出した。サッカー好きだよと言ってるいつもの明るい表情とは違う顔で。
呆然としていた悠哉を、ナオは唐突に抱き締めて来た。好きだって言葉を、耳元で何回も聞かされた。そして……あとは、よく覚えていない。
「無理やり、レイプされたんです。俺……ただびっくりして、終わった後で、ナオのこと思いっきり殴ってた。殴って……情けないくらいボロボロ泣いてた」
あのときの感情を、うまく言葉で説明はできない。驚きと、恐怖と……裏切られたような思いと。あとは……心に焼き付いた、ナオの悲しげな表情。
「ごめんって謝って、ナオはすごく傷ついた顔をしてました。でも俺は、すぐにそれを許すなんて言えなくて……そこから、逃げ出した」
ナオがどんな思いで気持ちを打ち明けたかなんて、気遣う余裕はなかった。ナオがどれだけ苦しんだかなんて、思いやれるほど大人じゃなかった。
どうやって家までたどり着いたのかは覚えていない。走り続けて、自分の部屋に飛び込んで、何も思い出さないようにと耳を塞いだ。
その翌日は、学校を休んだ。ナオの顔を見たくない。そして今の自分を、誰にも見られたくなかった。
ナオの家に置いて来た鞄と参考書を、学校がえりにナオが届けてくれたが、悠哉は会わなかった。玄関先で母親と話しているナオの声を、階段の上で隠れるようにして聞いた。それが、最後だった。
「……ナオが死んだのが、その次の日です」
悠哉が言うと、瀧川は驚いたように視線を上げて、ビールの缶をテーブルに置いた。
「十月の、二十九日でした。学校の屋上から飛び降りて」
その日も学校を休んでいた悠哉に、ナオの訃報を知らせたのは、学校の担任だった。電話口で、悠哉は凍りついた。
嘘だ、と繰り返し呟いたが、頭ではそれが事実なのだとわかっていた。ナオは死んだ。
そして、ナオの死の二日後に、悠哉のもとに手紙が届いた。自殺する前に投函された、ナオからの手紙だった。
『愛してる。ごめん。サヨナラ』
そこには短く、ただそれだけが記されていた。
「ナオのお母さんも先生も、受験を苦に、っていうのが理由だろうって思ってます。でも……本当は、俺のせいなんです。俺が、ナオを……死なせた」
ずっと、誰にも言えなかった。言えるはずがない。それでも、一人でずっと抱え込んでいるのは辛かった。
「大事な、友達だった。でも、それじゃ駄目だったのかな。俺……どうすれば良かったのか……全然わからない」
そう呟いた悠哉の頭を、ぐいっと瀧川が抱き寄せた。その腕を避けずに、悠哉はゆっくりと目を閉じた。その途端、温かい涙が瞳から溢れたのがわかったが、止めることも隠すこともできなかった。
「おまえは、悪くない。おまえのせいじゃない。ナオって奴も、おまえを責めたくて死んだ訳じゃない」
「なら……死なないでほしかった」
愛してる。ごめん。サヨナラ。
そんな言葉よりももっと、欲しいものがあった。前と変わらずに、そばにいてくれればそれで良かった。
もっと、話したかったことがあった。一緒に笑ったり、何かに夢中になったり、くだらないことでムキになったり、たまにはケンカもしたり。そんな穏やかな毎日を、続けていたかった。
ナオのあの明るい笑顔を、こんなに苦しい気持ちで思い出すのは嫌なのだ。忘れたくないのに、覚えているのは辛い。
「なあ、おまえさ……」
瀧川は、言いかけて結局やめた。複雑なため息をついて、子供をあやすように、ポンポンと軽く悠哉の頭を叩く。
おまえ……そいつのこと好きだったんだな。
……言わない方が、いいのかもしれない。たぶん、余計に辛くなるだけだから。
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