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第一章
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愛してると、言った。そしてサヨナラと。
◆ ◆
バーの手前で強く踏み切った直後に、ふわりと体が自由になる気がする。
背負っている重たいものをすべて投げ出して、体をひねり、睨みつけたバーを越す。その瞬間、一瞬だけ空をとても近くに感じる。
「クリア!」
そんな誰かの声を聞きながら、ドサッとマットに体を沈み込ませて、悠哉はほっと息をついた。目の前に広がる空が、ひどく青い。
「1メートル72か。……もう2、3センチは余裕で跳べそうだな、笹辺」
寝っ転がったまま、そんな声のした方に目を向けると、背の高い人物がこちらを見下ろしている。悠哉はちょっと眉をひそめた。それがあまり相性のよくない、陸上部の先輩だったからだ。
早くどけーと次の選手からせかされて、バランスの取りづらいマットの上で身を起こし、地面に降りる。
そして、瀧川将人という名の長身の二年生の前を、ペコリと会釈をして通り過ぎた。
その途端、予想通り瀧川が皮肉な笑みをよこす。
「きれいな顔に、成績優秀、しかもスポーツ万能か。そこまでオールマイティだと胡散臭いな。おまえ、何か弱点ないのかよ?」
悠哉はムッとして瀧川を睨んだ。そもそも瀧川は長距離の選手のはずなのに、なぜわざわざ運動場の端まで来て、高跳びの練習にちゃちゃを入れるのだろう。四月に入部してから半年あまり、毎度のこととはいえ辟易していた。
さっさと校外コースでも走りに行けと思いながら、とりあえずはおとなしく首を傾げてみせる。
「さあ……」
はぐらかしてそのまま立ち去ろうとしたが……ふと思いついて、悠哉は瀧川を睨む。にっこりと、唇だけで笑んだ。
「探して、みますか? …俺の弱点」
何の気なしに言った、その一言が始まりだった。
◆ ◆
「また来てたぞ、2Dの瀧川さん」
昼休みが終わる少し前に席に戻ると、前の席の戸田久志が振り返って言った。
またか、と思いながら、悠哉はがっくりと席に着く。机の中から次の授業の教科書を探し当て、バラバラと意味もなくめくった。
「……で、何だって?」
「さあ。職員室に行ってるって教えたら、じゃあいいってさ」
「あ、そ」
瀧川は最近、頻繁にこの1Bの教室に顔を出していた。嫌でも部活で顔を合わせるのに、わざわざ教室まで来られるのは迷惑以外の何物でもなかったが、そもそも悠哉が瀧川を煽ったせいなのだから、自業自得と言われればそれまでだ。
弱点、探してみますか?
どういうわけか、瀧川は面白がってその提案に乗った。その結果、悠哉は苦手な瀧川につきまとわれる羽目になったのだ。墓穴、というヤツだろう。
「おとといは、部活の帰りでクタクタなのに引っ張って行かれて、焼鳥屋で変なもの食わされるしさ。……その前は、沖縄料理だったかな」
悠哉がぼやくと、久志はこらえ切れず笑い出す。
「まずは、苦手な食べ物ってわけか。おまえ、何か嫌いなものあるの?」
「んー……食えないほど苦手なものは別にない」
だいたいは瀧川のおごりだからまだいいが、最近、妙なものばかり食べさせられて胃がおかしくなりそうだ。結構ですと食べるのを拒否すれば、
「苦手だな?」
と決めつけてくるので、出されるものはとにかく無表情に食べ尽くしていた。
「それにしても、すごい人と張り合ってるよな、おまえ」
唐突に久志がそんなことを言い出す。いったい何が、と目で聞くと、久志はちょっと呆れたように眉根を寄せる。
「清鳳学園の瀧川将人っていったら、高校陸上界じゃあちょっとした有名人だろ。インターハイ、2位じゃなかった?」
「へえ……よく知ってるな、久志」
「おまえこそ、陸上部のくせに何で知らねーの」
「別に俺、陸上好きなわけじゃないから」
面倒臭げに悠哉が答えると、久志がちょっと驚いたような顔をした。その時ちょうど本鈴が鳴り、数学教師が教室に入って来たので、その話題は宙に浮く。
悠哉は頬杖をついて、窓の外を見やった。
陸上が、好きなわけじゃない。ただ跳ぶことが好きなだけだ。あの空に、少しだけ近づけるから。
◆ ◆
その日は部活がなかったので、6限が終わった途端、悠哉はカバンを掴んで教室を飛び出した。
チャイムの鳴った三十秒後にはじゃあなと挨拶されていた久志は、悠哉の後ろ姿を見送りつつ、あいつの苦手は瀧川さんだな、とこっそり思う。
昇降口までダッシュして、大慌てで上履きを下駄箱に押し込んだ途端、背後に妙な気配を感じて悠哉は身を強ばらせた。
ちょっと待て、と思いながら振り返ると、案の定、瀧川が腕を組んで立っていた。
にっこりと笑った顔が、なぜか怖い。
「早いな、笹辺」
「……………」
悠哉は引きつった顔で笑い返した。冗談じゃない、午後練のないこんな日にたっぷり付き合わせられるなんて真っ平だ。
「……先輩こそ、早いですね。自主練とかしなくていいんですか? 同じクラスの奴に聞いたんですけど、インターハイで二位なんですってね」
俺にかまってる暇があったら練習しろよと言外に言うが、瀧川は気にするな、とあっさり首を振る。
仕方なく、悠哉は先に歩きだした瀧川について行った。背の高い後ろ姿を見上げて、軽くため息をつく。
……今日はいったい、何を食べさせられることやら。
◆ ◆
「酒だな」
その日、激辛インド料理店に行った帰りに、唐突に瀧川がそう言い出した。
「は?」
わけがわからず悠哉が眉をひそめると、瀧川は勝ち誇ったように笑った。
「酒は苦手だろう。おまえ、根っからの優等生って感じだもんな」
よし行くぞと腕を引かれて、悠哉は慌てて立ち止まる。
「あのー、俺もう帰ります。九時回ってるし」
「明日は学校休みだろ。部活もないし。は……さては」
して得たりという表情で、瀧川が笑んだ。
「苦手なんだな?」
悠哉はハアッと深いため息をついた。そして、負けず嫌いな自分の性格をちょっとだけ恨めしく思いながら、わかりました、と答えていた。
◆ ◆
制服のままでいったいどうする気かなと思っていたら、連れて行かれたのは飲み屋ではなく、瀧川の自宅だった。
4LDKくらいだろうか。迎え入れられた小綺麗なマンションの部屋で、悠哉は落ち着かなく周囲を見回した。家には瀧川の母親がいて、陸上部の後輩と紹介された悠哉を快く迎えてくれた。
まだ仕事から戻っていないのか、父親は不在だった。
「ま、飲めよ」
冷蔵庫から持って来たらしいビールやカクテルの缶が、瀧川の自室の折り畳み式テーブルに並べられる。親がいるのにいいのかよと悠哉は思ったが、彼の母親は「飲み過ぎないのよー」と理解ある注意を寄越しただけだった。
8畳のフローリング。机とベッドとオーディオ機材。
悠哉の部屋とそう変わらない造りだ。この年齢の男子の部屋にしては片付いているので感心しかけたが、案外母親が小まめに掃除しているだけかもしれないと打ち消した。
並べられた缶の数を見て、さすがにこれを全部飲まされたら潰れるなと思い、とりあえず一つ目のプルタブを起こす。
「……どうぞ」
開けた缶を、瀧川に手渡す。そしてもう一つビールの缶を手にとって、プルタブを開けた。それをコツンと瀧川の持つ缶にぶつけてから、一気にあおる。
さっさと酔わせて逃げよう。ごくごくと喉を鳴らしてビールを飲み始めた瀧川を横目に、悠哉は思った。
あいにく、酒は苦手じゃなかった。
◆ ◆
予想通り、先に潰れたのは瀧川だった。最後の方はかなり酔いが回っていたらしく、すすめなくても一人でどんどん飲んでくれたので助かった。
眠り込んでいる瀧川を起こさぬよう、悠哉はそーっと部屋を抜け出した。
「あら、笹辺君」
キッチンで洗い物をしていた瀧川の母親が、部屋から出て来た悠哉を見て笑顔になった。悠哉はぺこりと会釈をした。
「遅くまで、すみません。瀧川先輩、酔って眠っちゃったみたいだから、俺帰ります」
「こちらこそ、将人が無理に誘ったみたいでごめんなさい。悪い先輩よね」
大丈夫? と聞かれて頷く。本当に親子なのか疑わしくなるほど、この母親はいい人だった。
もう遅いからと、わざわざタクシーを呼んで、お金まで持たせてくれた。始めは遠慮した悠哉だったが、帰り道もわからなかったため、結局は好意に甘えた。
◆ ◆
バーの手前で強く踏み切った直後に、ふわりと体が自由になる気がする。
背負っている重たいものをすべて投げ出して、体をひねり、睨みつけたバーを越す。その瞬間、一瞬だけ空をとても近くに感じる。
「クリア!」
そんな誰かの声を聞きながら、ドサッとマットに体を沈み込ませて、悠哉はほっと息をついた。目の前に広がる空が、ひどく青い。
「1メートル72か。……もう2、3センチは余裕で跳べそうだな、笹辺」
寝っ転がったまま、そんな声のした方に目を向けると、背の高い人物がこちらを見下ろしている。悠哉はちょっと眉をひそめた。それがあまり相性のよくない、陸上部の先輩だったからだ。
早くどけーと次の選手からせかされて、バランスの取りづらいマットの上で身を起こし、地面に降りる。
そして、瀧川将人という名の長身の二年生の前を、ペコリと会釈をして通り過ぎた。
その途端、予想通り瀧川が皮肉な笑みをよこす。
「きれいな顔に、成績優秀、しかもスポーツ万能か。そこまでオールマイティだと胡散臭いな。おまえ、何か弱点ないのかよ?」
悠哉はムッとして瀧川を睨んだ。そもそも瀧川は長距離の選手のはずなのに、なぜわざわざ運動場の端まで来て、高跳びの練習にちゃちゃを入れるのだろう。四月に入部してから半年あまり、毎度のこととはいえ辟易していた。
さっさと校外コースでも走りに行けと思いながら、とりあえずはおとなしく首を傾げてみせる。
「さあ……」
はぐらかしてそのまま立ち去ろうとしたが……ふと思いついて、悠哉は瀧川を睨む。にっこりと、唇だけで笑んだ。
「探して、みますか? …俺の弱点」
何の気なしに言った、その一言が始まりだった。
◆ ◆
「また来てたぞ、2Dの瀧川さん」
昼休みが終わる少し前に席に戻ると、前の席の戸田久志が振り返って言った。
またか、と思いながら、悠哉はがっくりと席に着く。机の中から次の授業の教科書を探し当て、バラバラと意味もなくめくった。
「……で、何だって?」
「さあ。職員室に行ってるって教えたら、じゃあいいってさ」
「あ、そ」
瀧川は最近、頻繁にこの1Bの教室に顔を出していた。嫌でも部活で顔を合わせるのに、わざわざ教室まで来られるのは迷惑以外の何物でもなかったが、そもそも悠哉が瀧川を煽ったせいなのだから、自業自得と言われればそれまでだ。
弱点、探してみますか?
どういうわけか、瀧川は面白がってその提案に乗った。その結果、悠哉は苦手な瀧川につきまとわれる羽目になったのだ。墓穴、というヤツだろう。
「おとといは、部活の帰りでクタクタなのに引っ張って行かれて、焼鳥屋で変なもの食わされるしさ。……その前は、沖縄料理だったかな」
悠哉がぼやくと、久志はこらえ切れず笑い出す。
「まずは、苦手な食べ物ってわけか。おまえ、何か嫌いなものあるの?」
「んー……食えないほど苦手なものは別にない」
だいたいは瀧川のおごりだからまだいいが、最近、妙なものばかり食べさせられて胃がおかしくなりそうだ。結構ですと食べるのを拒否すれば、
「苦手だな?」
と決めつけてくるので、出されるものはとにかく無表情に食べ尽くしていた。
「それにしても、すごい人と張り合ってるよな、おまえ」
唐突に久志がそんなことを言い出す。いったい何が、と目で聞くと、久志はちょっと呆れたように眉根を寄せる。
「清鳳学園の瀧川将人っていったら、高校陸上界じゃあちょっとした有名人だろ。インターハイ、2位じゃなかった?」
「へえ……よく知ってるな、久志」
「おまえこそ、陸上部のくせに何で知らねーの」
「別に俺、陸上好きなわけじゃないから」
面倒臭げに悠哉が答えると、久志がちょっと驚いたような顔をした。その時ちょうど本鈴が鳴り、数学教師が教室に入って来たので、その話題は宙に浮く。
悠哉は頬杖をついて、窓の外を見やった。
陸上が、好きなわけじゃない。ただ跳ぶことが好きなだけだ。あの空に、少しだけ近づけるから。
◆ ◆
その日は部活がなかったので、6限が終わった途端、悠哉はカバンを掴んで教室を飛び出した。
チャイムの鳴った三十秒後にはじゃあなと挨拶されていた久志は、悠哉の後ろ姿を見送りつつ、あいつの苦手は瀧川さんだな、とこっそり思う。
昇降口までダッシュして、大慌てで上履きを下駄箱に押し込んだ途端、背後に妙な気配を感じて悠哉は身を強ばらせた。
ちょっと待て、と思いながら振り返ると、案の定、瀧川が腕を組んで立っていた。
にっこりと笑った顔が、なぜか怖い。
「早いな、笹辺」
「……………」
悠哉は引きつった顔で笑い返した。冗談じゃない、午後練のないこんな日にたっぷり付き合わせられるなんて真っ平だ。
「……先輩こそ、早いですね。自主練とかしなくていいんですか? 同じクラスの奴に聞いたんですけど、インターハイで二位なんですってね」
俺にかまってる暇があったら練習しろよと言外に言うが、瀧川は気にするな、とあっさり首を振る。
仕方なく、悠哉は先に歩きだした瀧川について行った。背の高い後ろ姿を見上げて、軽くため息をつく。
……今日はいったい、何を食べさせられることやら。
◆ ◆
「酒だな」
その日、激辛インド料理店に行った帰りに、唐突に瀧川がそう言い出した。
「は?」
わけがわからず悠哉が眉をひそめると、瀧川は勝ち誇ったように笑った。
「酒は苦手だろう。おまえ、根っからの優等生って感じだもんな」
よし行くぞと腕を引かれて、悠哉は慌てて立ち止まる。
「あのー、俺もう帰ります。九時回ってるし」
「明日は学校休みだろ。部活もないし。は……さては」
して得たりという表情で、瀧川が笑んだ。
「苦手なんだな?」
悠哉はハアッと深いため息をついた。そして、負けず嫌いな自分の性格をちょっとだけ恨めしく思いながら、わかりました、と答えていた。
◆ ◆
制服のままでいったいどうする気かなと思っていたら、連れて行かれたのは飲み屋ではなく、瀧川の自宅だった。
4LDKくらいだろうか。迎え入れられた小綺麗なマンションの部屋で、悠哉は落ち着かなく周囲を見回した。家には瀧川の母親がいて、陸上部の後輩と紹介された悠哉を快く迎えてくれた。
まだ仕事から戻っていないのか、父親は不在だった。
「ま、飲めよ」
冷蔵庫から持って来たらしいビールやカクテルの缶が、瀧川の自室の折り畳み式テーブルに並べられる。親がいるのにいいのかよと悠哉は思ったが、彼の母親は「飲み過ぎないのよー」と理解ある注意を寄越しただけだった。
8畳のフローリング。机とベッドとオーディオ機材。
悠哉の部屋とそう変わらない造りだ。この年齢の男子の部屋にしては片付いているので感心しかけたが、案外母親が小まめに掃除しているだけかもしれないと打ち消した。
並べられた缶の数を見て、さすがにこれを全部飲まされたら潰れるなと思い、とりあえず一つ目のプルタブを起こす。
「……どうぞ」
開けた缶を、瀧川に手渡す。そしてもう一つビールの缶を手にとって、プルタブを開けた。それをコツンと瀧川の持つ缶にぶつけてから、一気にあおる。
さっさと酔わせて逃げよう。ごくごくと喉を鳴らしてビールを飲み始めた瀧川を横目に、悠哉は思った。
あいにく、酒は苦手じゃなかった。
◆ ◆
予想通り、先に潰れたのは瀧川だった。最後の方はかなり酔いが回っていたらしく、すすめなくても一人でどんどん飲んでくれたので助かった。
眠り込んでいる瀧川を起こさぬよう、悠哉はそーっと部屋を抜け出した。
「あら、笹辺君」
キッチンで洗い物をしていた瀧川の母親が、部屋から出て来た悠哉を見て笑顔になった。悠哉はぺこりと会釈をした。
「遅くまで、すみません。瀧川先輩、酔って眠っちゃったみたいだから、俺帰ります」
「こちらこそ、将人が無理に誘ったみたいでごめんなさい。悪い先輩よね」
大丈夫? と聞かれて頷く。本当に親子なのか疑わしくなるほど、この母親はいい人だった。
もう遅いからと、わざわざタクシーを呼んで、お金まで持たせてくれた。始めは遠慮した悠哉だったが、帰り道もわからなかったため、結局は好意に甘えた。
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