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(39)かくまい人の幕後 ①
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◇
江戸各所では、太陽の香ばしい匂いに目を覚ました生き物たちが、どこからともなく姿を現していた。
田畑に獣や蟲、町には鳥がやってきて、人々に春の訪れを告げている。
重蔵の屋敷にも例外なく、春が来た。
庭の小さな畑では、エナガが集まって土中の虫をつついている。
閉門の刑により、巣ごもり生活を強いられているあいだ、重蔵は庭の様子だけで冬の終わりを知った。
(はて、冬明けすぐだというのに、もう春鳥が来ている)
今年は例年よりも長く、寒気が江戸に居座っていたせいで、この間まで身の凍える風が吹いていた。
まだ春先だと思い込んだまま、エナガを見つけてしまった重蔵は、浦島太郎にでもなったような心地がした。
「わはは!」
重蔵の謹慎が解かれて三日後、屋敷を訪れた左近は大笑した。
「なんだおめぇ、今がまだ如月かと思ってたのかよ」
「今年は寒かったし、このあたりには桜も咲いていない。せめて弥生の頭くらいだと……」
「もう初午(稲荷神社の縁日)も終わっちまったぜ。かろうじて桜の盛りには間に合うがこないだの雨でだいぶ散った。つまらん冬明けを過ごしたな」
こう言ってはいたが、左近の笑いに嘲笑の色はなく、むしろ安心して心のほぐれた気配があった。
「重の字、ちいと肥えたか。というか、がたいが良くなったか?肩や首ががっしりとして見えるぜ」
「うむ……食べて鍛えるのを過ぎただろうか。家から出られないので鍛錬を倍に増やすしかなかったし、ここのところ食事を、その、よく食べるので」
重蔵はつい、心配になって、腹筋の筋を指でなぞった。
体調が目まぐるしく回復している自覚は、ある。
仇討試合以降、耳鳴りや眩暈がぱたりと止んだのだ。
そのおかげか、体もうんと軽くなって、以前より食が進むようになった。
「大怪我をした身なんだ、飯食って血を作るのがいちばんだぜ。ほれ食いな、長命寺の桜餅。菜物と飯ばっかり食ってるんじゃあ、味気なかったろ」
閉門の刑では、屋敷の通用口をすべて閉められてしまうため、自分自身では買い物ができない。
謹慎が明けるまで、重蔵は屋敷の前を通る商人を、通用口を見張る門番に呼び止めてもらったり、庭で取れた野菜を調理したりして、白飯の足しにしていた。
「いいのか、熊よ」
「遠慮するんじゃねえよ、復帰祝いだと思いな」
左近が土産に持ってきた包みを、重蔵の膝先へ押し進める。
甘味など、お花と生き別れてから長らく口にしていない。
自分から進んで食べようという発想が、重蔵にはなかった。
幼い時分から、父に甘味を禁じられてきたためだ。
太った体では戦えなくなると、父なりに考えていてくれたのだろう。
父の教えを厳守したまま大人になり、重蔵は自分の好きな味を忘れていた。
江戸各所では、太陽の香ばしい匂いに目を覚ました生き物たちが、どこからともなく姿を現していた。
田畑に獣や蟲、町には鳥がやってきて、人々に春の訪れを告げている。
重蔵の屋敷にも例外なく、春が来た。
庭の小さな畑では、エナガが集まって土中の虫をつついている。
閉門の刑により、巣ごもり生活を強いられているあいだ、重蔵は庭の様子だけで冬の終わりを知った。
(はて、冬明けすぐだというのに、もう春鳥が来ている)
今年は例年よりも長く、寒気が江戸に居座っていたせいで、この間まで身の凍える風が吹いていた。
まだ春先だと思い込んだまま、エナガを見つけてしまった重蔵は、浦島太郎にでもなったような心地がした。
「わはは!」
重蔵の謹慎が解かれて三日後、屋敷を訪れた左近は大笑した。
「なんだおめぇ、今がまだ如月かと思ってたのかよ」
「今年は寒かったし、このあたりには桜も咲いていない。せめて弥生の頭くらいだと……」
「もう初午(稲荷神社の縁日)も終わっちまったぜ。かろうじて桜の盛りには間に合うがこないだの雨でだいぶ散った。つまらん冬明けを過ごしたな」
こう言ってはいたが、左近の笑いに嘲笑の色はなく、むしろ安心して心のほぐれた気配があった。
「重の字、ちいと肥えたか。というか、がたいが良くなったか?肩や首ががっしりとして見えるぜ」
「うむ……食べて鍛えるのを過ぎただろうか。家から出られないので鍛錬を倍に増やすしかなかったし、ここのところ食事を、その、よく食べるので」
重蔵はつい、心配になって、腹筋の筋を指でなぞった。
体調が目まぐるしく回復している自覚は、ある。
仇討試合以降、耳鳴りや眩暈がぱたりと止んだのだ。
そのおかげか、体もうんと軽くなって、以前より食が進むようになった。
「大怪我をした身なんだ、飯食って血を作るのがいちばんだぜ。ほれ食いな、長命寺の桜餅。菜物と飯ばっかり食ってるんじゃあ、味気なかったろ」
閉門の刑では、屋敷の通用口をすべて閉められてしまうため、自分自身では買い物ができない。
謹慎が明けるまで、重蔵は屋敷の前を通る商人を、通用口を見張る門番に呼び止めてもらったり、庭で取れた野菜を調理したりして、白飯の足しにしていた。
「いいのか、熊よ」
「遠慮するんじゃねえよ、復帰祝いだと思いな」
左近が土産に持ってきた包みを、重蔵の膝先へ押し進める。
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自分から進んで食べようという発想が、重蔵にはなかった。
幼い時分から、父に甘味を禁じられてきたためだ。
太った体では戦えなくなると、父なりに考えていてくれたのだろう。
父の教えを厳守したまま大人になり、重蔵は自分の好きな味を忘れていた。
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