かくまい重蔵 《第1巻》

麦畑 錬

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⑵かくまい人を訪ねて

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◇ 

 勝之進は寺社奉行じしゃぶぎょうの配下である役人・寺社役同心じしゃやくどうしんの一端だった。   

 そもそも寺社奉行所というのは、寺院や岡場所など特定の地域の治安を維持する機関である。

 寺社奉行所ではその名にふさわしく、江戸の寺院や神社を管理するほか、関所せきしょ通行手形つうこうてがたの発行や、町民の戸籍の管理など、さまざまな役割を担っていた。  

 寺社奉行の管轄下では大検使だいけんし小検使しょうけんしと呼ばれる者たちが江戸の寺社を警邏けいらし、境内の事件を取り締まる。

 勝之進を含む寺社役同心は彼らにつき従い、寺社奉行の管轄下で見廻りや罪人の捕縛を最前線で行った。   

 この御役目が、勝之進を凶事へと導いてしまう。   

 仇の疑いをかけられた発端は、庶民の町を管理する町奉行所まちぶぎょうしょの役人――町方同心まちかたどうしんの他殺死体を見つけたことだ。   

 下町・神田かんだの隅に置かれた阿母寺あぼじへと見廻りにやってきていたとき、鈍く肉を引き裂く音が立った。

 当時、新入りの同心を連れていた勝之進は、若くして妻子のある新入りに危険を冒させまいとして、自ら確認に向かった。  

 音のしたほうを見に行ってみれば、講堂の裏側で町方同心がひとり斬り殺されている。さらに、勝之進が呆然と死体を見下ろす足元には、凶器とみられる刀が落ちていた。  

 不幸にも、その瞬間を仲間の町方同心が目撃していた。  

「や、やりゃあがった!」   

 こうして、勝之進に町方殺しの疑いがかかったのである。  

 寺の境内で起こった事件のため、容疑のかかった勝之進の身柄は寺社奉行所へと引き渡されたが、幸いにも確たる証拠がなく、すぐには処罰されずに済んだ。

 そのうえ、勝之進の性格を知る仲間たちからは、  

「だいいち、間島まじまのやつに限ってそんなことはできやしません」  

「あの真面目な小心者にできるんなら、誰にだって殺しはできます」  

 冤罪を訴える声が次々と上がった。  

 寺社奉行所の上官たちにしてみても、下で働く同心の不祥事は大事にしたくないものだ。

 仲間と上官の働きかけによって、勝之進はすぐに普段通りの生活へ戻った。   

 ところが、勝之進の無実に納得しなかったのが、殺された町方同心の娘・おりんである。  

「父上を殺しておきながら、無実の身でのうのうと生きるなど許せぬ」   

 お鈴の恨みは深く、凄絶であった。  

 家長が殺害された場合、その長子がかたきを討たなければ家督の継承が許されない。

 父を失ったお鈴の家には、元服したばかりの弟――すなわち、父の仇を討つべき嫡男がいたが、まだ年端もゆかぬため、人を斬るだけの度胸も腕前も足りなかった。   

 そこで、嫡男よりひとまわり胆力のあるお鈴は、弟と母のため、そして自らの怨恨を晴らすために、女の身で仇討あだうちを決意した。   

 当時の仇討ちは、町奉行所での正式な手続きさえ済んでいれば罪に問われない。しかも、正式な仇討であれば、時や場所を選ばず行うことができる。  

 つまり、お鈴は勝之進の住まいや勤め先へ踏み入り、合法で斬り殺せるのだ。   

 町方の娘が自ら仇討ちにやってくる———寺社役同心の仲間からそう聞いて、安心しきっていた勝之進は青ざめた。 

「馬鹿な!証拠もないのに、なぜ仇討ちの届出が許された」

「どうも、町奉行所が仇討ちの届出を許可したらしい」  

「そんな……」   

 御役目の拠点である寺社奉行の屋敷で、仲間たちに囲まれながら勝之進はうなだれた。  

 武家の生まれとはいえ、太平の世ではこれといった刃傷沙汰に巻き込まれることもないので、勝之進はとくべつ剣術の腕を磨いてはこなかった。  

 対して、お鈴には手練れの武士が助太刀につくだろうから、勝之進ひとりで敵わないのは明白だった。

 勝之進を庇っていた仲間たちも、物騒な斬り合いをするのには躊躇があって、助太刀になるのを拒んでいる。  

「はやいとこ、遠くへ逃げたほうが良いかもしれんな」  

武蔵むさしの山奥なんてどうだ」  

「いっそのこと、上方かみかたで名を変えるとか」  

 勝之進の境遇に同情した仲間たちは口々に言う。だが、勝之進は老いた両親を残して、ひとりで逐電ちくでんできるほど薄情にもなれなかった。   

 どうにかして生き延びる方法を考えあぐねていたとき、ひとりの町方与力まちかたよりき――すなわち町方同心の上官にあたる男が、勝之進の役宅を訪ねてきた。  

仇持かたきもちの勝之進って男は、おめぇかい」  

 役宅へやってきた三十路がらみの与力は、名を熊沢くまざわ左近さこんといった。

 彼が、勝之進に『重蔵』を紹介した張本人である。  

「話がある。おめぇを助けに来たんだ」   

 左近がそう言うので、勝之進は喜んで招き入れた。  

「ずいぶんと、えらい目に遭ってるそうだな。まだ二十半ばで仇持ちになっちまうとは」   

 町奉行所で仇討ちを許可したくせに、左近はまるで他人事のように同情した。  

「私は無実でございます。寺の見廻りのときに、たまたま見つけてしまっただけで……」   

 訴える勝之進に対して、  

「んなこたあ、わかってるよ。おめぇに、そんな度胸があるようには見えん」   

 左近は伝法な語調で告げながら、煙管を吹かした。 

「ただ、殺した相手がいけねぇや」   

 左近が言うに、殺された同心は奉行所内でも上官部下ともに信頼が厚く、仲間たちは彼の死をたいそう悲しんでいる。

 しかも、奉行所内にはその同心の親族がおり、姪であるお鈴の仇討ちを強く後押ししているのだという。

 結局、町奉行所内では状況証拠から、現場にいた人物でかつ、寺社奉行所の庇護を受けられる勝之進が下手人に違いないという方向で、仇討ちの許可が降りてしまった。

「残念だが、町奉行所全体で決まったことだ。俺の一存だけで仇討ちを取り消すことはできんよ」  

「では、どうしたら」  

「武家に駆け込むのさ。寺に身を隠してもいいが、乗り込まれたら坊さんでは太刀打ちできん。俺から、おめぇに助っ人を紹介してやるよ。知り合いに、かなり腕のたつ御家人ごけにんがいるんだ」   

 よほど、その御家人を買い被っているのか、左近の表情には力強い余裕と自信がある。  

「そいつは屋敷に人をかくまう、まあ、用心棒のような稼業の男さ。部屋のなかで戦わせりゃあ、負け無しの腕前よ」  

「それでは、熊沢さまから、その男を連れてきてくださるのでしょうか」  

「あ、ううむ、そこなんだがな」   

 左近は渋い顔になって、ぎこちない苦笑いを浮かべた。  

「あいつはその、引きこもり気味なんだ。家の外にほとんど出てこない。だから、かくまってほしい奴は自分の足で出向くしかなくてな」  

「熊沢さまが案内してくださるのですか」  

「いや。俺が行くと嫌がるから、おめぇ一人で行ってくれ」  

 視線を脇へやりながら、左近は後ろめたそうに告げた。その重蔵という男とは、なにか確執でもあるらしい。  

「あらかじめ場所を教えておこう。住まいは南本所の瓦町近くの」  

「すみません、その、私は本所には疎くて……」  

「じゃあ、どこが近いかねえ。そうだ、両国橋は分かるか?」  

「はい」  

「そこを渡って本所にきたら、まず川べりに突き当たるまでまっすぐ大川の下流へ歩きな。川べり沿いの道まで来たら、そのまま左へ折れて、小梅村こうめむら亀戸村かめいどむらのある田舎のほうへ、ひたすらまっすぐに歩く」  

「まっすぐ」  

「そうだ。そしたら、旅所橋たびしょばしってぇ小さな橋を渡る。その先にさ、あの化けて出るって話で有名な『おいとけ堀』って堀があってな。その隣にポツンと取り残されたみてぇに建ってる寂しい屋敷があったら、そこが重の字……重蔵の家だ」   

 『おいとけ堀』といえば、化け物が出るともっぱらの噂があった。 

  堀で釣りをすると、釣った魚を置いてゆけと命ずる声がする。怖がった釣り人が魚籠を置いてゆくと、中の魚は忽然と姿を消してしまうのだという。  

 無視して通り過ぎれば、魚もろとも堀へ引きずり込まれる———このような伝説もあるそうな。   

 そんな場所の隣に住む重蔵とやらが、小心者の勝之進には不憫にすら思えた。  

「まあ、あんな不気味でおっかない所に住んでいりゃあ、駆け込み人の追手も尻尾巻いて逃げ出すよな」   

 左近はといえば、本所へ通い慣れているのか、不気味と言いながらも笑いごとであった。  

「かたじけのうございます」  

 町方与力が同行してくれたほうが心強いが、生死の瀬戸際で贅沢は言えぬ。

 勝之進は慇懃に頭を下げた。  

「しかし、なぜ町方与力である熊沢さまが、寺社奉行の配下である私を助けてくれるのでしょうか」   

 ふと、心に引っかかったことを訊いた。  

「はっは!今さらそれを言うかよ」   

 左近が高らかに一笑した。  

「実を言うとな、俺ここのところ重の字に嫌われているらしくてな。仲直りしたいが、なかなか会っちゃくれねえ。だから、おめぇの様子を見に行くって体で」  

「それならばなおさら、熊沢さまも同行してくださればよいではありませんか」

「そうしてぇが、今度ばかりは外せない別件があるんだ。そちらを優先させてくれ」   

 要するに、私事都合のために助けてくれるらしい。でもって、自分は用事があるから、ひとりで行ってこいという。  

 このように言われた時、本来なら怒りたくもなるだろうが、綺麗ごとのない正直さが、勝之進にはどことなく爽やかに感じられた。

 勝之進は左近の憎めない人柄を信じて、重蔵のもとへ駆け込むことに決めたのである。  


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