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最終話【菊禍物語】
『菊禍物語』⑨
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江戸城から南に位置する銀座とは逆に、神田の町は北方にある。
盛り場も多い浅草や日本橋が隣接している下町だけあって、縁日でもないのに無数の人々が表大路を行き来している。
表店のない所には屋台が並び、人々の波間を縫って棒手振りが駆け抜けてゆく。
神田末広町の一角に建てられた口入屋の前で、一成と半蔵は立ち止まった。
老いた父は神田まで来る体力もなく、末端の子分に手入れをさせていたと聞いたが、埃被った家具を見れば、管理の杜撰さは明白であった。
「今日一日は掃除だけで終わりそうですね。明日には近くの店を周り、人手のいる所を探さなくてはなりません」
口入屋稼業では、奉公人を必要とする取引先を確保せねばならぬ。そのため、武家屋敷や商家などの主な奉公先へ、一成の顔を覚えてもらう必要があった。
「とりあえず、できるだけお年寄りや女性にも仕事を紹介しましょう。年配の方は知恵がありますし、女性は粘り強く働きます。じきに一家の子分たちも足を洗ってくるでしょうから、彼らにも。こういうことは、他の口入屋はやりたがりませんから、うちの店だけの持ち味に……」
「あの」
店の中を物色する一成は、半蔵の声に遮られて振り返った。半蔵はまだ、煤けた暖簾の外側にいる。
「助けてくれてありがとう。だけど、俺が不要なら捨ててくれて構わないから」
「ここまで付いてきて、今更ですか」
「そう、だよな。でも俺、聞いたんだ……お頭が、地獄へ堕ちろって言ってたのを」
半蔵の声が落ちた。
「男色に手を出した男が堕ちる地獄があるのは、俺も知ってる。地獄を信じるわけじゃないけれど」
「怖いですか?」
「一成に迷惑をかけるのが怖い」
なかなか店に踏み込まない半蔵に、一成は胸の底で冷えたものを感じた。
「一成は優秀だから仕事もできる。夜も上手いから、きっとこれから先、綺麗な女と一緒になるかもしれない。そうしたら俺、邪魔になるだろ」
「何が言いたいのですか」
「俺のために何もかも無くして、そのうえ地獄にまで堕ちる覚悟をしてるなら、俺を捨てて。世の中には出世とか、家庭とか、きっと欲しくなる物があるから」
暖簾に映る半蔵の影が後ずさりをする。
兵二郎の捨て台詞が、半蔵に後味の悪いものを残しているらしい。
「俺……一成を不幸にしたくない」
言い募る前に、一成は暖簾を貫いて半蔵の手を掴む。とらえた半蔵の手首に、己の爪が食い込んだ。
「連れて行ってほしいと頼んだのは、半蔵さんですよ。あなたを助けたのも、あなたのその願いを信じたゆえです。それとも、私は近いうちに死ぬから、甘い言葉をかけておけばいいとでも?」
「そ、そんなことないっ」
半蔵は弾かれたような声で否定した。
「けれど、一成が死なないと分かってたら、俺はそんな、身の丈をわきまえないお願いはしなかった。一成はもっと成功できるのに、俺のせいで足を引っ張りたくない」
謙虚すぎる半蔵の態度が、かえって一成を苛立たせた。
「嫌なら嫌といってください。度の過ぎる謙虚は、嘘つきと同じですよ」
自分が半蔵についた嘘は、棚に上げた。
「そもそも多苦悩処(男同士で情交に及んだ者が堕ちる地獄)など存在しませんし、私は信じません」
売春も斡旋するやくざ者の稼業柄、一成は岡場所への出入りも多かったが、そこで見かける光景こそ地獄だ。
遊女に惚れ込んで身を滅ぼす男もいれば、間男との愛に溺れる遊女もいる。愛の交わるところには、必ず地獄が生まれるものだ。
表の社会も、おしなべて地獄である。
愛した男と川へ沈んだ者、身分差の恋のために家を捨てた者、愛する男のために殺戮した者、すべてこの世に生きる者たちが、愛ゆえに起こした災禍だ。
一成の見聞きした愛に、美しいものなどなかった。
「私は、今生が幸せなら満足ですよ」
それでもなお、半蔵は尻ごみしている。
「俺は、一成を好きになっていいのかい。俺みたいな役立たずが、一成のような立派な人を。それで本当に、後悔はないのかい」
怯えた声色で半蔵が尋ねた。
「くどいです」
一成は己が放つ気配に重みを乗せた。
「そもそも、あなたは私のものでしょう。父の財産と、大勢の子分、一家が稼ぐ収益、全てを捨てて得たのが、あなたです。契約の通り、死ぬまで、そばに置きますからね」
半蔵は立ち往生して、一成の言葉を聞いている。その足元に落ちた粒が、地に滲み、いちだん暗い色に染めた。
言うまでもなく、涙であった。
「ありがとう、一成」
手首を掴んでいた一成の指を解くと、半蔵は自身の指にそっと絡ませた。
「……手伝うよ。二人で住むなら、二人で綺麗にしなきゃ」
目を腫らしながらも、顔色の良くなった半蔵が、ついに暖簾をくぐってきた。
【終】
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