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最終話【菊禍物語】
『菊禍物語』⑧
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半蔵に毒酒を持たせた翌日の朝、一成の子分から報せを受けた兵二郎は足早に、銀座の呑み屋へ走った。
『親分が病に倒れやした。ありゃ長く持ちますめぇ』
こう聞きつけた兵二郎の足取りは軽い。
仕事へ向かう大工を追い抜かし、呑み屋の表戸口を叩くと、すぐ一成の部屋へ上がった。
兵二郎が口元の緩みを引き締め、あたかも深刻な面差しで襖を開けると、
「おはようございます」
敷居の先には、着流しと羽織を端正に着こなした一成が座していた。
肌艶もよく、背筋も伸びて姿勢がいい。いたって健康体である。
「……ずいぶんと、体が楽そうじゃねえか。病に倒れたのは嘘か?」
一成は何も返さず、空になった瓶子だけを傍らに置いた。
「蛇はたしかに猛毒を持ちます。父の蛇の場合、麻痺を起こす毒ですので、起きがけに少し体が痺れましたが」
「……何の話だ」
「たいてい、蛇の毒は血の中に入って効果を発揮します。しかし、腹に入れば、胃で溶かされてしまうのです」
固唾を飲む兵二郎に教えてやりながら、
「どうぞ。ちょうどお兄さんに話があります」
一成は文机に用意した書状を見せた。
おそるおそる、書面に目を走らせた兵二郎は、やがて鬼気迫る形相で一成を睨んだ。
「親分の座を俺に譲る?何を企んでやがる」
「文字通りです。私はあなたに親分の席を譲り渡し、現親分を辞退します」
「なにが目的だ。裏があるんだろう」
「子分たちが今、世間から強い非難の眼差しを受けているのは、ご存じですね」
「それがどうした」
「朝場一家を抜けたいと思いながらも、制裁を恐れて盃を返せない子分も多いでしょう。親分の私が先に一家を抜け、のちに盃を返す者すべての『親不孝』を不問とするのです」
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「この、ふたつめの約束は?」
兵二郎が書状の三項目を指さす。
・一成の家督を兵二郎に譲渡すべし。
・父の残した金のうち半分の五百両を一成に譲るべし。
・一成の選んだ奉公人をひとり、兵二郎の配下から譲るべし
と、ある。
「五百両も何に使うつもりだ」
「足抜けする子分たちへの手向けです。それから、私も堅気の身となって商売を始めるので、少し頂戴しますよ」
「おめぇが商売なんぞできるか?」
「神田には、父が昔、私に口入屋の仕事を手伝わせていた店があります。今は誰も使っていませんから、そこを私が口入屋として頂きます」
口入屋の稼業は、店に奉公人を紹介して仲介料を頂戴するものだ。
江戸時代、働き手を斡旋する口入屋の経営者にはやくざ者も多かったが、阿漕な人材斡旋が減ると、やがてハローワークの原点になった。
「ですが、埃を被った店の中を掃除するには手が足りませんから、書状通り奉公人をひとり頂きますよ。お兄さんの配下である、半蔵さんを」
刹那、兵二郎の眉間に青筋が走った。
「おめぇ……そういうことか、初めから半蔵を奪い取る気でいやがったな」
「まさか。偶然では?」
「とぼけんな。おめぇは昔からそうだ。俺の名も、親父も、何もかも奪っていきやがる」
長身の兵二郎に凄まれても、一成は無表情を崩すどころか、耳穴を指で掘る余裕さえあった。
「大切にしない割に、ずいぶんと半蔵さんに執着するのですね」
「おめぇに取られるのが気に入らねぇんだ」
「半蔵さんが、父さんから贈られたものだからでしょう」
兵二郎は口を閉じるのも忘れ、魂が抜けたように言葉を失った。
「お兄さんの昔の話は知っています。私が産まれるまでは父に愛され、よく懐いていたと」
「だから、どうしたってんだ」
「お兄さんは父の気を引きこうと、悪行三昧に走ったのでしょう。私を殺すのに迷いなく蛇を選んだのも、父の気に入っていた物だからではないのですか」
「なに」
兵二郎の顔に血が上りはじめた。
「あなたの父への愛は否定しません。むしろ尊重します。だから、父の残した一家を譲ります。――もちろん、あなたも、私が愛している半蔵さんを譲ってくれますよね」
続ける一成の襟を、兵二郎は怒りに任せて掴みあげた。
「殺してやる」
咄嗟に懐の匕首を抜き放つや、一成の頸めがけて電光の勢いで刃を走らせる。
ところが、凶刃が頸の皮を引き裂く間一髪のところで、兵二郎の体が後方へ倒れた。
胸ぐらを掴まれ、爪先立ちになっていた一成が、兵二郎の鳩尾《みぞおち》へ全力の蹴りを入れたのである。
「げほっ」
えずいた兄の顔面めがけて、一成の拳が叩き込まれる。殴られた頬肉の裏で、歯がひとつ欠けた。
殴り倒した兄に粛々と跨るや、襟に手をかけ、まだ無傷の左頬を強く打った。
「おい、誰に向かって言ってんだ」
一成の声色が豹変する。
兵二郎も聞いたことのない、獣のごとき唸り声で、一成は静かに恫喝した。
「お前を殺して一家を立て直したほうが、俺にとっちゃ手っ取り早いんだぞ。いいや、半蔵が頼まなきゃ、近いうちに、そうしていただろうよ」
「この」
首をもたげた兵二郎の耳元へ、一成はすかさず奪った匕首を突き立てた。
「一家の者たちは名の汚れた組織を足抜けでき、あなたは半蔵さんを引き換えに、一家の頭領となれるのです。誰も損をしない、素晴らしい案だとは思いませんか」
慇懃な口調に戻した一成だが、突き立てた匕首は畳を削って兵二郎の耳を舐めた。
「何が気に入ってやがる。おめぇのような、心のねえ奴が、なにを面白がって半蔵に手を出した」
いまに耳が上下に泣き別れようという瞬間にも、兵二郎は一成に毒を吐いた。
だが、高圧的な態度の裏腹で、唇は震え、眼は潤んでいた。
これが、一成の本性なのだ。
取引をしながらも、一成は死の脅威を常にちらつかせている。首を縦に振らねば殺そうと、内心では決定している。
「鬼だ、おめぇは……望みを叶えるためなら何だってしやがる」
なじる兵二郎を見下ろして、一成はせせら笑う。
「やくざ者って、そういう生き物でしょう」
一成は血の雫が伝う匕首を持ち上げた。
「父といいお兄さんといい、私に心が無いなどと人聞きが悪いですよ」
不服そうに、一成は頬を膨らませた。
「私は私の幸せのために、効率よく生きているのです。そして、私の人生を充実させるためには、私の利益を常に考えてくれる人が必要です。つまり、半蔵さんですね」
「半蔵がなんの得をさせてくれる?奴は不器用で根性もねえ。足を引っ張るぜ」
「言ったでしょう。私は、私だけが幸福ならそれで良いのです。彼は他人のために生きたいようでしたから、私ひとりに一生尽くしていただきます。あなたのように、無駄遣いはしませんよ」
匕首を置き捨てると、跡目相続の書状を手に、兵二郎の前に膝を折った。
「さて、どうなさいますか。言っておきますが、報復は考えないでください。あなたがたが損をするだけです」
書状を敷く一成を前に、兵二郎は戦意を失った。耳から滴る鮮血を指に纏わせると、血判を叩きつけた。
兵二郎が十年以上も望んだ地位を、一成はたった一人の男のために兄へ譲ったのだ。
喜ばしい以上に悔しくてならぬ。
だが、一成の命だけは奪えぬと思い知らされた今、屈する以外に道がなかった。
「一成」
「なんでしょう」
「おめぇを裏切る、と言って、子分の八八が蛇の毒を持ってきたが……あれは、おめぇが根回ししたのか」
「優しい子分に恵まれましてね」
「なぜ、蛇の毒を届けさせた。俺がその毒を使うとは限らんだろう」
「あれは父が飼っていた蛇の毒ですから。素直なお兄さんなら、絶対に使うと信じていましたよ」
「そうか」
兵二郎は声を落とすと、やがて、深くうつむいた。
「……地獄へ堕ちろ」
恨み言を残す兵二郎から、書状の控えを受け取ると、
「跡目相続の晩、あなたを生かしておいてよかった。半蔵さんが私に、毒酒を届けに来たおかげで、彼を我が物にできました」
羽織をひるがえすと、一成は部屋を後にする。
兵二郎が何度も、床へ拳を叩きつける音が、襖越しに聞こえてきた。
最低限の身支度を済ませると、裏手で待たせていた半蔵のもとへ降りた。
◇
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