菊禍物語(きっかものがたり)

麦畑 錬

文字の大きさ
上 下
23 / 24
最終話【菊禍物語】

『菊禍物語』⑧

しおりを挟む



 半蔵に毒酒を持たせた翌日の朝、一成の子分から報せを受けた兵二郎は足早に、銀座の呑み屋へ走った。

『親分が病に倒れやした。ありゃ長く持ちますめぇ』

 こう聞きつけた兵二郎の足取りは軽い。

 仕事へ向かう大工を追い抜かし、呑み屋の表戸口を叩くと、すぐ一成の部屋へ上がった。

 兵二郎が口元の緩みを引き締め、あたかも深刻な面差しで襖を開けると、

「おはようございます」

 敷居の先には、着流しと羽織を端正に着こなした一成が座していた。

 肌艶もよく、背筋も伸びて姿勢がいい。いたって健康体である。

「……ずいぶんと、体が楽そうじゃねえか。病に倒れたのは嘘か?」

 一成は何も返さず、空になった瓶子だけを傍らに置いた。

「蛇はたしかに猛毒を持ちます。父の蛇の場合、麻痺を起こす毒ですので、起きがけに少し体が痺れましたが」

「……何の話だ」

「たいてい、蛇の毒は血の中に入って効果を発揮します。しかし、腹に入れば、胃で溶かされてしまうのです」

 固唾を飲む兵二郎に教えてやりながら、

「どうぞ。ちょうどお兄さんに話があります」

 一成は文机に用意した書状を見せた。

 おそるおそる、書面に目を走らせた兵二郎は、やがて鬼気迫る形相で一成を睨んだ。

「親分の座を俺に譲る?何を企んでやがる」

「文字通りです。私はあなたに親分の席を譲り渡し、現親分を辞退します」

「なにが目的だ。裏があるんだろう」

「子分たちが今、世間から強い非難の眼差しを受けているのは、ご存じですね」

「それがどうした」

「朝場一家を抜けたいと思いながらも、制裁を恐れて盃を返せない子分も多いでしょう。親分の私が先に一家を抜け、のちに盃を返す者すべての『親不孝』を不問とするのです」

 やくざ者の足抜けは、親分と子分の縁切りであり、親子の縁を切るに匹敵する。

 朝場一家の場合これを『親不孝』とし、子分のほうから親分の元を去る際には、強い制裁が課せられた。

「それに、二代目親分が辞めることで、堅気を死なせた責任を取ったと、分かりやすく世間に示せます。組織の印象も少しは回復するでしょう。一家に残る者たちのためにもなりますね」

「この、ふたつめの約束は?」

 兵二郎が書状の三項目を指さす。

・一成の家督を兵二郎に譲渡すべし。

・父の残した金のうち半分の五百両を一成に譲るべし。

・一成の選んだ奉公人ほうこうにんをひとり、兵二郎の配下から譲るべし

 と、ある。

「五百両も何に使うつもりだ」

「足抜けする子分たちへの手向けです。それから、私も堅気の身となって商売を始めるので、少し頂戴しますよ」

「おめぇが商売なんぞできるか?」

神田かんだには、父が昔、私に口入屋の仕事を手伝わせていた店があります。今は誰も使っていませんから、そこを私が口入屋くにゅうやとして頂きます」

 口入屋の稼業は、店に奉公人を紹介して仲介料を頂戴するものだ。

 江戸時代、働き手を斡旋する口入屋の経営者にはやくざ者も多かったが、阿漕な人材斡旋が減ると、やがてハローワークの原点になった。

「ですが、埃を被った店の中を掃除するには手が足りませんから、書状通り奉公人をひとり頂きますよ。お兄さんの配下である、半蔵さんを」

 刹那、兵二郎の眉間に青筋が走った。

「おめぇ……そういうことか、初めから半蔵を奪い取る気でいやがったな」

「まさか。偶然では?」

「とぼけんな。おめぇは昔からそうだ。俺の名も、親父も、何もかも奪っていきやがる」

 長身の兵二郎に凄まれても、一成は無表情を崩すどころか、耳穴を指で掘る余裕さえあった。

「大切にしない割に、ずいぶんと半蔵さんに執着するのですね」

「おめぇに取られるのが気に入らねぇんだ」

「半蔵さんが、父さんから贈られたものだからでしょう」

 兵二郎は口を閉じるのも忘れ、魂が抜けたように言葉を失った。

「お兄さんの昔の話は知っています。私が産まれるまでは父に愛され、よく懐いていたと」

「だから、どうしたってんだ」

「お兄さんは父の気を引きこうと、悪行三昧に走ったのでしょう。私を殺すのに迷いなく蛇を選んだのも、父の気に入っていた物だからではないのですか」

「なに」

 兵二郎の顔に血が上りはじめた。

「あなたの父への愛は否定しません。むしろ尊重します。だから、父の残した一家を譲ります。――もちろん、あなたも、私が愛している半蔵さんを譲ってくれますよね」

 続ける一成の襟を、兵二郎は怒りに任せて掴みあげた。

「殺してやる」

 咄嗟に懐の匕首あいくちを抜き放つや、一成のくびめがけて電光の勢いで刃を走らせる。

 ところが、凶刃が頸の皮を引き裂く間一髪のところで、兵二郎の体が後方へ倒れた。

 胸ぐらを掴まれ、爪先立ちになっていた一成が、兵二郎の鳩尾《みぞおち》へ全力の蹴りを入れたのである。

「げほっ」

 えずいた兄の顔面めがけて、一成の拳が叩き込まれる。殴られた頬肉の裏で、歯がひとつ欠けた。

 殴り倒した兄に粛々と跨るや、襟に手をかけ、まだ無傷の左頬を強く打った。 

「おい、誰に向かって言ってんだ」

 一成の声色が豹変する。

 兵二郎も聞いたことのない、獣のごとき唸り声で、一成は静かに恫喝した。

「お前を殺して一家を立て直したほうが、俺にとっちゃ手っ取り早いんだぞ。いいや、半蔵が頼まなきゃ、近いうちに、そうしていただろうよ」

「この」

 首をもたげた兵二郎の耳元へ、一成はすかさず奪った匕首を突き立てた。

「一家の者たちは名の汚れた組織を足抜けでき、あなたは半蔵さんを引き換えに、一家の頭領となれるのです。誰も損をしない、素晴らしい案だとは思いませんか」

 慇懃な口調に戻した一成だが、突き立てた匕首は畳を削って兵二郎の耳を舐めた。

「何が気に入ってやがる。おめぇのような、心のねえ奴が、なにを面白がって半蔵に手を出した」

 いまに耳が上下に泣き別れようという瞬間にも、兵二郎は一成に毒を吐いた。

 だが、高圧的な態度の裏腹で、唇は震え、眼は潤んでいた。

 これが、一成の本性なのだ。

 取引をしながらも、一成は死の脅威を常にちらつかせている。首を縦に振らねば殺そうと、内心では決定している。

「鬼だ、おめぇは……望みを叶えるためなら何だってしやがる」

 なじる兵二郎を見下ろして、一成はせせら笑う。

「やくざ者って、そういう生き物でしょう」

 一成は血の雫が伝う匕首を持ち上げた。

「父といいお兄さんといい、私に心が無いなどと人聞きが悪いですよ」

 不服そうに、一成は頬を膨らませた。

「私は私の幸せのために、効率よく生きているのです。そして、私の人生を充実させるためには、私の利益を常に考えてくれる人が必要です。つまり、半蔵さんですね」

「半蔵がなんの得をさせてくれる?奴は不器用で根性もねえ。足を引っ張るぜ」

「言ったでしょう。私は、私だけが幸福ならそれで良いのです。彼は他人のために生きたいようでしたから、私ひとりに一生尽くしていただきます。あなたのように、無駄遣いはしませんよ」

 匕首を置き捨てると、跡目相続の書状を手に、兵二郎の前に膝を折った。

「さて、どうなさいますか。言っておきますが、報復は考えないでください。あなたがたが損をするだけです」

 書状を敷く一成を前に、兵二郎は戦意を失った。耳から滴る鮮血を指に纏わせると、血判を叩きつけた。

 兵二郎が十年以上も望んだ地位を、一成はたった一人の男のために兄へ譲ったのだ。

 喜ばしい以上に悔しくてならぬ。

 だが、一成の命だけは奪えぬと思い知らされた今、屈する以外に道がなかった。

「一成」

「なんでしょう」

「おめぇを裏切る、と言って、子分の八八が蛇の毒を持ってきたが……あれは、おめぇが根回ししたのか」

「優しい子分に恵まれましてね」

「なぜ、蛇の毒を届けさせた。俺がその毒を使うとは限らんだろう」

「あれは父が飼っていた蛇の毒ですから。素直なお兄さんなら、絶対に使うと信じていましたよ」

「そうか」

 兵二郎は声を落とすと、やがて、深くうつむいた。

「……地獄へ堕ちろ」

 恨み言を残す兵二郎から、書状の控えを受け取ると、

「跡目相続の晩、あなたを生かしておいてよかった。半蔵さんが私に、毒酒を届けに来たおかげで、彼を我が物にできました」

 羽織をひるがえすと、一成は部屋を後にする。

 兵二郎が何度も、床へ拳を叩きつける音が、襖越しに聞こえてきた。

 最低限の身支度を済ませると、裏手で待たせていた半蔵のもとへ降りた。

 ◇
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

一度くらい、君に愛されてみたかった

和泉奏
BL
昔ある出来事があって捨てられた自分を拾ってくれた家族で、ずっと優しくしてくれた男に追いつくために頑張った結果、結局愛を感じられなかった男の話

「優秀で美青年な友人の精液を飲むと頭が良くなってイケメンになれるらしい」ので、友人にお願いしてみた。

和泉奏
BL
頭も良くて美青年な完璧男な友人から液を搾取する話。

黄色い水仙を君に贈る

えんがわ
BL
────────── 「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」 「ああ、そうだな」 「っ……ばいばい……」 俺は……ただっ…… 「うわああああああああ!」 君に愛して欲しかっただけなのに……

思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった

たけむら
BL
「思い込み激しめな友人の恋愛相談を、仕方なく聞いていただけのはずだった」 大学の同期・仁島くんのことが好きになってしまった、と友人・佐倉から世紀の大暴露を押し付けられた名和 正人(なわ まさと)は、その後も幾度となく呼び出されては、恋愛相談をされている。あまりのしつこさに、八つ当たりだと分かっていながらも、友人が好きになってしまったというお相手への怒りが次第に募っていく正人だったが…?

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

処理中です...