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最終話【菊禍物語】
『菊禍物語』⑤
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翌日の晩となった。
兵二郎の寄越した博徒に見張られながら、半蔵は重い足取りで、銀座の表店が立ち並ぶん往来へ足を踏み入れた。
このあたりは朝場一家の本家が仕切っており、一成の住まう場所を中心に、裏長屋や周囲の商店に配下の侠客たちが生活している。
一成が寝起きするのは、配下が表稼業として営む呑み屋の二階である。
店仕舞いの最中だった呑み屋の主へ、半蔵の見張りが適当な理由をつけて話すと、
「おめぇだけ通れ」
兵二郎の配下を疑ったためか、巨漢の主は半蔵だけを一成の部屋へ上げた。
階段を上がったところには、一成がなだらかな夜風に煙管の煙を泳がせていた。
「十日ぶりになりますね。待ちわびていましたよ」
窓を閉じた一成が指の上にふたつ雁首を打つと、煙草盆の上へ音もなく灰が散った。
「あの、兵二郎のお頭からです。跡目を継いだお祝いに、酒をお贈りしろと」
半蔵の頸を汗が伝う。
侠客の親分なら、敵対する兄からの贈り物を、なんの疑いもなく受け取るはずがない。
(毒だと気づいてくれ)
半蔵は祈った。
一成がもし毒に気づけば、半蔵はその時点で自らの独断による犯行だと訴えて、ひとりで背負い込むつもりでいた。
そうすれば、兵二郎に累は及ばず、父も巻き込まれないと思った。
震える半蔵をしばし凝視した一成は、
「では、頂きましょうか」
と、瓶子を受け取った。
半蔵の肝が冷える。
咄嗟に一成の手から瓶子をひったくり、腕に固く抱きかかえた。
「どうしてなんだ。やくざの親分だろ。仲の悪い兄弟から贈られたものなら、どうして疑いもしないんだ」
必死に声を荒らげる半蔵を見ても、一成は眉ひとつ動かさない。
「なにか盛られているくらいは、想像していましたよ。で、中身はなんですか」
命の危険に晒されていながら、淡白な一成の語調には、半蔵も拍子抜けさせられた。
「……蛇の毒です。先代の親分さんが手に入れた、南蛮の蛇だと」
「ああ、父の気に入っていたものですね。好きも余って、私の身体にまで彫り込まれましたよ。まさか兄がご丁寧に、蛇の毒を使うとは思いませんでしたが。あの方は本当に父が好きですね」
一成は瓶子を守る半蔵の腕を掴む。
大の男にも勝る腕力で半蔵を引き剥がすと、奪い取った酒を一気に呑み干した。
半蔵は絶句した。
「な、なんで」
へたり込む半蔵を見下ろしながら、一成は空になった瓶子を部屋の隅へ置いた。
「あなたが毒入りの酒と知っていて、ここに持ってきたのなら、なにか裏があるのでしょう。やらねば殺すと脅されたか、それとも身内を人質にとられたか、二択でしょうがね。どちらにせよ、私が毒を飲んだ方が、丸く収まるのでしょう」
一成は虚勢を張った様子もなく、青ざめた半蔵を前にして一笑した。
「やはり変わったお人ですね、半蔵さんは。私が死ねばあなたも身内も助かります。あなたは何も困らないのでは?」
「死ぬ、ん、ですよ?」
「死ぬだけです。けれど、ただ死ぬだけでは退屈ですね。なにか思い出が欲しいです」
一成は半蔵の膝先に盃をひとつ呈した。
「あの賭場で、気の弱い貴方が私のために勇気を振り絞り、無関係の子供として気を配ってくれたのは、気分が良かった。ですが、誰にでも愛を配る姿勢には、感心しませんね。この私が、その他大勢と同じ扱いを受けるなんて……あれは、とてつもなく不愉快な思いをさせられましたよ」
「そんなつもりは」
「いいえ、結果そうなっているのです。だから、今ふたたび、やり直しましょう。私が死ぬまでの間でよろしい。あなたは私だけに尽くしなさい」
「それだけのために、自分で毒を?」
「重大です。私が命を張るほどの事ですからね。もし、これが叶うなら、私に思い残すことはありません」
半蔵は胸を締めあげられる思いで、盃の酒を喉へ流した。
自分が体を売るだけでいいのかと、思わずにはいられなかった。
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