菊禍物語(きっかものがたり)

麦畑 錬

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最終話【菊禍物語】

『菊禍物語』④

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 ◇

 兵二郎の腰が動くのに合わせて、薄暗い天井の木目が上下する。

 半蔵は荒々しく肉体を犯されながら、追憶の彼方にいた。

『なぜだ、半蔵』

 記憶に焼き付いた父の声は、いつもの怒りを通り越し、絶望悲観に暮れていた。

 武士の地位を渇望していた父にとって、生まれつき上背があり、手足も長い半蔵は期待の星だった。

 剣を習えば、きっと屈強な武人となり、武家の指南役に取り立ててもらえる。半蔵の仕官が叶えば、武家になれると考えたのだ。

 ところが、半蔵は脆弱だった。

 いくら鍛えても身が細く、気性も臆病で、道場に通ったが勝てた試しはない。

 負けるたび、父は半蔵を叩いて叱った。 

 しかし、元服の年となり、体の成長が見込めなくなると、父は怒らなくなった。

『頼む、半蔵よ、強くなってくれ。武家となるのは、この父の悲願なのだ。どうかこれ以上、父を不幸にしないでくれ』

 怒らぬ代わりに、父は嘆いた。半蔵に頭を下げ、藁にも縋る勢いで泣きついた。

 父を見下ろした瞬間、生きた心地がしなかった。

 あれほどの苦痛は、ついこの間、人を見殺しにした時を除いて他にない。

(俺はこれでいい。これでいいんだ)

 半蔵は情事の間、己に言い聞かせる。

 無価値で、罪深い自分に、人並みの幸福は許されない。

 だが、宵の口から始まった凌辱が済み、寝床へ放置されている間、半蔵は放心したまま唇を撫でていた。

 一成に唇を奪われた晩から十日が過ぎている。唇は何度も貪られてきたが、一成の口付けは、今までの接吻のすべてを忘れさせた。

(何を考えているんだろう。あんなに小さくて若い子に、俺なんかが)

 優しく触れられ、ねっとりと吸いつく口付けに、つい恍惚としてしまった。

 半蔵は己を恥じた。

 一成は齢二十にも達していない青年だ。

 やくざ者の親分とはいえ、十も年下の青年に、ふしだらな欲望を抱いた自分が不甲斐なかった。

「おめぇ、どこまでやったんだ」

 後背に胡座をかく兵二郎が、煙管を煙草盆に打ちつけた。

「この間、一成を味わったろ。どうだった」

「……口をつけただけです」

「嘘をつけ」

 兵二郎が笑い飛ばす。

「あのガキゃあな、もともと親父の愛妾だった俺の母親を押しのけて、親父の女房になりやがった女の息子さ。死んだ母親に似て、人のものを平気で奪い取りやがる」

「あの人は、そんな子じゃありません。そう信じています」

 半蔵の知る一成の姿には、まだ子供のあどけなさがあった。賭場に現れた時の無垢な面影が、半蔵の脳裏に残っている。

「おめぇは一成を深く知らねえ。奴は生まれた時からやくざ者さ。暴力を見て育ち、字を覚えるより嘘を早く覚えた。だから、心がねえのさ。人のものだって平気で奪う。半蔵もだ。俺の物だから奪いたいんだろうよ」

「ほっ、本当に口付け以外は、何もされていません」

 事実である。

 一成は半蔵の唇を吸ったが、それからは指一本と体には触れず、夜明けとともに寝床を後にしてしまった。

「おめぇ、珍しく口答えをするな」

 兵二郎の慧眼が光る。

「あのガキにどこまでされたか知らんが、よほど気持ちが良かったと見える」

「なにも、思っていません」

「俺に抱かれた後ですら、思い出しちまうのにか?」

 言われて、半蔵は赤面した。

 口吸いだけとはいえ、その一度きりで腰が抜け、何度も追想している自覚はある。

 黙りこくった半蔵の顔に、兵二郎は悪辣な笑顔のまま煙をふかした。

「明日の晩、一成のところへ行ってもいい」

 兵二郎の言葉に、半蔵は俯いていた首を跳ねあげる。

「おめぇが夜に訪ねたとなれば、奴は今度こそおめぇを抱くぜ」

「そんな、俺なんかに……」

「いいや、必ず抱くさ。昨日の晩、奴はおめぇにそう話してたろ」

「お頭、まさか聞いてて」

 昨晩の、一成と半蔵のやり取りを、兵二郎は襖ひとつ隔てた所で盗聴していたらしい。

「前からやたらと、俺の賭場にきやがると思ってたが、どうやらおめぇを気に入っているようだな。野郎に菊華(男色)の趣味があるのには、驚いたが」

 おもむろに立ち上がった兵二郎は、隣の部屋の闇に消え、やがて小ぶりな竹筒と瓶子を手に戻ってきた。

「竹筒の中身は、親父が抜け荷の片棒を担いだとき、商人から買った蛇の毒だ。体格はそこらの蛇と変わりゃしねぇが、そのひと噛みで山のような巨獣を殺せる」

「どうして、そんな危ないものを、ここに持ってきたんですか?」

「一成の側近の八八が持ってきやがった。みんな、あのガキが頭になるのには、納得がいかねえんだとよ。人望のねえこった。手前の息子に彫り込んだ蛇の毒が、息子の命を奪うたぁ、親父も哀れだな」

 兵二郎は竹筒を瓶子へ傾ける。竹筒から滴る雫がいくつも瓶子の底へ落ちた。

 水面に弾けた雫の音が、半蔵に覚悟を決めさせた。

「これを酒に混ぜて持たせてやる。おめぇが一成に呑ませろ」

「……っ、できません」

 半蔵は声を振り絞って拒絶した。

「俺なんかが持っていっても、あの子はきっと飲みません。それに、毒を盛ったと分かれば、お頭もただでは済まないかと」

 一成を守りたい心は当然ある。

 だが、一成が死ねば、酒を届けさせた兵二郎が制裁を受けるに違いない。

 半蔵は兵二郎に、体の隅々まで犯し尽くされた身だが、それでも未だに忘れられぬ大恩がある。

「……先代の親分は、落ちぶれていた俺の家に金を貸してくれて、武士に返り咲かせてくれました」

 半蔵の祖先は、かつては徳川軍に属し、江戸が開発された折には御家人として土地を与えられた。

 だが、商家の繁栄とともに凋落し、祖父の代には武士の地位さえ失っている。

 二年前、半蔵の父は我が子の仕官を諦め、ついに御家人株ごけにんかぶを買った。

 庶民が武士の身分を買うには御家人株が必要だが、どれも高額である。

 父の場合、三十俵三人扶持さんじっぴょうさんにんぶちの安い御家人株を買うのにさえ、百五十両の金を要した。

 父は祖先の家宝や、死んだ母の形見をも質に出したが、百五十両には届かなかった。

 あと一歩の不足金を工面する際、半蔵と引き換えに金を貸してくれたのが、先代の朝場親分である。

「俺を家財とともに売って、百五十両もの御家人株にようやく届いたとき、俺は父上の喜ぶ顔を初めて見たんです。女ほどの金にもならない俺を、ここに置いてくれた親分と、お頭にも感謝しています。だから……お頭に死んでほしくありません」

 本心である。

 この心が伝われば、と半蔵は望んだ。

 兵二郎は冷ややかに半蔵を睨みつけ、平手で殴り倒した。

「俺が芝居小屋の中途半端な悪役みたく、改心すると思ってやがるなら、甘いぜ。もし一成がこの酒を飲まなきゃ、おめぇの親父から命を頂戴するまでよ」

 無情に吐き捨てた兵二郎は、去り際、

「親父の話じゃ、この蛇に噛まれた奴ぁ、二日ほど苦しんだ末に死ぬそうだ。附子トリカブト河豚ふぐのように、すぐ死にやしねえ。なに、万が一は病だと誤魔化すさ」

 それだけ言い残して一階へ降りた。

 半蔵は鼻から血が滴るのを、呆然として眺めていた。

 ◇
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