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第4話【重蔵の恋始末】
『重蔵の恋始末』①
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明朝に初雪を迎えた江戸の町には、いまも絶え間なく降雪が続いている。
昼を過ぎる頃には雪も厚くなり、重蔵は両手に抱えた風呂敷の重みに背を曲げて、白銀の帰路についた。
この神田・鍛冶町は、江戸の都市開発が進む時分、幕府の抱えていた名工とその弟子たちが居住したことから、製鉄職人の町として栄えた。
その名に相応しく、今も鍛冶町には鋳物屋や刀鍛冶が多く居を構え、あちこちから鉄を打つ音が遠巻きに響いてくる。
この鉄の声が、重蔵の胸を締め上げる。
(花ちゃん)
重蔵はかつて愛した女を想った。
御家人である重蔵の父と、刀研師のお花の父に縁があり、親同士の伝手で知り合った。
この娘に会いたいがために、重蔵はわざわざ住まいのある本所から歩いてきて、お花の気に入っている場所へ同行したものだ。帰り道には必ずお花を家まで送ってやり、鍛冶町の鉄の音を耳に焼き付けて屋敷へ戻った。
『またね。気をつけて帰ってね』
またね――そう言われる度、次も会うのを許された気がして、重蔵は舞い上がった。
だが、かつて新鮮な恋心に高鳴っていた胸も、いまは静まり返っている。
今より五年前の春、お花は若くして世を去った。当時、猛威を奮っていた麻疹に感染したのだ。
重蔵や友人たちには行き先を隠し、お花は単身、寺へ身を隠して死んだ。お花の死が、彼女の父の口から知れたのは、去年のことである。
そして先日、高齢だったお花の父も、後を追うように鬼籍の人となった。
お花の父の訃報を聞きつけた重蔵は、今朝に本所の屋敷を飛び出し、遺品の整理に駆けつけたのだ。
お花とその父には、他に身寄りがない。家財は長屋の者たちや友人たちに分けられることになった。
周辺の住人や、お花の友人たちが涙ぐんだ顔で家財を分け合うなか、重蔵はお花の遺品をかき集め、風呂敷いっぱいに持ち帰ってきた。
(我ながら、気持ちの悪いことをした)
重蔵とお花の間に、男女の仲はない。ただ一度だけ、お花を屋敷に泊めた。重蔵が屋敷に泊まっていくよう懇願し、お花が応じてくれたのだ。
ただ隣で眠るだけの清い夜を、共に過ごした。
この一晩が、重蔵の恋火に油を注ぎ、お花を嫁に貰おうと決意させたのである。
「っ……」
睫毛の生え揃う瞼が、涙に濡れる。雫はきめ細かな白肌を伝い、両国橋に積もった雪へぽつぽつと跡を残した。
この時代、身分差のある婚姻は禁じられている。
だが、武士が身分の劣る者と結ばれる場合は、劣るほうを武家の養子にすることで、武家同士としての結婚が許された。
本所の御家人である重蔵と、町人のお花とでは身分が違うが、縁のある武家に贈賄を贈れば、お花を武家の養女にできるのだ。
ところが、武家とはいえ御役目もなく、俸祿米と母仕込みの針仕事を主な収入にしていた重蔵に、贈賄できる大金などない。
重蔵はお花恋しさに寝る間も惜しんで針仕事をし、日雇い仕事もして稼いだ。
そうして、ようやく金の工面が目前に来たという頃、お花が麻疹に罹った。
(あの子が好んで、つけていた匂いだ)
風呂敷から、お花が好んでいた練り香の香りが、ほのかに鼻腔をくすぐる。まるで、お花が隣にいるようだった。
賑やかな神田から、閑散とした本所の奥地へ帰ってきた重蔵は、拝領屋敷(幕府が武家に与えた住居)の門をくぐった所で、わっと泣いた。
遺品へ涙を落とさぬよう、顔を手で覆ったが、指の狭間を冷えた雫が伝った。
お花を失ってからは、泣いてばかりいる。
(もう誰にも恋などできぬ)
美形の重蔵だが、その実、女にモテぬ。
比類のない可憐な顔に生まれ、幼少期から無意識に男たちを虜にしたが、この男受けのいい顔のせいで、女にはめっぽう嫌われたものだ。
お花だけが、重蔵に優しかった。
「うわ、おめぇ何やってんだ」
背後からあがる男の声に、重蔵は崩れた顔のまま振り返った。
「ぐ、ぐま」
勝手に屋敷へ入ってきたのは、幼馴染みの町方与力・熊沢左近である。
驚いた左近は、眉をひそめていた。
「きったねえな。せっかくの別嬪が台無しじゃねえか」
「ぐうぎをよめ、だわげッ」
泣き面に心無い言葉を浴びせられ、重蔵は涙と唾を飛ばして食ってかかる。
左近はたまらず退いた。
「ばっか、汚ぇっつってんだろッ」
「なにをじにぎだ!」
「幼馴染の家へ寄るのに、理由なんざいるもんかよ」
左近は懐紙で重蔵の顔を拭いながら、鼻水をすする背中を押した。
「とにかく、中へ入ろうぜ。俺も今日は朝昼と北風に苛められてきたんだ。これ以上、外にいちゃあ凍えちまわぁ」
誘導され、重蔵は仏頂面になる。
左近の羽織る黒紋付には白粉の香りがまとわりついていた。
◇
北町(奉行所の与力である、左近の御役目は非常掛といって、読んで字のごとく火事などの非常事態が起こった際の事務処理を担当しているが、仕事のない時は昼夜に分かれ市中を警邏する。
市中見廻りといっても、事件がなければ楽な職務である。
だが、今日ばかりは左近も働かされた。
先月、大川で心中死体が発見され、定廻り同心らが原因や身元を捜査した。その結果を与力が書に残さねばならぬのだが、ふだん記録を務める与力が体を壊しており、代役として左近が選ばれたである。
おかげで左近は隙間風の吹き抜ける書庫のなかで、ひとり黙々と事件の記録に勤しんでいたのだった。
「先月に心中しやがった男二人の身元が割れなくてよ、|岡っ引き(おかっぴき)走らせて、調べさせて、身元が分かったのさ。見つけた時にゃ、仏は水を吸っちまって、肉の塊だったんでな」
「男二人?瓦版では、男と女の心中だと聞いだぞ。なんでも、名のある絵師とその愛人だったそうだな」
「女の死体もあったんで、はじめは男女の心中かと思われてたんだが、縄で結ばれてた仏は両人とも男だった。調べさせたら、男二人は恋仲だったそうだ。ややこしい死に方をしてくれたせいで、俺ぁ半日、寒い部屋で凍えながら仕事してたんだぜ」
火鉢を抱きかかえながら愚痴る左近に、重蔵は鼻を鳴らした。
「ふん、半日も奉行所にいたわりに、お前はずいぶんと芳しい香りがするぞ」
「やっぱ匂うかねえ」
「馴染みの女に会うのも、仕事のうちか?」
「凍えちまって、両国橋ちかくの舟宿で酒を一杯な。そこの女が離してくれなかったのさ。俺ほら、モテちゃうからさ」
「忙しそうで何よりだ」
重蔵は皮肉を言った。
かつて一刀流道場のもとで、共に剣の腕を磨いた仲だが、男にばかり好かれる重蔵とは真逆に、左近はとにかく女を引き寄せた。
女に妬まれてきた重蔵にとって、これほど羨ましい男はおらぬ。
ことに、左近は江戸の男児が一度は憧れる与力の座を父親から譲り受けた。
非常掛に抜擢されてからは男前にも磨きがかかり、男を金蔓としか思わぬ商売女さえ、左近にはとくべつ贔屓したものだ。
「ところで、おめぇ、その荷物はなんだい。女物の香りがするぜ」
左近は風呂敷の中身を黙々と整理する重蔵に尋ねた。
女を知り尽くしているだけあって、女物にはとにかく鼻が利くらしい。
「……お花の父上が亡くなった。あの家にはもう誰も住まぬ。だから、お花の遺品を持ち帰ってきた」
「お花ってぇのは、おめぇの惚れてる女か。麻疹で死んだっつう」
重蔵は左近の言葉に頷きながら、お花の着物を広げる。
「私や女友達が追いかけてこないように、誰にも行き先を明かさなかった。この着物は、お花が気に入っていたものだ。寺に隠れる時には着替えたのだろうが」
縦縞模様の入った柿色の着物には、何度も縫い直した跡がある。
近くで凝視せねば分からぬ緻密な縫い目から、お花の器用さがうかがえた。
「おめぇ、どうしてそう、お花ちゃんに執着する。言っちゃ悪いが、お花ちゃんより可愛い子は星の数ほどいるぜ」
「面食いのお前に、お花の良さは分からぬ。女は顔ではないぞ」
重蔵は口を尖らせた。
お花には女の汚い部分がない。同性を妬むどころか、人の美点を誰よりも早く見つけ、褒めたたえる。その人柄ゆえに、お花には女友達が多かった。
『初めて見た時から、素敵って思ってたの』
思い出しても、お花との会話は極楽のような時間である。
『重さんは声も静かで謙虚だし、所作もとっても綺麗。あなたみたいな男の人、ほかに知らないわ』
ろくに女も知らぬ重蔵は、お花の誉め言葉に何度も胸が蕩ける。
男として認められたのもまた、お花が初めてだった。
「あれほど素敵な娘は、お花だけだ」
過去へ思いを馳せる重蔵に、左近は笑顔で相槌を打った。
ただ、瞳だけは冷ややかに、重蔵の腕に抱かれたお花の小袖を貫いている。
◇
左近には幼少期からの二十年間、色褪せぬ恋がある。通っていた剣術道場で、重蔵に出会った瞬間に生まれた恋だ。
父親に連れられた重蔵は五つばかりの幼子だったが、その美しさときたら、左近を含め元服前の青少年らをたちどころに魅了してしまうほどだった。
重蔵は剣術の覚えめでたく、腕前が上達する過程で多くの門弟たちが恋を諦めた。
左近だけは、めげなかった。
堅物の重蔵に息抜きを教え、友として常にそばへ張りつくこと数年、その功あって幼馴染の立場を獲得できた。
だが、重蔵に菊華(男同士の恋愛)の趣味はなく、左近は幼馴染の立場から停滞している。燻る肉欲を満たすために遊蕩へ走り、重蔵を夢に見ながら女体の美味も覚えた。
(重の字、おめぇは女を見る目がねぇぜ)
みるみるうちに濃くなる雪景色を眺めつつ、左近は胡座をかく膝に頬杖をついた。
お花の遺品を仕舞う重蔵を待つ間、胸には少しずつ嫉妬が募る。
「雪が酷いな、これを飲むといい。ちょうど先日、生姜をいただいてな」
重蔵が湯煙の立つ茶碗を運んでくる。湯煙からはほのかに生姜が香った。
「白湯に生姜を混ぜた。お花に教わってな。これは体を温めてくれるそうだ。あの子は料理も上手だった」
生姜の辛味を帯びた熱気が喉をつつく。
左近は一度、遠巻きに生きたお花を見たことがある。隣にいる重蔵を見る時、お花の視線には男の色気が醸し出されていた。
男が、愛しい女を見る目だ。
あの女は心に男を飼っているか、女を好いているか、どちらにせよ異端の気質があるとみえた。
(それを言っちゃあ、俺も一緒か)
生姜湯を含みつつ、自嘲する。左近とて女体を好むが、男の重蔵を除いて恋をした相手はいない。
「美味いか」
左近の横顔が笑んだのを見て、なにも知らぬ重蔵は嬉しそうに口角を上げた。
腑抜けた笑顔だ。笑ってはいるが活力が失せている。強がっていても、恋に破れた痛みが相当に応えているらしい。
お花の思い出が心の支えなのだろうが、思い出すたび疲弊が重なる。
重蔵は恋に支配されているのだ。
「……お花ちゃんの話さえ無けりゃ、俺は素直に美味いと言えたぜ」
左近は続けた。
「お花ちゃんが死んで悲しいのは、分かる。覚えていてぇのも分かる。だが、俺にゃお花ちゃんが宿り木のように、おめぇから元気を吸い取っているように思えてならんぜ」
「何を言う」
「悲しむくらいなら、思い出すなよ」
重蔵はしばし固まったが、やがて悲愴な雰囲気を帯びた。
「それが出来れば、苦労などせぬ」
ぬるくなった生姜湯をぐいと飲み干すや、湯呑みを強く畳へ置いた。
「だが、思い出さずにはおれぬ。私が忘れたら、あの子は今度こそ本当に、この世からなくなってしまう」
「それは重の字の都合だぜ。おめぇの話じゃお花ちゃんには、女友達も大勢いたんだろ」
重蔵は沈黙をもって認めた。
「おめぇがお花ちゃんにとって、唯一の男でありたいのは分かる。だが、お花ちゃんを振り返るのは、気分のいい時だけにしな。前向きになって、楽しいことだけ考えろ」
「お前のように、前を向けるものがない」
隣に置かれた火鉢の中で、炭が弾けた。
「分かってくれ、熊よ。私はお前のように、いくつも逃げ道を持ってはおらぬ」
遊び人の左近とは違い、堅物の重蔵には自分を甘やかす度胸がない。
(可哀想にな、おめぇは)
重蔵を愚かしく思うほど、左近の愛も膨らんだ。
同時に、ふつふつと欲も沸いた。
未練たらしい重蔵から、お花への恋心を跡形もなく掻き消してやりたい。
「……俺は知ってるぜ。恋を捨てねえまま、悲しみだけを吹き飛ばせる方法」
左近はおもむろに重蔵を抱きすくめた。
「な、熊、これは」
狼狽えた重蔵の唇を奪う。硬直した口元を柔らかに食んでほだした。
「大人しくしな。じきに良くなる」
潔白な重蔵と違い、左近には幾多もの商売女と培った性技がある。
たちまち重蔵の息が熱を持った。
開口した所へすかさず舌を捩じ込み、耳朶と腰を嬲りつつ重蔵を翻弄した。
「あ、ふ……っん」
重蔵が脅すように左近の舌を噛むが、甘噛み程度で、致死の傷には到底届かない。
ささやかな抵抗が、いっそう左近を燃え上がらせた。
腰から尻の狭間にかけて妖艶に撫でてやると、熟練の売女も腰砕ける手技に、重蔵がたまらず正座を崩した。
「気持ちよかったろ。一瞬でも、お花ちゃんを思い出せなくなったか」
「こっ、こんなことをして、斬られても文句は言えぬぞッ」
赤い顔で恫喝する重蔵に、
「おめぇになら、斬られても極楽往生できるだろうぜ」
左近は両腕を広げてみせた。
「俺ぁな、重の字にずうっと恋焦がれてきたが、いちおう、親友でもあるぜ。だから親友の俯いてるのは、見てて胸が痛む」
「……なにも、こんな事をする必要はないではないか」
「ごめんな。俺はこれが一番、得意なのさ」
はだけた重蔵の羽織を正してやる。左近は色気を帯びた幼馴染に股間を昂らせつつ、親友としての真心を声に乗せた。
「何も、俺に恋をしろとは言わん。お花ちゃんを思い出して、どうしても辛くなった時、都合よく俺を使えばいい。もちろん、俺に恋をしてくれるなら、本望だがな」
「そんな酷なことを、私に選ばせるのか。これでは、どっちを選んでも後味の良くないものが残るではないか」
「酷なもんか。俺に恋をして抱かれるか、お花ちゃんを愛したまま抱かれるか、だ。気持ちいいのは一緒さ」
重蔵は暫時、視線を落としていた。屹立せぬよう股を押さえていた手が、やがて、羽織を持つ左近の手に添えられた。
「……今宵だけだ。今宵だけ、無心になれる時間をくれ」
恥を忍んで乞うた重蔵に、左近は悲しく笑った。
「優しくする」
襟へ指かけると、一枚ずつ衣を暴いた。
◇
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