菊禍物語(きっかものがたり)

麦畑 錬

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第3話【くれなゐ心中】

『くれなゐ心中』③

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 吟と過ごした二年間の追憶から、四郎はようやく現世に舞い戻る。冷えた川の浅瀬に座り込み、腕には息のない吟を抱いていた。

 吟の腕に結ばれた縄には、見知らぬ女の土座衛門が繋がっている。

『どうか探さないでおくれ』

 吟が書き残した手紙の続きが、四郎の頭をよぎった。

『お前がおらねば生きられぬ、私自身が許せなくなってしまった』

 この文面から、自決は予想できる。だが、まさか心中する相手に、ほかの女を選ぶとは思わなかった。

「ふざけんな……ッ」

 四郎は事切れた吟の胸ぐらを掴み、歯を軋ませた。

「死ぬなら前みてぇに、ひとりで死ねば良かったろ。どうして俺の知らねえところで、俺の知らねえ女と死のうなんて思ったんだ」

 怒りのあまり、声が震えた。
「毎朝眠いのを我慢して、あんたが寝てる間に飯作って、仕事行って、帰って布団しいて抱かれて……俺がこれだけ尽くしてやったのは、一体何だったんだ?」

 吟はもちろん、返事を返さない。

 四郎はその死に顔も憎かった。

 長らく連れ添った四郎との愛より、そこらの女と結んだ軽薄な愛に傾いた吟が、なにより許せなかった。

「食い終わった茶碗を洗ったのも、布団干したのも、飯を作ったのも、全部忘れたのか?俺がいなきゃ生きていけなかったくせに!」

 恫喝を続けたために喉が枯れた。

 ひと呼吸、ふた呼吸と息を継いだ刹那、

「けほっ」

 吟が息を吹き返した。額から滴る水に整った眼が潤んでいる。

――この弱った瞳が好きだった。

 吟が心を許すほど、完璧な容姿と才能で塗り固めた脆さが見えて、四郎にはそれが嬉しかったのだ。

「……あんたが弱くなれる相手は、俺だけだと思ってたのに」

 四郎は力尽きたように嗚咽する。

 吟に頼られるのは、信頼されている自分だけの特権だと思っていた。吟の身勝手さを、四郎は甘く見ていたのだ。

 きっと、明日になれば吟と女の心中死体が上がり、世間が二人の関係を《誠の恋仲》と認める。

 生きて残された四郎は、遊び相手の一人でしかなくなるのだろう。

 二年もの間、積み上げてきた愛情が、たった一人の女になし崩しにされるのだ。

(そんなこと、させてたまるか)

 手繰り寄せた縄から、四郎は女の手首を引き剥がした。

「おこと、お前かい……」

 朦朧とした顔で問うてきた吟に、四郎は笑いかける。

「怒っちまって、ごめんな。でも、俺に尽くされて後ろめたいなんて、もう思わなくていいよ」

 優しく声をかけながら、女から奪った縄を自身の手に巻いた。

「し、四郎」

 吟が正気に戻った。

「最後まで一緒に添い遂げるなんて、まるで夫婦になった気分だな」

 四郎は吟を腕に閉じ込めると、勢いよく川へ倒れた。

 川面に無数の泡沫が弾ける。

 すべての泡が消えるころには、くれないの月だけが水鏡に残っていた。

【おわり】
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