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第3話【くれなゐ心中】

【くれなゐ心中】①

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 四郎しろうは大川の対岸に浮かぶ本所ほんじょの影を背景に、水面を漂う情夫の亡骸を見た。

 淀みのない寒空が、紅い月の明かりを冴え渡らせる。

 月光に晒された土左衛門どざえもん(水死体)が、こちらへ下ってきた。

(ああ、やはりか)

 四郎はとうとう項垂れた。

 ともに暮らしていた情人のぎんが姿を消してから、こうなる予感がなかったでもない。

 吟は絵師として天賦の才に恵まれたが、その代償か、妙なところで繊細になる一面があった。いちど気分が落ちると、世を憂い、己を憂いては、

「死にたい」

 などと、よく嘆いたものだ。

 吟は愛され続けねば死ぬ男だと、想像はついていた。

 絵師としての人気が落ちてから、酒に溺れ、よその女と寝るようになり、長らく連れ添った四郎には苦労ばかりをかけた。

(そんなに思い悩んでたなら、俺に話してくれりゃあよかったのに)

 四郎は冷静な装いで水に入る。真冬の水中では、わずかな流れですら身を切るような痛みが走った。

 河岸近くに流れ着いた吟を抱きかかえ、流れのほとんどない浅瀬に運び込んだ。水を吸ったためか、吟の体は妙に重かった。

 体はすでに熱を失っている。

「あんた寒がりだろ。いけねえよ、こんな冷たい水に入っちゃあ」

 静々と涙しながら、四郎は吟を掻き抱いた。どうしようもない亭主を最後まで支えてしまう、一途な妻のごとき心地であった。

 吟の自死を知れば、世間は彼に対し、酒と女に堕落した報いだと呆れるだろう。吟に惚れていた女たちも、すぐに愛想を尽かすかもしれない。

 だが四郎だけは、吟の伴侶として死後も尻拭いをする覚悟があった。

「さ、うちに帰ろう。せめて世話になったご近所さんには、挨拶くらいしていけよ」

 肩に担いで引き上げようとした刹那、吟の左腕に縄が巻かれているのに気付いた。

 縄を伝っていくと、浅瀬の底から黒髪が蠢いているのが見える。吟の左手と繋がれていたのは、心当たりのない若い女だ。

 四郎の胸に灯っていた温かな火が、ぼうぼうと音を立てて乱れた。

 ◇

 吟にはいくつもの名がある。

 絵師としての名は夜吟亭よぎんてい潤枝うるえ、戸籍の上では吟平ぎんぺい、そして人に名乗るときには吟などといった。

 四郎はこの吟と日本橋の呑み屋で出会い、いつしか恋仲になった。

 前年、若くして女房と離縁した四郎は人肌に飢えており、あわよくばと呑み屋に通っていたところへ、吟が来た。

 吟は周りに女の影が絶えぬ男で、呑み屋に来るときには決まって、白粉の芳しさを身に纏ってきたものだ。

 このころ、吟は肉感的な作風が話題を集めており、画集や本の挿絵などの依頼が次々に舞い込む人気絵師であった。

 そのうえ、雄の甘い魅惑が香る美貌や深みのある声が、いっそう江戸の女たちを魅了していた。

 そんな吟が、女に飽きたか男に興味を持ったか、それまで眼中に入れなかった四郎に声をかけた。

 吟が入水するより二年前の出来事である。

「隣、座ってもいいかな」

 宵の口、甘辛く炒めたタコを酒の肴にしているところへ、吟が話しかけてきた。

「構いやせん。一人で呑むにも広えもんで」

 当時、呑み屋は立ち飲みか座敷、もしくは床几と呼ばれる長椅子に腰掛けて酒と肴を楽しむのが一般的だった。

 吟は騒がしい座敷を避け、川面を眺められる外の床几を探していたところ、四郎の座る席を見つけたのだという。
 
「いつも一人なのかい。最近、この店でよくお前の姿を見かけるのでね」

「ええ、浅草の料亭で庭師やってますが、ほかの仕事仲間は料亭の夫婦と下働きだけでして。一緒に飲んで帰る仲間もいやせん」

「女房はいないのかね」

 尋ねられて、四郎は深いため息をひとつ呑みこんだ。

「……去年の冬、お国へ帰りまして」

 消沈した声で答えた四郎の脳裏には、妻の去る背中が蘇る。

 華奢な体で、心身も弱かった妻は江戸わずらいで体を壊し、やむなく四郎との縁を切って田舎へ帰省した。

 妻のために綴った三行半みくだりはん(離婚届)に涙を滲ませながら、やっとの思いで離縁したのが、去年の冬である。

「か弱い女房でしてね。苦労をかけまいと、必死に尽くしたんですが、江戸煩いにかかって帰っちまったんで」

「女の仕事までお前がやっていたのかね」

「おかげで、近所のカカア衆にも褒められる腕前でさ。別れたかなかったが、女房が日に日に弱る姿を見ちゃ、無理に引き止める訳にもいきやせん」

「それで、人恋しさに呑み屋通いというわけかい」

 言われた四郎は肩を跳ね上げる。

 図星だった。吟を横目にすると、頬杖をついた美貌が妖艶に微笑んでいた。

「まだ胸を張って名乗れるほどではないが、私は絵を仕事にしていてね。ここには人を観察に来ているようなものさ」

「はあ」

「呑み屋に来たのに大酒を飲むでもなく、少ない肴で熱燗をちびちびと飲みながら、毎晩のように長居するのを見た。今の話を聞いてピンときたよ。お前は自分に声をかけてくれる人を、待ち侘びているのではないのかな」

「いけませんかい」

 吟の得意げな眼差しに、四郎はむくれる。

 酒を飲めば人の体は火照り、気分も高揚する。そうした瞬間での出会いを、期待していた節もあった。

「いいや。可愛らしいじゃないか。宛てもなく健気に恋の訪れを待つのは、いじらしくて好ましい」

 吟は眉をひそめた四郎の腰元へ、熱燗の杯をなだらかに滑らせた。

「おあがり。お前の酒はすでに冷めてしまったようだ」

「ご馳走してくれるんで?」

「この際、敬語はよして話さないか」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。有難くいただくよ」

「近頃は冷える。私も一人で温まるのは、侘しいものだと思っていたのでね」

 一人酒はつまらぬと言えばよいものを、吟の言葉選びには艶がある。男の四郎ですら、この湿った声音に心を絡め捕られた。

「だけれど、ここじゃ騒がしい。静かなところでの見直すのは、どうかな」

「ならば、お前の家はどうだい」 

「いきなりかよ」

「いけないかい」

 いけなくはない。

 ただ、女しか知らぬ四郎は、男相手との恋に抵抗がある。

(どっちが抱かれるんだ)

 四郎の心を見透かしてか、吟がおもむろに首を抱き寄せ、唇を奪った。女房と離縁してから、温もりを忘れた唇が久しく潤った。

「ほら、酒が冷めてしまうよ」

 触れただけの口づけにのぼせた四郎は、吟の声で我に返る。

 大工連中の宴が賑やかしい奥の座敷に背を向けると、湯気の立つ熱燗を含んだ。



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