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2話【いおり】
【いおり】①
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五十も年上の夫に抱かれるのを確信した残暑の晩、伊織は夜逃げを謀った。
嫁入りから八年、齢十八となるまで夫は一度として伊織に手を出していない。この関係を親子だと思えば、子どもとして大切にされてきた自覚はある。
夫は学のない伊織に字を教え、生活の作法を叩き込み、家事や仕立て、計算にいたるまで、ただの百姓娘とは比べ物にならぬ教育を施して育てた。
その恩があってこそ、それなりに夫を信頼し始めていた伊織だが、ある日の昼下がり、
「今晩、わしの部屋へいらっしゃい」
この一言で、伊織の心は一変した。今までは寝るのも別室で、夜に部屋へ誘われたことはない。
(やっぱり、旦那さまも男なんだ)
半ば、父親同然に慕っていた夫だけに、失望も大きかった。
伊織とて、好きで年寄りの夫へ嫁いだのではない。
東海道から外れた奥田舎にあるこの村は、夫・泰一郎の一族である庄屋が統治している。その庄屋に借金を作った親戚が、親なき伊織を売ったのである。
伊織は庄屋の座を退いた隠居に押しつけられた。隠居の老人は四十半ばに前妻を失ったきり後妻を娶っていないが、やはり若き体を欲してか、伊織との婚姻は了承した。
そして、伊織は十歳の幼さにして、隠居の泰一郎に後妻として嫁いだのだ。
嫁入りしてからの伊織は、泰一郎とともに村外れにある小さな別邸で暮らしてきた。
(早く家を出なくては)
伊織は八年過ごした家に別れを告げるべく、その日のうちに荷をまとめた。
ところが、背負子を担いで、いざ出発しようという瞬間、
「今はよしておきなさい」
土間から出ていこうとする伊織を、音もなく現れた泰一郎が呼び止めた。
「だ、旦那さま……」
「真夜中に出ていけば、獣も野盗も出る。朝になれば近くを飛脚が通るだろうで、人の出入りが多い時間帯にゆきなさい」
一目で夜逃げとわかる伊織の旅格好を前にしても、泰一郎はべつだん動じたふうもなく、淡々と諭した。
「ごほっ」
しぶしぶ荷を解いた伊織の後ろで、泰一郎が喘鳴の交じる咳をした。
「旦那さま、動いてはなりません。さあ、早く寝床へ……」
つい普段の流れで、夫を寝間まで導いてしまった。
老いるにつれて虚弱になった泰一郎だが、最近はいちだんと体が衰えている。今や食事と風呂と厠、最低限の生活を送るので精一杯だった。
伊織の手を借りて布団へ横たわると、
「伊織や、そこへお座り」
と、声をかけた。
下卑た欲のある老爺とは思えぬほど、泰一郎の声は澄んでいる。
布団の横へ座った伊織の前へ、泰一郎は枕元へ置いていた巾着袋を差し出した。
ずいぶんと重い音のする巾着だった。
「あの、旦那さま。これはいったい」
「すべて銭じゃ。二十両相当はある。これを少しずつ切り崩し、決して贅沢をせぬように使いなさい」
「にじっ……」
たまらず声を上げようとする伊緒を、泰一郎が厳しい顔で制した。
「ここから北へ歩けば町がある。そこで夫を探すもよし、通行手形を得て江戸へ行くもよし、好きになさい。ひとりでも生きられるように育ててきた。心配はなかろう」
「あの、私は旦那さまの妻ではなかったのでしょうか」
「このような年寄りに、孫ほどの娘の相手などできまい」
泰一郎はいちど咳き込み、
「お前のことは妻として貰い受けたが、妻とは思うておらぬ。お前もわしの相手をするのが嫌で、逃げ出そうとしたのであろう」
ぴたりと言い当てた。
「この頃は体も言うことを聞かぬで、近いうちに死ぬだろう。わしが死んだときには、その金を持って家を出て行くがよい」
「いいのですか」
「構わぬ。だが、最後にわしの頼みをふたつだけ、聞いてはくれぬか」
身構える伊織にかまわず、泰一郎は遠い眼差しを屋敷の外へと向けた。
「わしが死ぬまでは、どうか父と呼んでおくれ。そして死んだ時には、あのイチョウの木の下へ埋めておくれ」
「なぜ、木の下になさるのですか。村の者を呼んで、丁重に弔っていただけばよろしいでしょうに」
「それでは、ならぬ」
泰一郎は伊織のほうを見たが、すでに白濁した右目は動いていない。伊織から見れば、右目だけは違う景色を眺めているふうな様子だった。
「わしはこの家で朽ちねばならぬ。ここの家でなくてはならぬのよ」
◇
泰一郎が終の住処とする家は、若かりし頃に、ある男と愛を育んだ土地でもある。
男は泰一郎の家に仕えていた下男で、名を久和といった。
『これは畜生の子じゃ。犬と思うて使え』
泰一郎が十になった年、両親が付き人として贈ったのは、二つ下の年端もゆかぬ久和だった。
両親の言いつけ通り、泰一郎は久和を犬畜生として所有した。雑用をさせ、身の回りの世話も任せたが、決して主の素肌には触れさせなかった。
久和は、そんな冷たい主に懐いた。
「たまには、陽の光も浴びてはいかがでしょう」
主に冷たくあしらわれても、久和は友のような口ぶりで、よく陽の下へ泰一郎を招いたものだ。
この頃の泰一郎は厳しい両親の期待に報いようと、常に日陰で読み書きや算術の書に明け暮れており、当然、このときも断った。
「父と母が許さぬ」
「陽を浴びねば骨が朽ちます。大旦那さまも少しはお許しになりましょう」
「長くこの屋敷に仕えながら、なぜ今さら声をかける」
外の世界を知らず、知識だけを蓄えた泰一郎は疑り深かった。
「なにか企んでいるのではあるまいな」
「まさか」
久和は賑やかしい声とともに煙の上がる南方を指さした。
「村は今日が収穫の祭りでして」
「知っておる」
「部屋に籠っていては、村の様子が分かりませぬ。息抜きも兼ねて、たまには一緒に参られませんか」
結局、久和に根負けして収穫祭に赴き、楽しんで帰ってきた。青白い顔の泰一郎を、村の者たちも優しく迎え入れてくれ、つまらぬ事など何ひとつなかった。
泰一郎の人生に、初めて楽しみの生まれた瞬間である。
それからは両親を説得し、月に一度だけ村への外出が許された。川で遊ぶ時も、百姓らと稲を植えるのにも、常に久和が共にいて、その間だけは心が解放された。
二人は親友のごとき絆を育みながら、やがて青年となったが、泰一郎は徐々に、久和の情欲に勘づき始めた。
若かりし日の泰一郎は、当時の村では評判の美男子である。そこらの下男や下女にとって、その美貌が眩しく見えるのも無理はなかろう。
それでも、十八の歳まで窮屈に暮らしていた泰一郎は、身近にいる親しい男からの艶かしい視線に、つい魔が差した。
(こいつになら、体を許してもいいかな)
慕情にのぼせた久和の眼差しが、泰一郎をその気にさせた。
「おい」
初夏になり、庭の土からむらむらと湿気が立ち上るなか、泰一郎は水を運んできた久和を自室で呼び止めた。
「若旦那さま、なんでございましょう」
火照った肩口へ、久和の視線が注がれる。しかし、理性とやらが働いたのか、すぐに目を逸らした。
羞恥で赤らむ久和の顔貌が、いじらしく、健気だった。
「久和、そこ閉めろ」
「はい」
久和に障子戸を閉めさせて、退路を断つ。とうとう二人きりになった。
「お前、女は知っているか」
「いいえ、まだ……お恥ずかしい話、童のころからお屋敷に仕えておりますので、筆おろしは済んでおりません」
「なるほど。興味はあるか」
「なぜ、そのような事をお聞きになるのですか」
久和の喉仏が生唾を飲んだ。
「俺を抱けと言ったら、お前は喜ぶか?」
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