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1話 【間男(まおとこ)】
【間男】⑴
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◇
雨の湿っぽい匂いが江戸に立ち込める晩、深川三丁目の一角に建つ表店に人の影がふたつある。
それは人も獣も寝静まるような刻限で、常ならば、この時間に人が起きているのは珍しいことだった。
小太りの影と、引き締まった影が、薄く明かりの灯った二階で互いを引き寄せる。
まもなく店の明かりは消え、かわりに雲から顔を出した月が、蠢く人影の交わりを晒しあげた。
「おいっ……閉めろ、窓」
雑に敷かれた布団へしがみつきながら、忠弥は月を睨んだ。雨雲も増えつつある梅雨前の夜に、わざわざ雲影を押しのけてまで顔を出した月が、この汚い交わりをいやらしく見物しているようだった。
「つれないことを言わんでおくんなさいよ、旦那。こちとら、もう十日もあなたの肌に触れなかったんでございますよ。誰も見ちゃおりません。女房も今日は寄り合いに……」
「閉めないのなら、やめる」
先ほどまで甘く抱かれていたはずの忠弥がぴしゃりと断言したので、小太りの亭主はたちまち気圧された。
「いや、そんなことは……へえ、閉めますとも。ですから、そんな怖い顔をせんでくださいまし」
障子戸をしぶしぶ引いて閉じながら、
「さすがは、元お武家さまともなれば、気迫がございますな」
媚びた声で忠弥に擦り寄ってくる。
忠弥は隠しもせず、蔑んだ眼差しでそれを見下ろした。障子が月明かりを和らげたおかげで、脂ぎった肉欲の滲む亭主の顔を、まともに見ずに済んだ。
「ささ、旦那。どうかもう一度くつろいで」
亭主のなすがままにされてやる。いまいちど床に敷かれ、しなやかな体を差し出した。
「……うっ」
夏始めの湿気と汗にぬめって、筋肉のうえを欲深い脂肌が這いずり回る。
お武家さま、などと商人たちは呼ぶが、その実、侮っているのは言うまでもない。
世が安泰を迎えてからというもの、多くの武士は底辺へ叩き落とされた。
とくに出仕の必要もない無役の武家は、俸祿米(武家に支給される米)と内職のみで身を立てねばならず、多くの武士が困窮に陥った。
一方、俸禄米を換金する業者の札差は、食うに困った武家に金を貸して利を得る。担保として受け取った俸禄米を売りさばき、ぶくぶくと肥え太るのだ。
地獄の沙汰は金次第とまで言われるこの時世に、金のない武士は実質、商人より格下なのである。
そのさまが、武家くずれの忠弥には気に入らない。
(この太った親父めとは、そろそろ終わりにするか)
札差業で財を成した亭主も、はじめは金回りの良いわりに謙虚だった。
忠弥の出自よりも、その美しさに恐れ入って、己の女房より丁重に扱った。忠弥を店から近い庵に囲い、こまめに手土産を持って訪ねてきたものだ。
ところが最近になると慣れてきて、態度が軽薄になりつつある。
(俺のために死ねるとまで言った、あの心意気が気に入っていたのにな)
忠弥が札差ごときにふた月も囲われていたのは、献身的な亭主が気に入っていたためだ。ただの遊女同然に扱う男には、金以外に用がない。
容赦のなくなった律動に体を揺らしながら、忠弥は心にもない喘ぎ声をあげた。
◇
初夏の湿気と霧に抱きすくめられた明朝、忠弥は深川を発った。
浅草へまっすぐに帰るためには、深川を北上していったん本所へ渡らねばならず、忠弥は辟易とした。
本所の土を踏むと、そこらの商家や武家屋敷のそばをうろつく、浪人風の侍たちを見かけるようになる。
浪人に見えるが、おそらく御家人の長男以下の連中であろう。連中は酒に曇った顔色だが、身なりはそこらの浪人よりも小綺麗だ。
人の悪いのは本所の御家人―――。
大した稼ぎもないわりに、武家の地位をひけらかす威張り者を、江戸の民は軽蔑を込めてこう呼んだものだ。
江戸の開拓にともなって、用のない家臣を追いやるために用意されたのが川向うの本所だ。ゆえに役持ちの武家屋敷が江戸城近くに配置されたのに対し、無役の貧乏御家人や旗本は本所へ移された。
希望のない暮らしを強いられた武家の子息には、酒と悪事に走る者も少なくない。
忠弥に言わせれば、本所は武家の墓場だ。
『本所なんぞへ飛ばされるくらいなら、俺は出てってやる』
父に啖呵を切ったときの、自身の言葉を思い返した。家を出て二年は経つが、未だに、本所の貧乏御家人の家へ婿養子に出されかけたことは恨んでいる。
忠弥は吟味改役なる、勘定奉行直属の配下――すなわち財政を担う旗本の一員・榎本忠右衛門為次の息子に生まれた。
息子といえど、後妻の子である。
しかも、死した前妻との間に五人、後妻との間に三人、あわせて八人いる子のうちの末弟が忠弥だ。
八人目となれば父親も名付けるのが面倒になり『忠八』と適当に命名したそうな。
嫡男を重視する武家にとって、長男以下は穀潰しにしかならぬ。よって、ほかの兄弟姉妹たちは大奥へ仕えるなり、嫁に行くなり、下級武士の役職を得るなりして家を出た。
ところが、末弟ともなれば人材として欲しがる者も少なく、父は仕方がなく知人の御家人に婿養子として押しつけた。
忠弥は激怒し、父をたまらず殴りつけた。
生まれ育った神楽坂から急に本所へ送られた怒りもある。だがそれ以上に、息子として顧みられなかった積年の恨みが、とうとう爆発したのであった。
そして、勘当された。
(虫唾が走る)
忠弥にとって本所は居心地が悪い。
急ぎ足で両国橋を渡りきると、曙の清涼な風に背を押されながら神田へ寄った。
神田・お玉ヶ池前の口入屋は、ふだん忠弥が妾奉公の斡旋で世話になっている。
ハローワークの祖となる口入屋では、商家に奉公人を紹介するほか、当時は妾奉公などの売春めいた仕事も一手に取り扱った。
店先には若い小男の店主がおり、珍しく箒を動かしていた。
「おや、忠弥さん」
と、店主。
「主が掃除とは珍しいな。奉公人の半蔵は」
「昨晩は奉公が長引きましたので、昼まで寝かせてあげるつもりです。それより、こんな朝早くに何用で」
「深川の札差、橘屋の妾奉公が終わった。次の雇手がないか探しに来た」
「もうですか」
「もう、ではない。ふた月の契約のはずだ」
「働きすぎですよ。仕事はありますが、今きているのは武家への妾奉公です」
店主は店の奥へ引っ込み、橘屋から預かったふた月分の手当てを忠弥に手渡した。
忠弥は苦々しい面差しになった。
「武家への奉公はしない。また来るよ」
「お待ちしております」
慇懃に頭を下げた店主に会釈し、忠弥は浅草・元鳥越の長屋へ帰ってきた。
九尺二間の、まるで馬小屋のような長屋の隅に、若い男がひとり薄掛け布団にくるまっている。
「……良次」
かすかな声で呼んだものの、若者は熟睡している。
こめかみを生白い手で撫でると、忠弥は音もなく隣に布団を敷いた。
◇
雨の湿っぽい匂いが江戸に立ち込める晩、深川三丁目の一角に建つ表店に人の影がふたつある。
それは人も獣も寝静まるような刻限で、常ならば、この時間に人が起きているのは珍しいことだった。
小太りの影と、引き締まった影が、薄く明かりの灯った二階で互いを引き寄せる。
まもなく店の明かりは消え、かわりに雲から顔を出した月が、蠢く人影の交わりを晒しあげた。
「おいっ……閉めろ、窓」
雑に敷かれた布団へしがみつきながら、忠弥は月を睨んだ。雨雲も増えつつある梅雨前の夜に、わざわざ雲影を押しのけてまで顔を出した月が、この汚い交わりをいやらしく見物しているようだった。
「つれないことを言わんでおくんなさいよ、旦那。こちとら、もう十日もあなたの肌に触れなかったんでございますよ。誰も見ちゃおりません。女房も今日は寄り合いに……」
「閉めないのなら、やめる」
先ほどまで甘く抱かれていたはずの忠弥がぴしゃりと断言したので、小太りの亭主はたちまち気圧された。
「いや、そんなことは……へえ、閉めますとも。ですから、そんな怖い顔をせんでくださいまし」
障子戸をしぶしぶ引いて閉じながら、
「さすがは、元お武家さまともなれば、気迫がございますな」
媚びた声で忠弥に擦り寄ってくる。
忠弥は隠しもせず、蔑んだ眼差しでそれを見下ろした。障子が月明かりを和らげたおかげで、脂ぎった肉欲の滲む亭主の顔を、まともに見ずに済んだ。
「ささ、旦那。どうかもう一度くつろいで」
亭主のなすがままにされてやる。いまいちど床に敷かれ、しなやかな体を差し出した。
「……うっ」
夏始めの湿気と汗にぬめって、筋肉のうえを欲深い脂肌が這いずり回る。
お武家さま、などと商人たちは呼ぶが、その実、侮っているのは言うまでもない。
世が安泰を迎えてからというもの、多くの武士は底辺へ叩き落とされた。
とくに出仕の必要もない無役の武家は、俸祿米(武家に支給される米)と内職のみで身を立てねばならず、多くの武士が困窮に陥った。
一方、俸禄米を換金する業者の札差は、食うに困った武家に金を貸して利を得る。担保として受け取った俸禄米を売りさばき、ぶくぶくと肥え太るのだ。
地獄の沙汰は金次第とまで言われるこの時世に、金のない武士は実質、商人より格下なのである。
そのさまが、武家くずれの忠弥には気に入らない。
(この太った親父めとは、そろそろ終わりにするか)
札差業で財を成した亭主も、はじめは金回りの良いわりに謙虚だった。
忠弥の出自よりも、その美しさに恐れ入って、己の女房より丁重に扱った。忠弥を店から近い庵に囲い、こまめに手土産を持って訪ねてきたものだ。
ところが最近になると慣れてきて、態度が軽薄になりつつある。
(俺のために死ねるとまで言った、あの心意気が気に入っていたのにな)
忠弥が札差ごときにふた月も囲われていたのは、献身的な亭主が気に入っていたためだ。ただの遊女同然に扱う男には、金以外に用がない。
容赦のなくなった律動に体を揺らしながら、忠弥は心にもない喘ぎ声をあげた。
◇
初夏の湿気と霧に抱きすくめられた明朝、忠弥は深川を発った。
浅草へまっすぐに帰るためには、深川を北上していったん本所へ渡らねばならず、忠弥は辟易とした。
本所の土を踏むと、そこらの商家や武家屋敷のそばをうろつく、浪人風の侍たちを見かけるようになる。
浪人に見えるが、おそらく御家人の長男以下の連中であろう。連中は酒に曇った顔色だが、身なりはそこらの浪人よりも小綺麗だ。
人の悪いのは本所の御家人―――。
大した稼ぎもないわりに、武家の地位をひけらかす威張り者を、江戸の民は軽蔑を込めてこう呼んだものだ。
江戸の開拓にともなって、用のない家臣を追いやるために用意されたのが川向うの本所だ。ゆえに役持ちの武家屋敷が江戸城近くに配置されたのに対し、無役の貧乏御家人や旗本は本所へ移された。
希望のない暮らしを強いられた武家の子息には、酒と悪事に走る者も少なくない。
忠弥に言わせれば、本所は武家の墓場だ。
『本所なんぞへ飛ばされるくらいなら、俺は出てってやる』
父に啖呵を切ったときの、自身の言葉を思い返した。家を出て二年は経つが、未だに、本所の貧乏御家人の家へ婿養子に出されかけたことは恨んでいる。
忠弥は吟味改役なる、勘定奉行直属の配下――すなわち財政を担う旗本の一員・榎本忠右衛門為次の息子に生まれた。
息子といえど、後妻の子である。
しかも、死した前妻との間に五人、後妻との間に三人、あわせて八人いる子のうちの末弟が忠弥だ。
八人目となれば父親も名付けるのが面倒になり『忠八』と適当に命名したそうな。
嫡男を重視する武家にとって、長男以下は穀潰しにしかならぬ。よって、ほかの兄弟姉妹たちは大奥へ仕えるなり、嫁に行くなり、下級武士の役職を得るなりして家を出た。
ところが、末弟ともなれば人材として欲しがる者も少なく、父は仕方がなく知人の御家人に婿養子として押しつけた。
忠弥は激怒し、父をたまらず殴りつけた。
生まれ育った神楽坂から急に本所へ送られた怒りもある。だがそれ以上に、息子として顧みられなかった積年の恨みが、とうとう爆発したのであった。
そして、勘当された。
(虫唾が走る)
忠弥にとって本所は居心地が悪い。
急ぎ足で両国橋を渡りきると、曙の清涼な風に背を押されながら神田へ寄った。
神田・お玉ヶ池前の口入屋は、ふだん忠弥が妾奉公の斡旋で世話になっている。
ハローワークの祖となる口入屋では、商家に奉公人を紹介するほか、当時は妾奉公などの売春めいた仕事も一手に取り扱った。
店先には若い小男の店主がおり、珍しく箒を動かしていた。
「おや、忠弥さん」
と、店主。
「主が掃除とは珍しいな。奉公人の半蔵は」
「昨晩は奉公が長引きましたので、昼まで寝かせてあげるつもりです。それより、こんな朝早くに何用で」
「深川の札差、橘屋の妾奉公が終わった。次の雇手がないか探しに来た」
「もうですか」
「もう、ではない。ふた月の契約のはずだ」
「働きすぎですよ。仕事はありますが、今きているのは武家への妾奉公です」
店主は店の奥へ引っ込み、橘屋から預かったふた月分の手当てを忠弥に手渡した。
忠弥は苦々しい面差しになった。
「武家への奉公はしない。また来るよ」
「お待ちしております」
慇懃に頭を下げた店主に会釈し、忠弥は浅草・元鳥越の長屋へ帰ってきた。
九尺二間の、まるで馬小屋のような長屋の隅に、若い男がひとり薄掛け布団にくるまっている。
「……良次」
かすかな声で呼んだものの、若者は熟睡している。
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