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第三章 桜の下で伝えた
第79話
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帰り道は美月と話をして気持ちを整理する。もう何度目だろうか。美月は嫌な顔一つせずに同じような話を何回も聞いてくれていた。
自宅に着くと駐車場に見慣れない車が停まっていた。今日はお母さんの仕事が休みの日なのでお客さんだろうか。
お母さんには私が小学生の頃から久美子さんというお茶友達がいたと記憶しているが、いつも近くの喫茶店か久美子さんの家でお茶をしていると言っていたので久美子さんがうちに来たことはなく、この車が久美子さんの物かどうかは分からない。そもそも私は久美子さんの苗字も顔も知らない。
お母さんが休みでも買い物などに出掛けているときもあるからいつも鍵を持たされているので、自分で鍵を開けて家に入った。
「ただいま……」
「あ、おかえり」
「おかえりなさい、詩織ちゃん」
いつも食事をしているテーブルにいたお母さんに声をかけると、その正面に座っていた女性が立ち上がって私に挨拶をしてくれた。
赤みがかった茶色の髪、彫りが深めで高い鼻、身長は伊織よりも高く見え、失礼ながらとても目立ち、印象に残る容姿をしている。現に私はこの女性をどこかで見た記憶がある。
覚えている。あれは確か小学五年生と六年生のときの授業参観だ。背が高くて外国人みたいな顔をしたお母さんがいる、と皆授業よりもこの女性に興味津々だった。結局誰のお母さんかははっきりしなかったけれど。
「こんにちは。きちんとお話しするのは初めてね。桜久美子、桜真人の母です」
「え? あ、あの、は、春咲詩織です」
この人がお母さんのお茶友達の久美子さん。まさか真人君のお母さんだったなんて思いもしなかった。
「お、お母さん、久美子さんが真人君のお母さんだってこと知ってたの? 」
「当然よ。小学校のPTA活動のときに仲良くなってそれからずっとお茶友達だったんだから。まあ最近はお互い時間が合わなくて会ってなかったけど、十二月の始めの方に会って以来? それより詩織、早く手洗いうがいをして荷物を置いて着替えてきなさい。あんたの分も用意しておくから。ココアで良いでしょ?」
「え? 二人のお茶会じゃないの?」
その問いには久美子さんが答えた。
「今日は私が詩織ちゃんと話をしたくて来たの。駄目かな?」
「い、いえ。すぐに準備してきます」
なんの話だろうとか、外国人ぽい顔だけどハーフなのかなとか、平日だけどお仕事どうしたのかな、など疑問はあったが考える暇もなく大急ぎで準備を整え二人の元に戻ると、私のお母さんは買い物に行くと言って出て行ってしまった。
取り残された私は久美子さんの正面の席に座り、久美子さんの言葉を待った。気まずいし、緊張するが逃げられないし、逃げたくない。
久美子さんは頭を下げた。
「ごめんなさい。真人が色々と迷惑をかけたみたいで……」
「迷惑だなんて、そんなこと……あの、今日はどうして私と話を?」
「私もあなたのお母さんも子供同士のことに深く干渉はしない主義だったから清い付き合いをしてるなら放っておこうって思っていたの。それに真人は八月からアメリカに行くことを当然あなたに話していて、あなたもそれを分かった上で真人と仲良くしてくれているものだと思っていた」
久美子さんは頭を上げてもなお申し訳なさそうな顔を続けている。
「でも真人がひと月くらい前から何か悩んでいるみたいで、聞いてもなかなか教えてくれなかったんだけどやっと最近打ち明けてくれて、全部知ったわ」
「全部……」
「親バカでごめんなさい。真人があなたにつらい思いをさせてしまっているって言っていたから放っておくことができなくて。あの子、しっかりしているようで色々抜けているし、自分の気持ちを伝えるのも得意じゃないから、ちゃんと話ができなかったんじゃないかって思う」
「いえ、アメリカに行っちゃうって話を聞いたときは私がどうしたら良いか分からなくなっちゃって話を打ち切っちゃったので……」
「それでもあの子はあなたに気持ちを伝えるべきだった。謝ること、こんな風になってしまった経緯、真人自身がこれからあなたとの関係をどうしたいか、詩織ちゃんが納得するまで話すべきだった。あなたを傷つけることや自分が傷つくことを恐れて逃げて、余計に傷つけたし傷ついた」
久美子さんはもう一度「本当にごめんなさい」と謝った。
「今日あなたに会いに来たのは謝るためだけじゃなくてお願いしに来たの」
「お願い、ですか?」
「ええ。真人はあんなだけど、あなたへの気持ちは本当だと思う。すごく悩んで、考えて、もう一度あなたと話がしたいって決めた。だからもし詩織ちゃんが真人のことを嫌いになっていないのなら、あの子の話を聞いて欲しい。あの子の気持ちを全部知った上でお願いしてる」
「真人君の気持ち……」
私のことを好きだと言ってくれた。それは今も変わっていないと思いたい。でもそれがこの先も、アメリカに行ってもずっと関係を続けたいと等しいとは限らない。それが怖い。
「私も、真人君と話がしたいって思っていたんです。自分の気持ちを伝えて、どうしたいかもちゃんと言って、また一緒に過ごしたいんです。でも、離れ離れになるのが怖くて決心がつかなくて」
お母さんが用意してくれたココアに少しだけ口をつけて、詰まっていた気持ちを潤した。
「今日、三年生の先輩の話を聞いたんです。その先輩、彼氏さんが遠いところに行っちゃうことになってて、すごくつらかったみたいなんですけど、その気持ちを彼氏さんに伝えたらなんとかしてくれたって。彼氏さんを信じたって」
何故か溢れてしまう涙をぬぐって久美子さんを見た。優しい表情は真人君に似ている。
「私も真人君を信じたい。でもその先輩たちは三年近くも恋人関係だったからうまくいったんじゃないかって思って。私と真人君は三ヶ月にも満たない付き合いだし、そもそも恋人ではないから、不安なんです」
「……詩織ちゃんは真人のこと好き?」
「え、あ、は、はい」
今までいろんな人に聞かれた質問だが、まさか真人君のお母さんに聞かれるとは思っておらずいつものように即答できなかった。
「あの子は小学校の頃からあなたのことが好きだった」
「私もです」
「うちの旦那は真人に色々なことを教えて、立派な人間になれるように教育してきた。でも、女の子との付き合い方は教えていなかった。照れ屋だったのよ、あの人」
久美子さんは何かを懐かしんでいるようだ。
「あの子は気持ちを伝えないまま小学校を卒業してしまったことをずっと後悔していた。中学生になってからたまに小学校の卒業アルバムや文集を見ていることがあって、何を見ているのか聞くと恥ずかしがって教えてくれなかったけど、きっと詩織ちゃんが写っているページや詩織ちゃんの文章が載っているページを見ていたはず。こっそり確認したらそのページに折り目がついていたもの。わざと折ったものじゃなくて何度も開いていたから自然にできてしまったものね」
私も同じだ。小学校を卒業したての頃は何度もアルバムや文集を見返していた。日が経つにつれて諦めの気持ちが強くなって見る頻度は減っていたけれど、真人君が文集に書いた文章は今も覚えている。
真人君らしい丁寧な字、小学生にしてはしっかりとした文章、小学生らしい純粋な夢。夢はNBAの選手だった。
「中学生になると急にモテるようになって告白とかたくさんされるようになったけど、誰とも付き合わなかった。どうしてって聞いたら好きな人がいるからって言ってとてもつらそうな顔をしていた。あなたのお母さんに相談しようか迷ったんだけどね、あなたの気持ちを知らないからできなかった」
もしもそのとき私のお母さんに相談されていたらどうなっていただろうか。今頃仲良しカップルになっていて日夏さんのように離れ離れになることを乗り越えられただろうか。
「有名になったらもう一度会えるかなって考えたみたいで、バスケにかける熱量がさらに増したのも中学生の頃。ほら、テレビでたまにやってるでしょ、有名人が初恋の人に会う企画とか。馬鹿みたいだけど本気だったのよ。アメリカの学校から誘われるくらいの実力を得たのも、ある意味詩織ちゃんのおかげかもしれない」
私のおかげでアメリカに行くことになって、私と気まずくなっているのか。なんという運命のいたずらだろう。
「あなたも同じ高校になったことをすごく喜んでいたけど、結局話しかける勇気がなかったみたいで今まで通りバスケに打ち込んでいたの。夏休み、旦那のチームにいるアメリカ人選手の伝手でアメリカの高校の見学をさせてもらえることになって、そこで真人はうちに来ないかって誘われた」
「スカウトってことですか?」
「まあ似たようなものね。桜高校もすごく良い環境だけどあっちの高校の方がもっと設備が良くて、大学にも入りやすくて、よりNBAに近づける。真人も乗り気だったけど、じゃあ九月から通いますってのはさすがに無理だったから帰国したあと、うちの家族と桜高校とあっちの高校とで色々話し合って次の九月から通い始めることが決まったの。桜高校としても、たとえ卒業してなくても在籍した経験がある選手がNBA選手になるなら宣伝になるってことで特待生として入学したのに快く了承してくれた」
久美子さんは「でも」と言ったあと、ひと呼吸おいてコーヒーをすすった。
「このままアメリカに行ったらたとえ有名になっても詩織ちゃんと会うのは困難になる。そう思った真人はせめて何か思い出が欲しいって思って伊織君を頼った。気持ちを打ち明けて、協力してもらって初詣の約束を取り付けた」
それが私たちの再スタートだった。
「約束した日の夜に私に電話をかけてきて、約束できたよってすごく嬉しそうに報告してきた。アメリカの高校に行けることが決まったときよりも嬉しそうだった。その日、別れるときにアメリカ行きのことは伝えると言っていたから、ちゃんと言っているものだと思っていたけど言えてなかったみたいね」
そのとき言われていたら色々変わっていたかもしれない。それ以上真人君と関わろうとしなかったかもしれないからいじめはなかったはずだが、蘭々たちと仲良くなることも日夏さんに出会うことも、白雪先生や秋山君とあんなに話をすることもなかった。
「駄目な子なの、真人は。臆病で考えが浅くて、冷静に見えて感情的で、しっかり者のようで抜けていて、アメリカで寮暮らしになるけど心配でしょうがない子」
「そんな真人君、ほとんど見たことない……」
真人君の短所なんてTシャツのセンスくらいしか見たことがない。
「見栄っ張りだから。詩織ちゃんに悪いところを見せないようにしていたのよ」
私の知らない真人君が久美子さんの中にいる。十六年の積み重ねによって生まれるその言葉たちはきっと真実だ。
「でも良い子なの。いつも一生懸命で、優しくて、気遣いができて、母の日とか私の誕生日には必ずプレゼントをくれる。告白を断った子へのフォローも欠かさない」
私の知っている真人君と私が想像している真人君だ。
「中学の頃はチームメイトをうちに招いて一緒に練習もしていた。高校では学校の設備も良くなったし皆の家も遠くなったから呼ばなくなっていたけどね。自分が上手くなることももちろんだけどチームが強くなることを一番に考えていた」
初詣のときに長いお願いをしていたことを思い出す。
「人の悪口を言わないし、人の良いところを見つけるのが上手」
真人君が人を評価するときの見方だ。再会した当初は衝撃で世界が変わった。蘭々への誤解が解けたのもこれのおかげだ。
「何事も手を抜かない。嫌な顔一つせずに色々なお願い事を引き受ける。誰かのために行動できる」
私と久美子さんは同じ真人君を見ている。
「親バカでごめんなさい。でもね、私は同じ過ちはしないって信じてる。今度はちゃんと詩織ちゃんと話をして答えを出せるって信じてる」
もう一度久美子さんは頭を下げた。
「本当に勝手なお願い。真人のこと、信じてあげて」
それはもう理屈ではない。久美子さんから感じるのは真人君への愛情や信頼。根拠も打算もない無償の愛。親の贔屓目だ。
でもその声は、表情は、涙は、理屈で納得してから行動しようとしていた私の心を動かすには十分すぎた。久美子さんが語る真人君は私の中にいる真人君とリンクして、今まで胸につっかえていたもの、心の中で渦巻いていたもの、全てを放り投げた。
私は真人君を信じる。うまくいかなかったときのことは考えない。大事なのは一緒に過ごした時間の長さじゃない。
私が憧れた真人君は私の世界を変えてくれた。信じる理由なんてそれだけで良い。隠し事をしていようとも、私の告白から逃げようとも、たとえもうすぐ離れ離れになろうとも、彼が私にくれたものは本物。それは間違いないから。
全部伝えるんだ。真人君への気持ちを全部。
期待も失望も、悲しみも憧れも、憤りも感謝も、庇護欲も信頼も、不安も安心も、愛も全部余すことなく。
「私、真人君と話して気持ちを伝えます。真人君を信じます」
私の言葉を聞いて久美子さんは安心したように笑みを見せた。
親バカなんてそんなことない。ただの愛情だ。親というのは子供のことが大切で大好きで心配なんだ。私は親じゃないけれど、身近にそんな親がいるから分かる。
自宅に着くと駐車場に見慣れない車が停まっていた。今日はお母さんの仕事が休みの日なのでお客さんだろうか。
お母さんには私が小学生の頃から久美子さんというお茶友達がいたと記憶しているが、いつも近くの喫茶店か久美子さんの家でお茶をしていると言っていたので久美子さんがうちに来たことはなく、この車が久美子さんの物かどうかは分からない。そもそも私は久美子さんの苗字も顔も知らない。
お母さんが休みでも買い物などに出掛けているときもあるからいつも鍵を持たされているので、自分で鍵を開けて家に入った。
「ただいま……」
「あ、おかえり」
「おかえりなさい、詩織ちゃん」
いつも食事をしているテーブルにいたお母さんに声をかけると、その正面に座っていた女性が立ち上がって私に挨拶をしてくれた。
赤みがかった茶色の髪、彫りが深めで高い鼻、身長は伊織よりも高く見え、失礼ながらとても目立ち、印象に残る容姿をしている。現に私はこの女性をどこかで見た記憶がある。
覚えている。あれは確か小学五年生と六年生のときの授業参観だ。背が高くて外国人みたいな顔をしたお母さんがいる、と皆授業よりもこの女性に興味津々だった。結局誰のお母さんかははっきりしなかったけれど。
「こんにちは。きちんとお話しするのは初めてね。桜久美子、桜真人の母です」
「え? あ、あの、は、春咲詩織です」
この人がお母さんのお茶友達の久美子さん。まさか真人君のお母さんだったなんて思いもしなかった。
「お、お母さん、久美子さんが真人君のお母さんだってこと知ってたの? 」
「当然よ。小学校のPTA活動のときに仲良くなってそれからずっとお茶友達だったんだから。まあ最近はお互い時間が合わなくて会ってなかったけど、十二月の始めの方に会って以来? それより詩織、早く手洗いうがいをして荷物を置いて着替えてきなさい。あんたの分も用意しておくから。ココアで良いでしょ?」
「え? 二人のお茶会じゃないの?」
その問いには久美子さんが答えた。
「今日は私が詩織ちゃんと話をしたくて来たの。駄目かな?」
「い、いえ。すぐに準備してきます」
なんの話だろうとか、外国人ぽい顔だけどハーフなのかなとか、平日だけどお仕事どうしたのかな、など疑問はあったが考える暇もなく大急ぎで準備を整え二人の元に戻ると、私のお母さんは買い物に行くと言って出て行ってしまった。
取り残された私は久美子さんの正面の席に座り、久美子さんの言葉を待った。気まずいし、緊張するが逃げられないし、逃げたくない。
久美子さんは頭を下げた。
「ごめんなさい。真人が色々と迷惑をかけたみたいで……」
「迷惑だなんて、そんなこと……あの、今日はどうして私と話を?」
「私もあなたのお母さんも子供同士のことに深く干渉はしない主義だったから清い付き合いをしてるなら放っておこうって思っていたの。それに真人は八月からアメリカに行くことを当然あなたに話していて、あなたもそれを分かった上で真人と仲良くしてくれているものだと思っていた」
久美子さんは頭を上げてもなお申し訳なさそうな顔を続けている。
「でも真人がひと月くらい前から何か悩んでいるみたいで、聞いてもなかなか教えてくれなかったんだけどやっと最近打ち明けてくれて、全部知ったわ」
「全部……」
「親バカでごめんなさい。真人があなたにつらい思いをさせてしまっているって言っていたから放っておくことができなくて。あの子、しっかりしているようで色々抜けているし、自分の気持ちを伝えるのも得意じゃないから、ちゃんと話ができなかったんじゃないかって思う」
「いえ、アメリカに行っちゃうって話を聞いたときは私がどうしたら良いか分からなくなっちゃって話を打ち切っちゃったので……」
「それでもあの子はあなたに気持ちを伝えるべきだった。謝ること、こんな風になってしまった経緯、真人自身がこれからあなたとの関係をどうしたいか、詩織ちゃんが納得するまで話すべきだった。あなたを傷つけることや自分が傷つくことを恐れて逃げて、余計に傷つけたし傷ついた」
久美子さんはもう一度「本当にごめんなさい」と謝った。
「今日あなたに会いに来たのは謝るためだけじゃなくてお願いしに来たの」
「お願い、ですか?」
「ええ。真人はあんなだけど、あなたへの気持ちは本当だと思う。すごく悩んで、考えて、もう一度あなたと話がしたいって決めた。だからもし詩織ちゃんが真人のことを嫌いになっていないのなら、あの子の話を聞いて欲しい。あの子の気持ちを全部知った上でお願いしてる」
「真人君の気持ち……」
私のことを好きだと言ってくれた。それは今も変わっていないと思いたい。でもそれがこの先も、アメリカに行ってもずっと関係を続けたいと等しいとは限らない。それが怖い。
「私も、真人君と話がしたいって思っていたんです。自分の気持ちを伝えて、どうしたいかもちゃんと言って、また一緒に過ごしたいんです。でも、離れ離れになるのが怖くて決心がつかなくて」
お母さんが用意してくれたココアに少しだけ口をつけて、詰まっていた気持ちを潤した。
「今日、三年生の先輩の話を聞いたんです。その先輩、彼氏さんが遠いところに行っちゃうことになってて、すごくつらかったみたいなんですけど、その気持ちを彼氏さんに伝えたらなんとかしてくれたって。彼氏さんを信じたって」
何故か溢れてしまう涙をぬぐって久美子さんを見た。優しい表情は真人君に似ている。
「私も真人君を信じたい。でもその先輩たちは三年近くも恋人関係だったからうまくいったんじゃないかって思って。私と真人君は三ヶ月にも満たない付き合いだし、そもそも恋人ではないから、不安なんです」
「……詩織ちゃんは真人のこと好き?」
「え、あ、は、はい」
今までいろんな人に聞かれた質問だが、まさか真人君のお母さんに聞かれるとは思っておらずいつものように即答できなかった。
「あの子は小学校の頃からあなたのことが好きだった」
「私もです」
「うちの旦那は真人に色々なことを教えて、立派な人間になれるように教育してきた。でも、女の子との付き合い方は教えていなかった。照れ屋だったのよ、あの人」
久美子さんは何かを懐かしんでいるようだ。
「あの子は気持ちを伝えないまま小学校を卒業してしまったことをずっと後悔していた。中学生になってからたまに小学校の卒業アルバムや文集を見ていることがあって、何を見ているのか聞くと恥ずかしがって教えてくれなかったけど、きっと詩織ちゃんが写っているページや詩織ちゃんの文章が載っているページを見ていたはず。こっそり確認したらそのページに折り目がついていたもの。わざと折ったものじゃなくて何度も開いていたから自然にできてしまったものね」
私も同じだ。小学校を卒業したての頃は何度もアルバムや文集を見返していた。日が経つにつれて諦めの気持ちが強くなって見る頻度は減っていたけれど、真人君が文集に書いた文章は今も覚えている。
真人君らしい丁寧な字、小学生にしてはしっかりとした文章、小学生らしい純粋な夢。夢はNBAの選手だった。
「中学生になると急にモテるようになって告白とかたくさんされるようになったけど、誰とも付き合わなかった。どうしてって聞いたら好きな人がいるからって言ってとてもつらそうな顔をしていた。あなたのお母さんに相談しようか迷ったんだけどね、あなたの気持ちを知らないからできなかった」
もしもそのとき私のお母さんに相談されていたらどうなっていただろうか。今頃仲良しカップルになっていて日夏さんのように離れ離れになることを乗り越えられただろうか。
「有名になったらもう一度会えるかなって考えたみたいで、バスケにかける熱量がさらに増したのも中学生の頃。ほら、テレビでたまにやってるでしょ、有名人が初恋の人に会う企画とか。馬鹿みたいだけど本気だったのよ。アメリカの学校から誘われるくらいの実力を得たのも、ある意味詩織ちゃんのおかげかもしれない」
私のおかげでアメリカに行くことになって、私と気まずくなっているのか。なんという運命のいたずらだろう。
「あなたも同じ高校になったことをすごく喜んでいたけど、結局話しかける勇気がなかったみたいで今まで通りバスケに打ち込んでいたの。夏休み、旦那のチームにいるアメリカ人選手の伝手でアメリカの高校の見学をさせてもらえることになって、そこで真人はうちに来ないかって誘われた」
「スカウトってことですか?」
「まあ似たようなものね。桜高校もすごく良い環境だけどあっちの高校の方がもっと設備が良くて、大学にも入りやすくて、よりNBAに近づける。真人も乗り気だったけど、じゃあ九月から通いますってのはさすがに無理だったから帰国したあと、うちの家族と桜高校とあっちの高校とで色々話し合って次の九月から通い始めることが決まったの。桜高校としても、たとえ卒業してなくても在籍した経験がある選手がNBA選手になるなら宣伝になるってことで特待生として入学したのに快く了承してくれた」
久美子さんは「でも」と言ったあと、ひと呼吸おいてコーヒーをすすった。
「このままアメリカに行ったらたとえ有名になっても詩織ちゃんと会うのは困難になる。そう思った真人はせめて何か思い出が欲しいって思って伊織君を頼った。気持ちを打ち明けて、協力してもらって初詣の約束を取り付けた」
それが私たちの再スタートだった。
「約束した日の夜に私に電話をかけてきて、約束できたよってすごく嬉しそうに報告してきた。アメリカの高校に行けることが決まったときよりも嬉しそうだった。その日、別れるときにアメリカ行きのことは伝えると言っていたから、ちゃんと言っているものだと思っていたけど言えてなかったみたいね」
そのとき言われていたら色々変わっていたかもしれない。それ以上真人君と関わろうとしなかったかもしれないからいじめはなかったはずだが、蘭々たちと仲良くなることも日夏さんに出会うことも、白雪先生や秋山君とあんなに話をすることもなかった。
「駄目な子なの、真人は。臆病で考えが浅くて、冷静に見えて感情的で、しっかり者のようで抜けていて、アメリカで寮暮らしになるけど心配でしょうがない子」
「そんな真人君、ほとんど見たことない……」
真人君の短所なんてTシャツのセンスくらいしか見たことがない。
「見栄っ張りだから。詩織ちゃんに悪いところを見せないようにしていたのよ」
私の知らない真人君が久美子さんの中にいる。十六年の積み重ねによって生まれるその言葉たちはきっと真実だ。
「でも良い子なの。いつも一生懸命で、優しくて、気遣いができて、母の日とか私の誕生日には必ずプレゼントをくれる。告白を断った子へのフォローも欠かさない」
私の知っている真人君と私が想像している真人君だ。
「中学の頃はチームメイトをうちに招いて一緒に練習もしていた。高校では学校の設備も良くなったし皆の家も遠くなったから呼ばなくなっていたけどね。自分が上手くなることももちろんだけどチームが強くなることを一番に考えていた」
初詣のときに長いお願いをしていたことを思い出す。
「人の悪口を言わないし、人の良いところを見つけるのが上手」
真人君が人を評価するときの見方だ。再会した当初は衝撃で世界が変わった。蘭々への誤解が解けたのもこれのおかげだ。
「何事も手を抜かない。嫌な顔一つせずに色々なお願い事を引き受ける。誰かのために行動できる」
私と久美子さんは同じ真人君を見ている。
「親バカでごめんなさい。でもね、私は同じ過ちはしないって信じてる。今度はちゃんと詩織ちゃんと話をして答えを出せるって信じてる」
もう一度久美子さんは頭を下げた。
「本当に勝手なお願い。真人のこと、信じてあげて」
それはもう理屈ではない。久美子さんから感じるのは真人君への愛情や信頼。根拠も打算もない無償の愛。親の贔屓目だ。
でもその声は、表情は、涙は、理屈で納得してから行動しようとしていた私の心を動かすには十分すぎた。久美子さんが語る真人君は私の中にいる真人君とリンクして、今まで胸につっかえていたもの、心の中で渦巻いていたもの、全てを放り投げた。
私は真人君を信じる。うまくいかなかったときのことは考えない。大事なのは一緒に過ごした時間の長さじゃない。
私が憧れた真人君は私の世界を変えてくれた。信じる理由なんてそれだけで良い。隠し事をしていようとも、私の告白から逃げようとも、たとえもうすぐ離れ離れになろうとも、彼が私にくれたものは本物。それは間違いないから。
全部伝えるんだ。真人君への気持ちを全部。
期待も失望も、悲しみも憧れも、憤りも感謝も、庇護欲も信頼も、不安も安心も、愛も全部余すことなく。
「私、真人君と話して気持ちを伝えます。真人君を信じます」
私の言葉を聞いて久美子さんは安心したように笑みを見せた。
親バカなんてそんなことない。ただの愛情だ。親というのは子供のことが大切で大好きで心配なんだ。私は親じゃないけれど、身近にそんな親がいるから分かる。
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