幻の蘭室で君と憩う

文字の大きさ
上 下
6 / 6

別れ

しおりを挟む
一通り話を終えると、私は彼を駐車場まで見送りに出た。
オレンジ色の夕日は沈みかかって、青空はそろそろ夜の深い色にバトンタッチしようとしていた。
暗いから、帰りの道中気をつけてね。グレーの日産ノートの運転席に乗り込んだ彼の窓越しで、私は言った。
大丈夫です、音楽爆音で帰りますから。
あんまりうるさいと、周りの音聞こえんよ。苦笑いしながら私は言った。
大丈夫っすよ、だって周り車とか全然いないから。そういう過信が事故の元だって、私、実習の時言ったの覚えてないな?実習の授業で、君が旋盤のバイトダメにしたの、私今でも忘れてないからね。
そういうところじゃないですか?先生のいけないところ。人の悪いところはいつまででも覚えてる。もう時効じゃないですか、忘れてくださいよ。彼は恥ずかしそうに笑った。
じゃあ、ちゃんと気をつける。OK?
分かりましたって。彼は言った。これで事故ったらマジでシャレにならないからね。私は念を押すように言った。
じゃあ、先生。また連絡しますけど、早く良くなってくださいよ。また一緒にオンラインでゲームしましょう。
そうだね、早く退院できるように・・・頑張る、というのは、うつ病患者の間ではあまり良くない表現なので、早く退院できるようにしっかり治療するね。と返した。
またお見舞いに来ます。いや、来なくていいよ、こんな陰気臭いところ。うつは移るんだよ。
何のダジャレですか。ダジャレじゃないって、本当にそうなんだから。
やれやれ、と私は深く息を吐いた。
それじゃ、行きますね。
うん、わざわざ来てくれてありがとう。またね。

本当は、きっと私に話したいことが山ほどあったに違いない。エンジンをかける彼の横顔から、そんなことが伺えた。だけど、そこを曲げて彼はずっと私の話を聴いてくれた。それだけでも、私は、彼は大人になったなと思う。
今回は私がほとんど一方的に話してしまったが、それでも、うつで意気消沈して自分の存在意義を見失っていた私に、もう一度「先生」としての立ち位置を示してくれたのは、紛れもない教え子の彼だった。
教員を取り巻く問題は絶えない。そして、その問題は日々教員たちの命を脅かしている。しかし、それでも、教員たちを教員として立たせてくれるのは、誰でもない生徒、一人ひとりなのである。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

1 / 2

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

黒猫魔女の猫カフェ奮闘記

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:6

ゆるりと春

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

階段下の物置き令嬢と呪われた公爵

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:205

処理中です...