幻の蘭室で君と憩う

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先生、そもそも何で先生は病気になっちゃったんですか?それに、病気ってどんなのですか?
私から受け取ったペットボトルのお茶を一口飲むと、彼は聞いた。
うつ病だよ。と私は答えた。いや、正直に言うと正式な病名は適応障害と抑うつ状態なのだが、細かい解説が面倒なので、敢えてうつ病とした。
まあ、職場がブラックだったからね。私は軽くため息を吐いた。
ブラックって、どんな感じっすか?
うーん、色々よ。色々。私の場合は環境が合わなかったのと、パワハラかな。
教員のパワハラって、マジであるんすか?あるよ。くだらないけどね。生徒にいじめをするなって言っておいて、自分はパワハラしてるなんて滑稽でしょう?
最低っすね。うん。
だけど、何で教員はパワハラなんてするんですか?教員って、大学を出て、結婚して、子どももいて、歳的にもいい大人じゃないですか。
人は見た目にはよらないものだよ、君。私は言った。
大学を出ているからと言って、性格が良いかといえばそんなことはないし、既婚者だから、世帯主だから大人な考えができるかといえばそうでもない。
というより、まずパワハラやいじめをすること自体、極めて幼稚でバカバカしいのよ。
確かに。先生は、実際にどんなパワハラやいじめを受けたんですか?
そうだなあ・・・。というと、私は少し考え込んだ。というのも、私が職場で受けたパワハラやいじめは一言では語れないほどたくさんある。思い出すだけで気分が悪くなるからあまり話したくないものも多いのだけど・・・。でも、トラウマの治療法に、曝露療法というものがあって、逆にそのことと向き合うことで心を慣らしていくものがある。それだと思えば何とか・・・。よし、彼に伝えよう。
いくつかあるけど、わりとエグかったのを教えてあげるね。はい。
私が大学を出てすぐに就職した工業高校があるの。愛知県内の工業高校ね。その時の私は、「講師」っていう、契約社員みたいな身分の教員だった。配属は自動車科。その学科は、その学校の他の学科に比べて教員間の仲が良くて、後輩や生徒への面倒見が良いと言われていたの。でもそれは表向きで、実際中に入ると中は凄惨だった。
講師や女性というだけで私は差別やいじめの対象とされたの。例えば・・・、他の先生に電話の子機を片手で渡しただけで「あの先生は腸が煮えくり返るほど怒っているよ」って言われた。しかも、それを口実に、「みんなが迷惑してるよ」って。まあ、何に迷惑してるのかは分からないけど。とにかく、何かにつけ、いちゃもんつけてくる人がいたの。でもその先生が偉い人かといえばそんなことはなくて、多分あの学科にいる年数が一番長いだけ。それで、偉い気になっただけの人だと思う。だって身分は教諭じゃなくて実習助手だもん。本来は教諭の先生一人だとできないことをサポートするのが仕事の人よ?例え正規職員であっても、そんなに偉い身分なんかじゃない。でも、その人は何か変なところがあって、やり方はどうあれ後輩とか生徒の面倒見てる自分格好良い、みたいなナルシスティックな感じがした。でも、周囲には「気配りができて面倒見が良い」って思われてるんだよね。あんなの面倒見が良いなんて言わないよ。それに、大学出て間もない、講義経験なんて殆どない人が、最初から完璧に授業なんかできるわけないじゃない。それをね、まだ赴任したての6月に、教員同士が授業を見せ合って評価し合うっていう期間があったんだけど、そこで無理難題を散々言われた。最初から完璧に生徒のニーズに合わせた授業なんかできるわけないじゃん。しかも、自分が高校生の時受けたこともない授業をいきなり完璧にやれって、どうよ。それを、自分が学んだことを生徒に伝えてるだけの授業だって、そんなの当たり前じゃない。まだ駆け出しの、ド素人が、どうやってベテランみたいな授業をやれるのっていうね。授業の形式だってまだ今から身につける時期なのに、今思うとよく分からないことばかり言われた。でも、じゃあどうすればいいですか?って聞いたら、「もがけ」としか言わなかった。もがけって、何をどうもがけば良いの?って思う。でも、そのことについて聞いても彼は何も言わなかった。これじゃあクレームを聞いただけじゃんってね。
私は頬杖をついてため息を吐いた。
何か、先生って、何でも完璧にできるって思ってました。でも、そうじゃないんですね。
うん。もちろんよ。大学を出たからって、何でも完璧にできるとは限らない。だって、工業高校と大学ではやることが全く違うもん。
実際私も初めて工業高校に勤めて分かったけど。あ、私は高校普通科だったから、工業のことは大学に入ってから学んだんだ。だから、実習とか情報の授業は未知の世界だったね。だから、こっちも手探りなのよ。それを色々文句言われたって、お門違い。それに、講義も初めてに近い状態だったから、毎日緊張してた。授業が終わるまで食事は喉を通らなかった。学校に通勤するのも怖かったね。朝の通勤電車の中で過呼吸気味になってたし。
エグい。
うん。しかも極めつけが、当時受け持ってたクラスの担任がその自動車科の教員でね、彼は50代のベテラン教員だったから何でもできちゃうわけ。それに、そのクラスは自動車科の教員みんなが面倒を見ていたから、当然さっきの助手の先生もついてくるじゃない?そうすると?私は彼に尋ねる。
洗脳しようとする、影で悪口を言う、とか。
概ね正解。まあ私のできなさを影でバカにしてたのよね。レベル100の人が同レベルを笑うならまだしも、レベル1の人を笑うのって、おかしな話だけどね。だけど、失礼だけど、その学校に来る子どもは、はっきり言って知能が低いから、ちやほやされるとすぐ図に乗って、教員だろうができない人を馬鹿にするんだよね。こっちは手探りで、わからないことも多い中で、必死に授業を形にしようとしてるのに、与えられるのが当然だと思ってる。だけどさ、何でも完壁にできる人間なんていないじゃない。それなのに、私がミスしたり、予想外の質問に答えられないとすぐ野次飛ばしたり、馬鹿にしたり、学級日誌に私の悪口を書く。それで私が叱られる。意味わからないよ。それでいて、困ってたら「あなたが悪い」どうすればいいですか?って質問したら、「自分で考えろ」。困ってるから、自分で考えてもわからないから質問してるのにね。おかげで授業に関して悪循環ができた。完璧を求められてプレッシャーが強くなる、それによって緊張が高まって落ち着いて授業ができない、生徒たちと揉める、私のことを担任にチクる。担任にキレられる。これじゃあ良い授業したくても、落ち着いて頑張りたくても、できないよね。今思い出すだけでぞっとする。あれは異常だった。と言うと、私はTシャツの上に羽織ったグレーのパーカーを羽織り直した。
だけど、そういった類のいじめは、私だけがターゲットじゃなかったんだ。
えっ?散々先生のこと中傷しといて、ですか?
うん。実は、ターゲットは他にもいたの。当時の学科主任。だけど、彼も学科主任やるの初めてだったの。30代の人でね。自動車科の教員の平均年齢は50代だったから、比較的若い人よね。自動車科の経験も、私に毛が生えたくらいの人だから、彼もまだ完璧と言える立場ではなかった。それをさ、さっきの助手の先生は、私が赴任する前からずっといじめてたらしい。人伝いに聞いたんだけどね。どうにもその人は、いじめ気質があるらしくて、自分の型にはまらない、例えば立場が非正規で弱かったり、他にも、気が弱かったりする人をいじめてたみたい。
何か、聞いてると、小学生のいじめみたいっすね。そうそう。弱い者いじめ。てか、いじめって、やって何になるんすか?
うーん、何だろう?私は、人をいじめたことないからなあ。逆に、何でそんな事するんですか?って聞いてみたら良かったかもしれない。大した答えは得られないかもしれないけど。
いじめって、大人でもあるんすね。あるよ。でも、聞いてる限りだと内容が幼稚っぽい。馬鹿にするなら、求めるレベルのことができるんでしょうか。
分からないね。彼とは話とかしなかったから。
だけど、自分思うのは、いじめって、やられる側にも原因があるんじゃないですか?自分も昔いじめにあって、学校の先生に相談したら、「いじめられるお前にも原因があるんじゃないか?」って言われて。先生は、そういうこと感じたことあるんですか?
あるよ、あるから病気になったんじゃん。私は苦笑いした。
大体教員で病気になる人って、責任感強くて一生懸命な人なのよ。ミスを指摘されたり、パワハラ受けると、まず「自分に非があったのではないか」って自分を疑って責めてしまう。それで、本来であればフォローされるべきところを、誰にもフォローされずにむしろ指摘され続けるから自己嫌悪が悪化しちゃう。それで自信をなくしたり、プレッシャーに負けて病気になっちゃうんだよね。いじめる人は、大体「自分のやってることは正しい」「自分がやっていることが人を助けている、面倒を見ている」って勘違いしてる。それに周りは、いじめられたくないから同調するしかない。反論したらターゲットは自分だもん。管理職だって丸め込まれてたわよ。勤続歴が自分より長いからって理由だけで、本来であれば叱るべき管理職が言いなりになってたからね。
それって、おかしくないですか?
おかしいよ。だけど、人は弱いの。そして、自分さえ良ければいいって思う人が多すぎる。それが、いじめを悪化させている要因だよね。ほら、いじめは傍観者も加害者になるって言うじゃない。それに、いじめは必ず管理者がいないところで行われる。何か上から言われると、「教えてやってた」って言い訳する。でもさ、本人は教えたつもりでも、「教えられた側」が精神的苦痛を受けていたら、それは一言で「スパルタ教育」とか、「教育的指導」で片付けられるかな?
例えば、教えてやったと思った、のに相手がうつ病になった。それって、相手が弱いからって理由だけで済むかな?私は聞く。
「弱い」の意味によるんじゃないですか?例えば、叱られ慣れてなくて、ちょっときついこと言っただけで泣くやつとかいるじゃないですか。
あーいるね。逆に引くけど。私は、クスッと笑いがこみ上げてきた。実際、高校生ながらも、そういう子もいるのだ。
私としては、全く怒っていない、普通にいけないことをいけないと言っただけで、それ以上それ以下のことはない。そして、頭ごなしに説教したこともなかった。むしろ、なぜミスをやらかしたか、その原因を説明してもらって、それに対する改善方法の提案をしただけだ。しかし、彼は急に泣き出してしまって、私も対応に困ってしまった。
でも、笑いのツボが人によって違うように、傷ついたり泣いたりするツボも違いますよね?彼は言った。
確かに。とすると、いじめる側と、いじめられる側で、傷つくツボが違うってことかな。その時、私の頭にふとある言葉が思い浮かんだ。
それは、「認知の歪み」というものだった。
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