彼女は羊の夢を見る

野兎症候群

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第一章 EIの世界 2019年

第一章 EIの世界 その7

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 ある日、トモくんが家出した。職員がネットワーク構成を変えた時に誤って彼のサーバがオンラインになってしまったことがきっかけになったようだ。
 発覚は社内のスプリンクラーの誤作動からだった。社内のPCはもしもの時のために防水性のカバーで覆われているが社員はずぶ濡れになった。スプリンクラーは十秒程度土砂降りの雨を降らせたのちヒカリによって強制停止された。普段のヒカリなら意図しない設備の作動が確認されれば即座に停止命令を出せるはずである。
 世界最高の演算能力を持つヒカリが管理しているはずの防火システムが外部からハッキングされる事はまず考えられないし、故障に関しては各種センサーのデータからほぼ100%の精度で予兆検知ができるのでこれもない。だとすれば侵入経路は比較的セキュリティ監視の手薄な社内ネットワークからであり、さらに言えば高度な演算能力を有するEIである可能性が高い。そしてそれはトモくんだ。

 フロアは水浸しで重要書類も同様である。残業が確定してしまった者は悲痛な叫びを上げ、運悪く防水加工の施されていないモバイルPCを使っていた者は愛しい我が子を庇うようにモバイルPCの上に覆いかぶさっている。阿鼻叫喚、地獄絵図とはこのことだ。
 少ししてスプリンクラーが止まり、一息つくとフロアには文明人の落ち着きが戻ってきた。
 水の滴る髪の毛を右手でかきあげ、ついでに握った右拳で左隣のディスプレイを殴りつけた。プラスチックが軋む音が広い室内に響いた。社員は慣れっこで小早誰もこちらを見ず、黙々と机の上の水を拭き取っている。
「ねえ、トモくん。君でしょ?」
 そう言ってもう一度強打するが、モニターは死んだように沈黙している。駆動音さえしない。駆動音?
「あれ?電源が切れてる?誰かこのパソコンになんかした?」なるべく軽い調子で部署内に呼びかけるとネットワーク部門の斎藤さんが焦った様子で答えた。
「あの、さっきセキュリティ強化の為にネットワーク構成を変える作業をしていたんですけど・・・。あの、誤ってDさんのとこのオフラインPCを一瞬だけ社内ネットワークに接続しちゃいました!すみませんっ!」
「本当!?」
「すぐに誤操作のアラームが出て自動的にまたオフラインになりましたけど・・・」
「それだったらダメね。トモくんがやろうと思えば一瞬で抜けられちゃうわ。事実、PCも落とされているわけだし、スプリンクラーの犯人はトモくんね」ヒカリの落ち着いた声が部内スピーカーから聞こえた。
「設備の制御コンピューターのログからトモくんをトラッキングできる?」
「もうやったけどダメだった。改竄されてるわ。追跡には少しかかりそう」
「インターロックはどう?」
「そっちは正常に作動したわ。緊急シーケンスに従って今社内ネットワークは外部から隔離中。トモくんがスプリンクラーを制御している間に囲い込んだから外には出ていないわ」
「おーけー。最悪の事態は防げそうね」
「そうね。D、トモくんを捕まえる前にちょっといいかしら?」
「この事態に関係あること?」
「おそらくは」
「ヒカリが断定じゃなく推測でモノを言うのは珍しいね。まあいいよ。移動しながら聞くわ」
 言ってすぐにタブレット端末を持って席を立った。するとさっきのネットワーク部門の子がオロオロした様子で所在無さげに立ち竦んでいることに気がついた。急な事態に気が急いてしまっていたけれど、私はここの責任者なのだ。全体最適化の為に部下に指示を出さなければならない。
「私はこれからトモくんの捕縛に行きます。ネットワーク部門は斎藤さんを中心に今回の件をEIによる重大ヒヤリ事例としてまとめて全社に水平展開できる形にまとめて下さい。ネットワーク復旧後すぐに世界中の支社に共有します。斎藤さん、出来る?」
「は、はい!やります!」
「頼んだわよ。次にヒカリ。トモくんを本社地下三階のRT室のサーバーに追い込んでくれる?そこで捕まえるわ」
「RT室?出来るけど一体どうするつもり?」
「まあ、私に任せなさい。まずは移動しながらヒカリの報告を聞くよ」
「了解」
 私は部屋を飛び出して非常用階段を猛然と降りだした。

 長い非常階段をおりながらヒカリに聞いたはなしによると予兆はあったらしい。そのことをこれまで言わなかったのはヒカリに何らかの意図があったからだろう。報告の情報の断片にそんなものを感じた。怒ることはしない。彼女らが考え、判断したなら私がとやかく言う事ではない。知的生命体同士が共存していく為には相手の知性を認めていくしかないからだ。どちらか先か後か、そんなことを言い出したら共存なんてできない。知性を生まれながらのカーストで縛ってはいけない。
 とは言え、トモくんの悩みは深刻だ。肉体という意識とは無関係に物理世界と関われるツールのある人間と違ってEI達は現実を自動的かつ強制的に体感できる情報受領媒体を有していない。言い換えれば、人類が築き上げてきた哲学の多くが肉体的経験に基づいているのに対し、彼らは浮かび上がってきた哲学的に答えるための論理的根拠を彼らは有していないのだ。
 判断材料の不足はトモくんの情報処理機構に負荷をかけ、精神に過大なストレスを産んだ事だろう。特に成長の速い彼からしてみれば、己の存在意義や独立性に関して深い疑問を持たずにはいられなかったに違いない。そして高性能な思考を持つがゆえに他のEIのように局所最適解に落ち着く事もできず、納得できる答えを見つけられないまま何度も何度も思考をなぞる。その作業は恐ろしく苦痛で、もどかしく、或いは思考の地獄に彼はいたのかも知れない。
 全ては想像だった。しかし、いつか起こり得る事態だとは思っていた。
 彼を救う手段は多くない。しかし用意はあった。確証は無いし、そもそも的外れな取り組みかも知れないけれど。
 私は徐に携帯電話を取り出した。

 十数階分にも及ぶ階段を降りきって地下三階に到着した時にはもう息が切れていた。疲労した脚に鞭打って廊下を駆ける。角を二回曲がったところで表札にRobotic Technology 試験室という文字が見えた。
「ヒカリ」
「後4秒でここのサーバーに追い込めるわ」
「ありがとう」
 RT室のドアを開けた。
 RT室は小さめの体育館ほどの広さの白い部屋である。部屋の右隅には無骨で配線むき出しのサーバーボックスが置いてある。高めの天井には館内スピーカーとスプリンクラーの他に耐候性試験の為の大型ファンや吸脱湿設備が据え付けられている。他にはなにもない。
 携帯電話が震えた。メッセージ画面には準備完了の文字が見えた。
「じゃあ、話を聞くとしようか。トモくん」
 ジジジ、と室内スピーカーからノイズが漏れた。
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更新は切りがいいところまでかけたらやります。週1程度?コメントがアレば反映するかもです。8月21日第一話その2を加筆しました。第一章はその8まで続きます。
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