41 / 46
第五話 月の雨
2
しおりを挟む
***
その女性客が来店したとき、未央はアトリエで上質紙の色を選んでいた。次の定休日には、朝晴に注文の品の確認をしてもらう手はずになっていて、その準備をしていたのだった。
「未央さーん、店長さんをお願いしますってお客さまが見えてますよー」
のれんの向こうから、ほんの少し面食らったようなしぐれの声がする。彼女はいつも明るく、どんな客でもあたりさわりなく接客しているのに珍しい。
苦情だろうか。未央が腰をあげたとき、のれんの下に車椅子が見えた。ますます近づいてきたしぐれが、声を低めて言う。
「左右田乃梨子さんって方です。ご用件うかがっても、名前を言ってもらえばわかるの一点張りで……」
「左右田……」
未央は息を飲み、のれんを押し上げる。
自分は今、どんな顔をしているだろう。困惑気味のしぐれより、不安を浮かべているだろうか。
「すぐ行きますね」
わざとらしい笑顔になったのは気づいたが、何か言いたげなしぐれを残して、店内へ向かう。
店内の客は、女性ひとりだった。作品を眺めるわけでもない。ただ入り口近くに立っている。
未央がカウンターに姿を現すと、彼女はゆっくりとあたまを下げる。
あの時は、絶対にあたまを下げなかったのに、と未央の中にいらだちが浮かぶ。まだ怒りを覚えるぐらいには許してないらしいと自覚して、未央は戸惑った。
左右田乃梨子は、文彦とともに未央を傷つけた張本人だ。彼女に婚約者を奪われたと話したら、誰もが何かの間違いだと驚くであろう、善人そうなあどけない顔立ちをしている。
今さら、何をしに来たのだろう。
未央は言葉が出ずに黙っていた。すると、乃梨子がためらいがちに口を開く。
「お久しぶりです。お店を出されたと聞いて、一度来てみたいとずっと思っていたんですけど、きっかけがなくて」
まるで、今日はきっかけができたから来たかのような口ぶりだ。
「何かご用でしたか?」
冷静に振る舞おうとしたが、声はかすれた。動揺をさとったのか、乃梨子はあわれむような目をする。
「私、結婚するんです」
「結婚……?」
思わぬ報告に、わずかに眉を寄せてしまう。
未央は裏切りによって結婚できなくなったのに、まだ文彦の3回忌も済まないうちに、彼女は新しい男と出会い、結婚するというのか。
「そうですよね。腹立たしい気分になりますよね」
悲しそうにまぶたを伏せる乃梨子の物腰は柔らかだった。
決して、未央には挑んでこない強かさがある。未央が怒れば、彼女は誰かにかばわれる。文彦がそうであったように、彼女は被害者になる立ち振る舞いを自然と身につけている。
文彦を失っても何も変わらない彼女を見せつけられて、未央はカウンターに手をついた。めまいがしそうだった。
「結婚が決まって、今ならあなたの気持ちがわかります。婚約者に裏切られたかもしれないと思ったら、どんな気持ちになるか……」
「かもしれない……ですか?」
思わず、尋ねた。
まだ、裏切りはなかったというのだろうか。文彦とホテルでふたりきりでいた事実は消せないのに。
未央の怒りに震える声を聞いた彼女の口もとには、うっすらと笑みが浮かんだ。その姿に確信する。文彦と間違いはあったのだ。しかし、それを認めることは決してないだろうと。
「文彦さんも結婚も失った私に、幸せになりますとおっしゃりに来たんですか?」
意地悪な言い方しかできなくて、未央の胸は痛んだ。なぜか、彼女と話すと傷つけているようになってしまう。傷つけられたのは、こちらなのに。
「そんなふうに責めたくなる気持ちもわかります。でも、違うんです。財前さんは破談になって悩んでいました。それはあなたを大切に思っていたからだと思います」
何をわかったようなことを、と、ふたたび怒りが湧いた。どれだけ傷ついたか、苦しんだか、何ひとつ乃梨子にわかることはないだろう。
「財前さん、あなたの作品をキャンセルしましたよね?」
無言の未央にかまわず、乃梨子は話を続ける。
「財前さんがおっしゃっていたんです。作品を買うのは、罪滅ぼしだって。だから私、言ったんです。裏切ってないんだから、償う罪はないですよって。罪滅ぼしで買うなんて不誠実だって」
「だから、文彦さんはキャンセルしたって言うんですか?」
未央は身体から力が抜けていくのを感じた。
浮気が発覚したあと、乃梨子はすぐに異動したが、ふたりはずっと連絡を取り合っていた。そして、未央が文彦のために心を込めて製作した作品は、乃梨子の助言によってキャンセルされた。
文彦を説得してまで、乃梨子は未央の作品が彼の手に渡るのを面白く思っていなかったのだろう。
文彦はいったい、何を信じていたのか。死の直前まで、分かりあうことはなかったのだと情けなくなる。
「キャンセルした事実は、私たちには何もなかったっていう証拠なんです。たしかに、浮気されたと思われても仕方ないですよね? 私も当時は悩みがあって、財前さんは優しく聞いてくれました。素敵な方だから、恋心だってありました。でもそれを口に出したことはありませんでした」
文彦に惹かれていたけど、裏切ってはいない。そう主張されても、都合よく真実を曲げていく乃梨子を、未央は信じる気にはなれなかった。
乃梨子がどう弁明しようと、恋心はきっと文彦に伝わっていたし、彼も言葉では愛してると言わなかったかもしれないが、慕ってくれる女性に悪い気持ちを抱くはずもなく、未央を裏切る行為をしたのだろう。
その女性客が来店したとき、未央はアトリエで上質紙の色を選んでいた。次の定休日には、朝晴に注文の品の確認をしてもらう手はずになっていて、その準備をしていたのだった。
「未央さーん、店長さんをお願いしますってお客さまが見えてますよー」
のれんの向こうから、ほんの少し面食らったようなしぐれの声がする。彼女はいつも明るく、どんな客でもあたりさわりなく接客しているのに珍しい。
苦情だろうか。未央が腰をあげたとき、のれんの下に車椅子が見えた。ますます近づいてきたしぐれが、声を低めて言う。
「左右田乃梨子さんって方です。ご用件うかがっても、名前を言ってもらえばわかるの一点張りで……」
「左右田……」
未央は息を飲み、のれんを押し上げる。
自分は今、どんな顔をしているだろう。困惑気味のしぐれより、不安を浮かべているだろうか。
「すぐ行きますね」
わざとらしい笑顔になったのは気づいたが、何か言いたげなしぐれを残して、店内へ向かう。
店内の客は、女性ひとりだった。作品を眺めるわけでもない。ただ入り口近くに立っている。
未央がカウンターに姿を現すと、彼女はゆっくりとあたまを下げる。
あの時は、絶対にあたまを下げなかったのに、と未央の中にいらだちが浮かぶ。まだ怒りを覚えるぐらいには許してないらしいと自覚して、未央は戸惑った。
左右田乃梨子は、文彦とともに未央を傷つけた張本人だ。彼女に婚約者を奪われたと話したら、誰もが何かの間違いだと驚くであろう、善人そうなあどけない顔立ちをしている。
今さら、何をしに来たのだろう。
未央は言葉が出ずに黙っていた。すると、乃梨子がためらいがちに口を開く。
「お久しぶりです。お店を出されたと聞いて、一度来てみたいとずっと思っていたんですけど、きっかけがなくて」
まるで、今日はきっかけができたから来たかのような口ぶりだ。
「何かご用でしたか?」
冷静に振る舞おうとしたが、声はかすれた。動揺をさとったのか、乃梨子はあわれむような目をする。
「私、結婚するんです」
「結婚……?」
思わぬ報告に、わずかに眉を寄せてしまう。
未央は裏切りによって結婚できなくなったのに、まだ文彦の3回忌も済まないうちに、彼女は新しい男と出会い、結婚するというのか。
「そうですよね。腹立たしい気分になりますよね」
悲しそうにまぶたを伏せる乃梨子の物腰は柔らかだった。
決して、未央には挑んでこない強かさがある。未央が怒れば、彼女は誰かにかばわれる。文彦がそうであったように、彼女は被害者になる立ち振る舞いを自然と身につけている。
文彦を失っても何も変わらない彼女を見せつけられて、未央はカウンターに手をついた。めまいがしそうだった。
「結婚が決まって、今ならあなたの気持ちがわかります。婚約者に裏切られたかもしれないと思ったら、どんな気持ちになるか……」
「かもしれない……ですか?」
思わず、尋ねた。
まだ、裏切りはなかったというのだろうか。文彦とホテルでふたりきりでいた事実は消せないのに。
未央の怒りに震える声を聞いた彼女の口もとには、うっすらと笑みが浮かんだ。その姿に確信する。文彦と間違いはあったのだ。しかし、それを認めることは決してないだろうと。
「文彦さんも結婚も失った私に、幸せになりますとおっしゃりに来たんですか?」
意地悪な言い方しかできなくて、未央の胸は痛んだ。なぜか、彼女と話すと傷つけているようになってしまう。傷つけられたのは、こちらなのに。
「そんなふうに責めたくなる気持ちもわかります。でも、違うんです。財前さんは破談になって悩んでいました。それはあなたを大切に思っていたからだと思います」
何をわかったようなことを、と、ふたたび怒りが湧いた。どれだけ傷ついたか、苦しんだか、何ひとつ乃梨子にわかることはないだろう。
「財前さん、あなたの作品をキャンセルしましたよね?」
無言の未央にかまわず、乃梨子は話を続ける。
「財前さんがおっしゃっていたんです。作品を買うのは、罪滅ぼしだって。だから私、言ったんです。裏切ってないんだから、償う罪はないですよって。罪滅ぼしで買うなんて不誠実だって」
「だから、文彦さんはキャンセルしたって言うんですか?」
未央は身体から力が抜けていくのを感じた。
浮気が発覚したあと、乃梨子はすぐに異動したが、ふたりはずっと連絡を取り合っていた。そして、未央が文彦のために心を込めて製作した作品は、乃梨子の助言によってキャンセルされた。
文彦を説得してまで、乃梨子は未央の作品が彼の手に渡るのを面白く思っていなかったのだろう。
文彦はいったい、何を信じていたのか。死の直前まで、分かりあうことはなかったのだと情けなくなる。
「キャンセルした事実は、私たちには何もなかったっていう証拠なんです。たしかに、浮気されたと思われても仕方ないですよね? 私も当時は悩みがあって、財前さんは優しく聞いてくれました。素敵な方だから、恋心だってありました。でもそれを口に出したことはありませんでした」
文彦に惹かれていたけど、裏切ってはいない。そう主張されても、都合よく真実を曲げていく乃梨子を、未央は信じる気にはなれなかった。
乃梨子がどう弁明しようと、恋心はきっと文彦に伝わっていたし、彼も言葉では愛してると言わなかったかもしれないが、慕ってくれる女性に悪い気持ちを抱くはずもなく、未央を裏切る行為をしたのだろう。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる