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第二話 名残の夕立

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 別れた恋人、福本征也ふくもとゆきやと出会ったのは、高校2年生のときに働いていたアルバイト先でだった。当時、彼は大学生になったばかりだったが、しぐれと同じように高校生のときから働いていたからアルバイト歴は長く、いつも仕事をテキパキとこなしていた。そんな姿が大人に見えて、カッコいいなと思っていた。

 お互いに好印象を持っているのはわかっていたが、正式に交際を申し込まれたのは、しぐれが大学の入学式を無事に終えた春のことだった。けんかもしない、自他ともに認める仲良しカップル。大学卒業後、しぐれは調理師として働き始め、彼は自動車の営業職に就いたが、忙しい中でも、お互いに会う時間を作る努力は惜しまなかった。

 連日の猛暑がようやく落ち着き始めた夏の終わり、しぐれは一泊の予定で、征也の運転するバイクで温泉旅行に出かけることになった。

「カーブばっかりの山道だね」

 坂道の途中でバイクを停め、美しい山々の景色を眺めながら、しぐれはそう言った。

「疲れるよな。もうちょっとで旅館だからさ」
「ううん。全然疲れてないよっ」

 いま思えば、征也は疲れていたのかもしれない。ハンドルを握る細身の背中に抱きつき、何回曲がったかわからないぐらい、ぐにゃぐにゃとした坂道を下った。

 事故が起きたとき、何が起こったのかよくわからなかった。「ああっ」と、短い彼の叫び声と地面に投げ出された衝撃。足の痛みをこらえて目を開けたときには、血だらけの彼が道路に横たわっていた。車から降りてきた男の人が、「大丈夫かっ?」と叫んでいたが、しぐれはぼう然としていた。

 そして、気づいたときには病院のベッドの上だった。

 征也は穏やかな性格で、しぐれを怖がらせるような危ない運転は決してしない人だった。病院に駆けつけた兄から、坂道のカーブを曲がりきれず、ガードレールにぶつかったと聞かされたときは、「征也のせいじゃないよ」と、彼を責めてもいない兄に誤解をとくように訴えた。

 暑さがやわらぎ始めたころとはいえ、あまりの暑さにもうろうとしていたのだろうか。それとも、旅館へ急ぐあまり、いつもよりスピードを出していたのだろうか。彼は事故直後の記憶があいまいで、よく覚えていないと言っているようだった。

「しぐれ、久しぶり。ごめん。なかなか来れなくて」

 病院に現れた征也は松葉杖をついていた。腕もあざだらけで、痛々しい。大丈夫? と手を伸ばそうとしたけど、腕はうまく上がらなかった。

「昨日、退院したって聞いたよ。私より大けがしてるのに、謝らないでよ」

 そう言ったら、征也は嫌な汗をぬぐうように、手のひらで顔をなでた。

「ほんとうに?」

 ベッドに横たわるしぐれの身体を、彼は複雑そうに見つめた。彼の目にはどんなふうに映っているだろう。哀れまれているようで、情けない気分になった。

「ほんとうだよ。すぐに動けるようになるって、お医者さんも……」
「ごめん……」

 ふたたび、謝罪を口にして、征也はまぶたを伏せた。

「なんで謝るの?」

 大けがしてるのは征也の方だ。それでも、大したけがもないのに動けないのは、しぐれの方だった。言い訳もせずにただ謝るしかない選択をした彼が、深刻な状態の恋人にどんな結論を出すのか、不安で仕方なかった。

「別れるの?」

 しぐれは先手を打って聞いた。別れたいって言われたくなかったからだ。しかし、それは悪手だった。

「言わないよ。俺のせいで、こんなことになった。一生かけて償うよ」

 深々とあたまをさげる征也からは後悔しか感じられなかった。好きだから、愛してるから、一生一緒にいたい。そういう気持ちとは別の感情が渦巻いてるように見えた。

 憧れの人と甘くて優しい恋をして、幸せに満ち満ちたまま結婚する。その先の人生だって順風満帆で、幸せしか見ない恋愛を期待していたしぐれには、思い描いていた明るい未来に黒い染みが落ちてきたように感じた。

「なにそれ」
「何って……」
「簡単に償うとか言わないでよ」

 しぐれは静かにそう言った。手を振り上げ、彼の胸を叩き、自分が欲しいのはそんな言葉じゃないと叫びたかった。感情をむき出しにすることで楽になりたかった。だからこそ取り乱したかったのに、腕は上がらず、涙も流れず、ぽっかりとむなしく空いた胸からわずかな息が漏れただけだった。

 彼が罪悪感にさいなまれているだろうことはわかっているつもりだった。だからこそ、もっと愛を伝え合って、大丈夫だから、とただ抱きしめ合いたかった。だからこそ、反発した。

 もう二度と立ち上がれなかったらどうしよう。好きな仕事だってできない。家族にだって迷惑をかける。不安と焦燥にかられる毎日が待っている。そこに征也との幸せな未来は見出せない。

 しぐれは動けなくなって初めて現実を見た気がしていたのに、償うという言葉一つで許しを得ようとする彼が無責任に思えたのだった。
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