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名を刻む儀式
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一真に自宅まで送ってもらい、二階にある自室に戻るとすぐ着替えを済ます。
明日は何を着て白夜くんの家に行こう。彼の家にお邪魔する時は気を遣う。白夜くんのお母さんに会ったことはないけど、いつも失礼のないようにとは気を配っているつもりだ。
クローゼットを開けて、ニットワンピースを取り出す。鏡の前に立ち、上着や小物を合わせてみたりして、コーディネートを楽しむ私に、はたと気付く。
鏡の中の自分と目を合わせたら、なんだか気恥ずかしくなってくる。手にした洋服を壁にかけると、勉強机に座って引き出しを開いた。
中には呼結神社の御守りがある。それを手に取り、目の前にかざす。
私はいつか誰かを愛する日が来るだろうか。来世でもいいから結ばれたいと思えるほどの相手と。奇子さんのように情熱的な恋をするなんて、今の私には想像がつかない。
でも、私が安哉くんと結婚したら、奇子さんの想いはどこへ行くのだろう。白夜くんと結ばれる日が来るまで、奇子さんは何度も生まれ変わり、彼を追い求め続けるのだろうか。
一真の話も気になっている。
橘安哉は何度も同じ名で生まれ変わっている。その理由が、誰かが彼の名を刻んだことによるものなら、橘安哉の名を刻んだ人は、いまだ願いを成就できずにいるのだろう。彼の存在がその証明になっている。
御守りを眺めながら、本当にそんなことが出来るほどの力がこの御守りにあるのだろうかと思う。半信半疑な思いの中、もし藁にもすがる思いを抱えた者ならば、その可能性にかけてみるのかもしれないとも思った。
遠くで鳴るチャイムの音に気づき、思考が止まる。すぐに一階から話し声が聞こえてくる。来客のようだ。
御守りを机の上に置き、自室のドアを開けると、二階の階段を上がってくる霧子と出くわす。
「お父さんのお客さん?」
そう尋ねると、霧子はスッと目を伏せる。
「安哉くんがお姉ちゃんに会いに来たみたい」
「え、安哉くんが?」
「正式に結婚の申し込みに来たのかもね」
「まさか……」
婚約者なのに、まさかというのも変だ。それは霧子も思ったのだろう。彼女は奇妙に表情を歪める。
「あ、霧子、安哉くんのことは心配いらないのよ。二人でちゃんと話し合ってるから」
安心させたくてそう言うと、霧子は表情を強張らせたまま、隣の部屋へ向かう。
「霧子……」
様子のおかしい霧子を追いかけようか迷ううちに、階下が騒がしくなる。階段下を覗けば、母親がこちらを見上げている。
「美鈴、安哉くんがいらしてるわ。降りていらっしゃい」
母親に渡された茶菓の乗るお盆を持って客間へ行くと、改まった装いの安哉くんがローテーブルの前に座って私を待っていた。
屹然と背筋を伸ばし正座する彼を見れば、霧子の予感は当たっているのかもしれないという気がする。
安哉くんは私に気まずそうに笑む。そして、私以外誰も来ないことに気づくと肩の力を抜いた。
両親も同席した方が良かっただろうか、と思ったが、それは余計な気のまわしのような気がして口には出さなかった。
「どうしたの? 急だったからびっくりしたわ」
安哉くんにお茶を差し出しながら言う。菓子を並べ、彼の向かい側へ腰を下ろすと、彼は申し訳なさそうに眉をさげる。
「昨日のこと……、ちゃんと謝ろうと思ってさ」
彼はいきなりそう切り出す。
「……あのことはもう、いいの」
安哉くんから目をそらす。謝罪を受け入れられないわけじゃない。蒸し返されたくないだけだ。恐怖心を思い出してしまう。
「もういいなんてことはないよ、美鈴。美鈴が泣いたのは俺もショックだった。そんなに俺を好きじゃないのかって怒りもあったし、美鈴を傷つけたこと……、反省も後悔もした」
安哉くんはうな垂れ、正座した膝の上でこぶしを握る。彼なりの反省や後悔は感じる。しかし、私へ向けられた怒りもまだあるのだと思うと、私は彼に近づく勇気が出ない。
「安哉くん、私ね……、やっぱり婚約のことは、もう一度ちゃんと考え直した方がいいって思ってるの」
安哉くんはハッと顔を上げる。しわの寄る眉間に、彼の困惑があらわになっている。
「しきたりなんていう伝統は終わらせる勇気が必要だと思うの。安哉くんならそれができる人だと思ってる」
「結婚を待ってくれって言ったかと思ったら、今度は婚約解消したいって?」
「そういうことじゃないの。正しい道を探しましょうって言ってるの」
「正しい道って? 俺たちは愛し合ってないから結婚するなんておかしいって思ってるんだ、美鈴は」
安哉くんの表情は険しい。彼を傷つけている。それは伝わってくるけれど、私たちは今、傷つけ合ってでも乗り越えていかなければならないものに直面しているのだ。
「……ずっと続けていくことじゃないって思ってるの」
「きっかけはしきたりだけどさ、俺は美鈴と結婚できるのは嬉しいし、間違ってるなんて思ってない。美鈴が大学に行きたいっていうから、それは俺なりに考えてる。そうやって二人で相談しながら生きていくんだ。それはおかしいことでもなんでもないよ」
「安哉くんの気持ちは嬉しいと思ってるの。でも……」
「でも、堀内白夜が好きだから結婚したくないって思うようになった?」
一真に自宅まで送ってもらい、二階にある自室に戻るとすぐ着替えを済ます。
明日は何を着て白夜くんの家に行こう。彼の家にお邪魔する時は気を遣う。白夜くんのお母さんに会ったことはないけど、いつも失礼のないようにとは気を配っているつもりだ。
クローゼットを開けて、ニットワンピースを取り出す。鏡の前に立ち、上着や小物を合わせてみたりして、コーディネートを楽しむ私に、はたと気付く。
鏡の中の自分と目を合わせたら、なんだか気恥ずかしくなってくる。手にした洋服を壁にかけると、勉強机に座って引き出しを開いた。
中には呼結神社の御守りがある。それを手に取り、目の前にかざす。
私はいつか誰かを愛する日が来るだろうか。来世でもいいから結ばれたいと思えるほどの相手と。奇子さんのように情熱的な恋をするなんて、今の私には想像がつかない。
でも、私が安哉くんと結婚したら、奇子さんの想いはどこへ行くのだろう。白夜くんと結ばれる日が来るまで、奇子さんは何度も生まれ変わり、彼を追い求め続けるのだろうか。
一真の話も気になっている。
橘安哉は何度も同じ名で生まれ変わっている。その理由が、誰かが彼の名を刻んだことによるものなら、橘安哉の名を刻んだ人は、いまだ願いを成就できずにいるのだろう。彼の存在がその証明になっている。
御守りを眺めながら、本当にそんなことが出来るほどの力がこの御守りにあるのだろうかと思う。半信半疑な思いの中、もし藁にもすがる思いを抱えた者ならば、その可能性にかけてみるのかもしれないとも思った。
遠くで鳴るチャイムの音に気づき、思考が止まる。すぐに一階から話し声が聞こえてくる。来客のようだ。
御守りを机の上に置き、自室のドアを開けると、二階の階段を上がってくる霧子と出くわす。
「お父さんのお客さん?」
そう尋ねると、霧子はスッと目を伏せる。
「安哉くんがお姉ちゃんに会いに来たみたい」
「え、安哉くんが?」
「正式に結婚の申し込みに来たのかもね」
「まさか……」
婚約者なのに、まさかというのも変だ。それは霧子も思ったのだろう。彼女は奇妙に表情を歪める。
「あ、霧子、安哉くんのことは心配いらないのよ。二人でちゃんと話し合ってるから」
安心させたくてそう言うと、霧子は表情を強張らせたまま、隣の部屋へ向かう。
「霧子……」
様子のおかしい霧子を追いかけようか迷ううちに、階下が騒がしくなる。階段下を覗けば、母親がこちらを見上げている。
「美鈴、安哉くんがいらしてるわ。降りていらっしゃい」
母親に渡された茶菓の乗るお盆を持って客間へ行くと、改まった装いの安哉くんがローテーブルの前に座って私を待っていた。
屹然と背筋を伸ばし正座する彼を見れば、霧子の予感は当たっているのかもしれないという気がする。
安哉くんは私に気まずそうに笑む。そして、私以外誰も来ないことに気づくと肩の力を抜いた。
両親も同席した方が良かっただろうか、と思ったが、それは余計な気のまわしのような気がして口には出さなかった。
「どうしたの? 急だったからびっくりしたわ」
安哉くんにお茶を差し出しながら言う。菓子を並べ、彼の向かい側へ腰を下ろすと、彼は申し訳なさそうに眉をさげる。
「昨日のこと……、ちゃんと謝ろうと思ってさ」
彼はいきなりそう切り出す。
「……あのことはもう、いいの」
安哉くんから目をそらす。謝罪を受け入れられないわけじゃない。蒸し返されたくないだけだ。恐怖心を思い出してしまう。
「もういいなんてことはないよ、美鈴。美鈴が泣いたのは俺もショックだった。そんなに俺を好きじゃないのかって怒りもあったし、美鈴を傷つけたこと……、反省も後悔もした」
安哉くんはうな垂れ、正座した膝の上でこぶしを握る。彼なりの反省や後悔は感じる。しかし、私へ向けられた怒りもまだあるのだと思うと、私は彼に近づく勇気が出ない。
「安哉くん、私ね……、やっぱり婚約のことは、もう一度ちゃんと考え直した方がいいって思ってるの」
安哉くんはハッと顔を上げる。しわの寄る眉間に、彼の困惑があらわになっている。
「しきたりなんていう伝統は終わらせる勇気が必要だと思うの。安哉くんならそれができる人だと思ってる」
「結婚を待ってくれって言ったかと思ったら、今度は婚約解消したいって?」
「そういうことじゃないの。正しい道を探しましょうって言ってるの」
「正しい道って? 俺たちは愛し合ってないから結婚するなんておかしいって思ってるんだ、美鈴は」
安哉くんの表情は険しい。彼を傷つけている。それは伝わってくるけれど、私たちは今、傷つけ合ってでも乗り越えていかなければならないものに直面しているのだ。
「……ずっと続けていくことじゃないって思ってるの」
「きっかけはしきたりだけどさ、俺は美鈴と結婚できるのは嬉しいし、間違ってるなんて思ってない。美鈴が大学に行きたいっていうから、それは俺なりに考えてる。そうやって二人で相談しながら生きていくんだ。それはおかしいことでもなんでもないよ」
「安哉くんの気持ちは嬉しいと思ってるの。でも……」
「でも、堀内白夜が好きだから結婚したくないって思うようになった?」
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