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しきたりと願い

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「お母さん、行ってきまーすっ」
「気をつけなさいね、美鈴……」

 あきれ顔の母親に見送られながら、慌ただしく玄関を飛び出す。
 白夜くんの身に起きる、不可思議な現象を解決するアルバイトを、わけもわからず引き受けることになったらしい日から数日、私の方はといえば、穏やかな日を過ごしていた。
 しかし、昨夜はまた仕出かしてしまったらしい。

 門を出たところで深呼吸し、制服に乱れがないか確認して、足早に歩き始める。すると、すぐ先にある電信柱の影から妹の霧子が現れた。どうやら、私を待っていたみたいだ。

「お姉ちゃん、またネイルして出かけたの? お父さんたちは気づいてないからいいけど、もうやめた方がいいんじゃない?」

 霧子は唐突に切り出す。もともとあまり表情を崩さない子だが、あきれと怒りがない交ぜになった表情で、私を冷ややかに見つめている。
 昨夜の仕出かしに、どうやら霧子も気づいていたようだ。

「知ってたの……?」
「たまたまね。物音がした気がして、窓の外見たら、お姉ちゃんが神社の方に向かって歩いていくのが見えたから」
「神社の方?」
「どこ行ってたの?」
「……それが、よくわからないんだけど」
「わからないって……」

 霧子はあきれを通り越したように、ぽかんとして肩をすくめる。

 わからないのは本当のことだ。今朝も起きてすぐ、爪に塗られた真っ赤なネイルに気づいて、慌てて除光液で取ったばかりなのだ。自分が出歩いていたことすら、記憶はない。以前の経験上、きっとネイルをして出かけたのだろうと、想像がつくぐらい。

「お姉ちゃん大丈夫? いくら好きな男の人が出来たからって、夜に会うのはどうかと思うよ。安哉くんだって心配するよ?」

 霧子の言葉に耳を疑う。

「え、好きな男の人に会う?」
「違うの? 先週の土曜日、神社から男の人と出てくるの見たよ。私も友達の家から帰る途中だったから、お姉ちゃんのアルバイトが終わる時間だったし、一緒に帰ろうと思って神社に寄ったんだけど」

 霧子は私が白夜くんと歩いているのを見て、何やら勘違いしているようだ。

「あれは同級生の子で、好きな人ってわけじゃないのよ」
「本当? それならいいけど……、安哉くんに何か不満でもあるのかと思った。でも、夜に出かけるのは良くないよ。誤解されても仕方ないと思う」
「あー霧子、そのことだけど、安哉くんには内緒にしてくれる? 婚約者が夢遊病に悩まされてるなんて知ったら心配するでしょ?」
「夢遊病なの?」

 今度は霧子が驚く番のようだ。今まで私が夢遊病に悩まされたことがないことを知ってるだけに、信じられないのだろう。

「自分でもわからないのよ」
「わからないから夢遊病だよね。安哉くんには会わないから話しようがないけど、黙っておいてあげる」

 霧子は賢い子だ。自分の言動が招く災いはよく理解しているだろう。不出来な姉を持って苦労してる、とでも本人は感じているかもしれないが。

「ありがとう、霧子。夢遊病はなんとかするから、もうちょっと見逃して」
「安哉くんに相談してみたら? 高校卒業したら結婚するんでしょう?」
「それは……、まだ」

 言葉を濁してしまう。霧子ははっきりしない私を不思議そうに見る。

「まだ? 安哉くんはそのつもりかと思ってた」
「それはその、そうかもしれないんだけど……」
「お姉ちゃんが迷ってるの?」
「そのことは安哉くんとちゃんと話し合おうって思ってるから」

 迷っているのか、と聞かれたら、やはり迷っていると答えるだろう。霧子や竜生のように、しきたりに縛られない生活をしてみたい。そんな思いは、巫女のアルバイトを始めてから、より強いものになっている。

「私は安哉くん、好きよ」
「え……?」

 霧子は少し思いつめた目をしている。こんな目をする霧子は見たことなくて息を飲む。

「お兄ちゃんになってくれるなら、嬉しいって思ってるの。しきたりで結婚するとかじゃなくて、安哉くんと縁があったのは幸せなことだと思うよ」
「……そうよね、私にはもったいない相手だと思ってはいるの」
「私がそう思うだけで、お姉ちゃんは違うのかもしれないね。私ね、お姉ちゃんには後悔しない結婚をして欲しいなって思ってる。私も……、好きな人と結婚したかったなって思ってるから」

 何かを諦めたかのように霧子はつぶやく。

「霧子……?」
「……先に行くね。お姉ちゃんのせいで遅刻したら大変」

 いつになく感傷的な表情で、霧子は立ち去る。

 どうしたのだろう。あの子ももう中学三年生だ。恋をしてても不思議ではない。でも、結婚したかった、なんて、まるでもう好きな人とは結婚できないって悟っているような……。

「美鈴っ」

 不意に背中に声をかけられてハッとする。振り返ると、穏やかに微笑む安哉くんがいる。
 安哉くんは私に駆け寄ってくると、霧子の立ち去った方角へと目を向ける。

「さっきの、霧子ちゃん? 美鈴に似て美人になったよなー。もう中学……、何年だっけ?」
「三年生よ。安哉くん、どうしたの? 通学路じゃないわよね?」
「美鈴に会いに来たんだ。学校じゃ、なかなか話せないから」

 そう言って、安哉くんは気恥ずかしそうに髪をかきあげる。さらさらの茶色の髪が朝日を受けて光る。誰もが振り返るほどの美男子である彼は、髪をかきあげる仕草さえ爽やかだ。

「いつも話してるじゃない?」
「そうじゃないよ。大切な話しようとすると、夜桜さんがタイミングよく来て邪魔するからさ」
「そうかしら?」
「そうだよ。今日さ、学校終わったら話せるかな? 何もないよね?」
「ええ。私も、ちゃんと話さなきゃって思ってたから」
「良かった。じゃあ行こうか」

 安哉くんは私の返答に満足して、先に歩き出す。私はすぐに彼に追いついて、隣を歩く。

 私たちは生まれながらの婚約者だけど、恋人ではない。だから、手をつないで歩いたこともないし、彼が私をどう思っているのか確認したこともない。
 白夜くんはこんな私たちをおかしいと思っているのだ。しきたりだけでつながる私たちを、時代錯誤だと馬鹿にしてる。

 安哉くんはどうなのだろう。しきたりなんかなくても、私と結婚したいって思ってくれただろうか。彼は魅力的な人だから、私より素敵な女性に出会う機会はたくさんあるだろう。

「学校近くのカフェさ、うちの生徒がたくさんいるんだよな。坂の上のカフェで話してもいいかなって考えてたんだけど、あのカフェ、時追グループが経営してるんだよなー。白夜もあいかわらず感じ悪いしさ、どうするかなー」

 ひとりごとのように安哉くんは言う。なんだかおかしくて、ちょっと笑ってしまう。彼が誰かを否定する姿なんて見たことないし、唯一合わないと言ってもいい相手が白夜くんなのだ。

「何かおかしい?」
「ううん、安哉くんの気持ち、なんとなくわかるなって思っただけ」
「美鈴もそう思う? だよなー。白夜って、絶対俺のこと馬鹿にしてるよ」

 もしかしたら思ってるような人じゃないかもしれないよ。

 そう言おうかと思ったけれど、安哉くんに白夜くんの話をするのは何か違う気がして、私は開きかけた口をそっと閉じた。
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