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第五話 死後に届けられる忘却の宝物
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「昔は良弥も素直な子で、あんな風じゃなかったんですよ」
保はため息を吐き出すと、川まで一緒に行きましょうと歩き出す。
俺たちは黙って彼についていく。菜月の顔色がすぐれない。もう限界かもしれない。はやく帰って、身体を休めた方がいいだろう。すぐに小物入れが見つかればいいのだが。
「レストランを手伝ってるのでは?」
「手伝うなんて聞こえのいいものじゃありません。就職もせず、ふらふらしてるので、帳簿の整頓でもしておけって言ってるだけで」
「それで、時折、事務室に出入りを?」
保は小さくうなずき、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「まさか、店の金に手をつけるなんて思いもしませんからね。私を困らせてやろうと思ってたみたいです」
「じゃあ……」
「ええ。金は返ってきました。政憲を巻き込んだのは申し訳なかったとしか言えません。あいつも心の底じゃ反省してるんでしょうが、素直に頭を下げられないようです」
そう言って、保は信号の手前で足を止めた。
歩行者信号は青だった。あの日も、青信号だったらよかったのにと、俺は思った。政憲も同様に考えただろうか。遠い目をして、点滅を始める信号を眺めていた。
「さっきから考えていました。巻き込まれなければ、父は生きていたかもしれないけれど、俺は会うこともできずにいたんだと。複雑です」
「すみません。私も良弥も、まだ心の整理ができないままです」
「心の整理がついたら、父の墓へ顔を出してやってください」
「その資格があると思えたときに、いつか……」
保は深々と頭を下げる。足もとには、花とビールが置かれている。政憲が亡くなった場所だ。父の死を悼んでくれる誰かが置いてくれたのだろう。
「良弥が置いたんです」
その誰かを、保はそう告白した。
「そうですか」
「良弥が感情をうまくコントロールできなくなったのは、私のせいなんです。妻を……あいつの母親を殺したのは私ですから」
憎々しげに言うのは、今でも自分が許せないからか。良弥の持つとげとげしさが、保にもある。
「穏やかな話ではありませんね」
「もう12、3年ほど前になるでしょうか。レストランを開業し、毎日必死でした。疲れが出たのか、妻が体調を崩しましてね。熱が上がったり下がったりを繰り返して、しばらく寝込んでいたんです。だからあの日も、いつものことだろうとたかをくくっていたんです」
大きなため息をついた保はしゃがみ込み、献花へ向かって手を合わせた。
「当時、良弥はまだ小学生でした。お母さんが苦しんでるって電話を寄越してきましたが、店を閉めてまで帰りませんでした。寝てれば治る……なんて、良弥には言い聞かせましたね」
「ずいぶん具合が悪かったんですか?」
「ええ。仕事が終わって帰ると、妻はベッドの上でぐったりしてました。かたわらで、良弥は泣いていました。すぐに救急車を呼びましたが、一週間後、妻は病院で息を引き取りました」
「そうでしたか」
「良弥は私を恨みましたよ。仕事仕事……そんなに仕事が大事かって。良弥が働かないのは、反発でしょうか。まじめに働いたって幸せになれないんだって思ってしまったのかもしれません」
保が立ち上がる頃には、横断歩道の信号はふたたび青になっていた。
横断歩道を渡った先に川がある。舗装された細い川を橋の上から見下ろした。
流れはほとんどなく、浅い川だった。思いのほか、水もきれいで、底が見えている。小さな小物入れを見つけるのは容易ではないかもしれないが、あきらめるにははやい気がした。
「あっ、親父……八戸城さんっ」
突然、政憲は道路沿いの柵を乗り越えると護岸ブロックを滑り降りていく。靴のまま川に入り、前屈みになると、ワンピースがみるみるうちにびしょ濡れになっていく。
「大丈夫ですか、彼女」
驚いた保も、あわてて橋から身を乗り出す。
「御影さんの助手か何か?」
「ああ、いえ。まあ、そのようなものです」
菜月が何者かなんて、保に説明は必要ないだろう。
「八戸城さんっ、危ないですよっ」
声をかけるが、政憲は一心不乱に川の中に手を突っ込み、周囲を探っていた。
「仕方ありませんね。中村さんはここで待っていてください」
「えっ? 御影さんも川に入るんですか?」
袖をまくりあげる俺に、保は驚く。
「大事なものですから」
そう言うと、保は押し黙った。そして、しばらくすると、彼も上着を脱ぎ始めた。
「政憲が大切にしてた小物入れなのは知ってました。全財産だなんて持ってくるから、変な男だって警戒もしましたよ」
「中村さんは人がいい」
「縁ってやつかもしれません。政憲が料理を食べてから採用するか決めてくれっていうから。彼の腕を買ったんです。正直、記憶を失くしたってわかったときは戸惑いましたよ」
上着を地面に置いて、保は柵を乗り越えた。
「それでも、警察には届け出なかったんですね」
「魔がさしたんでしょうかね。政憲の料理なら、レストランを繁盛させられると思った。すぐに彼の全財産を売りに行きましたよ。二束三文でしたが、ないよりはマシでした。今思えば、二束三文にしかならないなら売らなきゃよかったですよ」
「それで、中身は空っぽなんですね」
「ええ。あの箱だけは、どうしてか手放す気になれなくて金庫に入れておいたんです」
「そういう巡り合わせもあるのかもしれませんね」
「巡り合わせか。すべて運命だったと決めつけるには、政憲の最期は到底受け入れられるものじゃないですが、出会ったことに後悔はないですよ」
「父も、そう思ってると思います」
俺もまた、柵を越えようとしたとき、下の方から、「わっ!」と声があがった。
保と俺が顔を見合わせ、同時に見下ろしたとき、政憲が笑顔で叫んだ。
「あった! あったぞ、誠っ! これで八枝に顔向けができるぞっ」
両手を上に突き上げた彼の手には、美しい木箱がしっかりと握られていた。
保はため息を吐き出すと、川まで一緒に行きましょうと歩き出す。
俺たちは黙って彼についていく。菜月の顔色がすぐれない。もう限界かもしれない。はやく帰って、身体を休めた方がいいだろう。すぐに小物入れが見つかればいいのだが。
「レストランを手伝ってるのでは?」
「手伝うなんて聞こえのいいものじゃありません。就職もせず、ふらふらしてるので、帳簿の整頓でもしておけって言ってるだけで」
「それで、時折、事務室に出入りを?」
保は小さくうなずき、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「まさか、店の金に手をつけるなんて思いもしませんからね。私を困らせてやろうと思ってたみたいです」
「じゃあ……」
「ええ。金は返ってきました。政憲を巻き込んだのは申し訳なかったとしか言えません。あいつも心の底じゃ反省してるんでしょうが、素直に頭を下げられないようです」
そう言って、保は信号の手前で足を止めた。
歩行者信号は青だった。あの日も、青信号だったらよかったのにと、俺は思った。政憲も同様に考えただろうか。遠い目をして、点滅を始める信号を眺めていた。
「さっきから考えていました。巻き込まれなければ、父は生きていたかもしれないけれど、俺は会うこともできずにいたんだと。複雑です」
「すみません。私も良弥も、まだ心の整理ができないままです」
「心の整理がついたら、父の墓へ顔を出してやってください」
「その資格があると思えたときに、いつか……」
保は深々と頭を下げる。足もとには、花とビールが置かれている。政憲が亡くなった場所だ。父の死を悼んでくれる誰かが置いてくれたのだろう。
「良弥が置いたんです」
その誰かを、保はそう告白した。
「そうですか」
「良弥が感情をうまくコントロールできなくなったのは、私のせいなんです。妻を……あいつの母親を殺したのは私ですから」
憎々しげに言うのは、今でも自分が許せないからか。良弥の持つとげとげしさが、保にもある。
「穏やかな話ではありませんね」
「もう12、3年ほど前になるでしょうか。レストランを開業し、毎日必死でした。疲れが出たのか、妻が体調を崩しましてね。熱が上がったり下がったりを繰り返して、しばらく寝込んでいたんです。だからあの日も、いつものことだろうとたかをくくっていたんです」
大きなため息をついた保はしゃがみ込み、献花へ向かって手を合わせた。
「当時、良弥はまだ小学生でした。お母さんが苦しんでるって電話を寄越してきましたが、店を閉めてまで帰りませんでした。寝てれば治る……なんて、良弥には言い聞かせましたね」
「ずいぶん具合が悪かったんですか?」
「ええ。仕事が終わって帰ると、妻はベッドの上でぐったりしてました。かたわらで、良弥は泣いていました。すぐに救急車を呼びましたが、一週間後、妻は病院で息を引き取りました」
「そうでしたか」
「良弥は私を恨みましたよ。仕事仕事……そんなに仕事が大事かって。良弥が働かないのは、反発でしょうか。まじめに働いたって幸せになれないんだって思ってしまったのかもしれません」
保が立ち上がる頃には、横断歩道の信号はふたたび青になっていた。
横断歩道を渡った先に川がある。舗装された細い川を橋の上から見下ろした。
流れはほとんどなく、浅い川だった。思いのほか、水もきれいで、底が見えている。小さな小物入れを見つけるのは容易ではないかもしれないが、あきらめるにははやい気がした。
「あっ、親父……八戸城さんっ」
突然、政憲は道路沿いの柵を乗り越えると護岸ブロックを滑り降りていく。靴のまま川に入り、前屈みになると、ワンピースがみるみるうちにびしょ濡れになっていく。
「大丈夫ですか、彼女」
驚いた保も、あわてて橋から身を乗り出す。
「御影さんの助手か何か?」
「ああ、いえ。まあ、そのようなものです」
菜月が何者かなんて、保に説明は必要ないだろう。
「八戸城さんっ、危ないですよっ」
声をかけるが、政憲は一心不乱に川の中に手を突っ込み、周囲を探っていた。
「仕方ありませんね。中村さんはここで待っていてください」
「えっ? 御影さんも川に入るんですか?」
袖をまくりあげる俺に、保は驚く。
「大事なものですから」
そう言うと、保は押し黙った。そして、しばらくすると、彼も上着を脱ぎ始めた。
「政憲が大切にしてた小物入れなのは知ってました。全財産だなんて持ってくるから、変な男だって警戒もしましたよ」
「中村さんは人がいい」
「縁ってやつかもしれません。政憲が料理を食べてから採用するか決めてくれっていうから。彼の腕を買ったんです。正直、記憶を失くしたってわかったときは戸惑いましたよ」
上着を地面に置いて、保は柵を乗り越えた。
「それでも、警察には届け出なかったんですね」
「魔がさしたんでしょうかね。政憲の料理なら、レストランを繁盛させられると思った。すぐに彼の全財産を売りに行きましたよ。二束三文でしたが、ないよりはマシでした。今思えば、二束三文にしかならないなら売らなきゃよかったですよ」
「それで、中身は空っぽなんですね」
「ええ。あの箱だけは、どうしてか手放す気になれなくて金庫に入れておいたんです」
「そういう巡り合わせもあるのかもしれませんね」
「巡り合わせか。すべて運命だったと決めつけるには、政憲の最期は到底受け入れられるものじゃないですが、出会ったことに後悔はないですよ」
「父も、そう思ってると思います」
俺もまた、柵を越えようとしたとき、下の方から、「わっ!」と声があがった。
保と俺が顔を見合わせ、同時に見下ろしたとき、政憲が笑顔で叫んだ。
「あった! あったぞ、誠っ! これで八枝に顔向けができるぞっ」
両手を上に突き上げた彼の手には、美しい木箱がしっかりと握られていた。
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