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第五話 死後に届けられる忘却の宝物

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 慌ただしく誠さんと八枝さんが出て行ってしまい、残された私は菜月さんと目を合わせて、途方にくれてしまった。

 なんとなく気まずい。何を話したらいいだろう。ついさっきまでは菜月さんとの再会をうれしく思っていたのに、唐突に引き裂かれてしまったような気分になっている。

 息をついて、ひざの上で丸くなるミカンの背中をなでていると、菜月さんが冷めた緑茶をいれ直してくれた。

「八枝さんと御影さんは実の親子なんですね」

 気を遣ってか、話しかけてくれる。

「えっ。あ……、そうみたいです。初めて知ったんですけど」
「千鶴さんでも、ご主人の知らないことがあるんですね。私もそう。堤先生のこと、全然わかってなかったです」
「まだ、お好きなんですね」

 悲しげにまぶたを伏せる菜月さんにそう言うと、彼女は小さくうなずいた。じゃあどうして誠さんに触れていたの? と気になるけど、聞けない。

「千鶴さん、どうしたらいいでしょう」

 テーブルに視線を落としたまま、彼女は小刻みに震えている。

「どうしたらって……」

 そう言われても困る。人の心は自由にならないものだから。

「私、誰かに憑依されてるみたいなんです」
「え?」
「さっきから寒気がひどくて……」

 身体を抱きしめるようにして腕を回し、ガタガタと震える菜月さんに駆け寄る。

 肩に腕を回す。青ざめた彼女はそのまま胸にもたれかかるようにして目を閉じた。

「どうしたら……」

 辺りを見回すけど、もちろん助けてくれるような人は誰もいない。だけど、こちらをじっとにらみつけて、毛を逆立てているミカンがいる。

「ミカンっ! 春樹さんを呼んできて」

 声をあげると、ミカンはすぐさま身をひるがえして、部屋を飛び出していった。




 ミカンに先導されて、すぐに春樹さんは駆けつけてくれた。ぐったりする菜月さんに気づくと、「なんだぁ、千鶴ちゃんに何かあったのかと思ったぜ」と安堵の息をつき、彼女のひたいをぺたりと触った。

「冷たいな。風邪じゃないみたいだな」
「憑依されたみたいなんです」
「はぁ? マジかよ」

 くしゃり、と春樹さんは前髪をつかんだ。

「菜月さんは霊媒のお仕事をしてたから、憑依されやすいのかもしれないです。どこか横になれる場所を作らないと……」
「横ってさー」

 春樹さんは辺りをゆっくり見回して、肩をすくめる。

 ここは八枝さんの家だ。春樹さんが来たことがあるのかないのかはわからないけれど、ここ数年、交流がなかったのは事実だろう。居心地悪く感じてるみたい。

「どうしましょう。誠さんは八枝さんと出かけてしまって、いつお帰りになるかわからないですし」
「そう言えば、兄貴。どこ行ったんだ?」
「病院です。西本郷病院って言ってましたけど、知ってますか?」

 なんで病院? と春樹さんは眉をあげたが、誠さんは仕事でいろんなところへ出かけるから、深くは尋ねてこなかった。

「西本郷はちょっと遠いな。よく行くライブハウスがあるとこだ」
「遠いんですね。でしたら、お帰りは夜遅くなるかもしれませんね」
「夜までここにいるなんてごめんだな。じゃあ……、そうだな。うちに連れて帰ろうぜ」
「え、うちに? そんな勝手なことして大丈夫でしょうか」
「まあいいだろ」

 楽観的に春樹さんは言う。彼は基本的に自由人だ。彼に筋道立った行動を求める方がおかしいかもしれない。

 彼はしゃがんだまま、菜月さんに背を向けて、「ほいっ」と両腕を突き出す。背負って連れていくみたい。

「菜月さん、少し動けますか?」
「……は、はい。すみません」

 閉じていた目をうっすらと開けて、菜月さんは春樹さんの首に腕を回して背にしがみつく。

「いいか? 手、離して落ちるなよ」

 そう言って春樹さんが菜月さんを背負って立ち上がったとき、ぐったりしていた彼女が急に背筋を伸ばして、彼の顔をのぞき込むようにした。

「大きくなったなぁ、春樹も。見違えたよ。八枝の家にいるのは俺も落ち着かない。御影の家まで頼むよ」
「は……?」

 春樹さんは唐突に話し出した菜月さんを凝視する。

「俺だよ。誠はすぐに気づいたんだがな」
「まさか、親父っ?」
「え、お父さんですか?」

 彼女を落としそうになり、あわてて持ち上げる彼を支えながら私も驚いて声をあげる。

「どういうわけか、この娘さんの身体に入ってしまったらしい。八枝の顔を見たら逃げ出したくなったが、磁石みたいにぴたーっと張り付いて離れられない」
「心残りがあるんだよ。それがなくなりゃ、スッーと成仏するさ」

 私の憑依体験を身近で見てきた春樹さんは、あっけらかんと答えるが、やっぱり実の父親となると複雑なのだろう、困惑の笑みを浮かべている。

「それで、こちらのお嬢さんが誠の?」

 菜月さんの視線が私に向くと、緊張感を覚える。彼女の瞳であって、そうではない存在に見つめられるのは奇妙な感覚だ。誠さんはいつもこんな風に戸惑いながら、私に憑いた霊と話しているのかもしれない。

「はい、御影千鶴と言います。はじめまして」

 ぺこりと頭を下げると、菜月さんの目尻が下がり、春樹さんもあきれ顔を見せる。

「千鶴ちゃんはまじめだなぁ。挨拶なんかいらない。親父は俺たちを捨てて出ていったんだ。死んだからって父親面されても困るよ」
「それを言われると、反論する気も起きないな」
「兄貴には謝れよ。苦労したんだ」
「ああ、そうだな。誠は昔から頼りにされて、苦労が多い」
「どうせ俺は頼りにならないさ」

 すねるように言って、そっぽを向く春樹さんは、内心、お父さんと話せてうれしいのかもしれないと思う。

 両親の離婚後、誠さんが春樹さんの面倒を見てきた。そのとき、八枝さんの助けがあって、なんとかこうして生活できていると聞いたけれど、八枝さんが実の母親だというなら、その関係性に納得する。

 一緒には暮らしていなかったけれど、彼らの成長はちゃんと母親に見守られていた。そこに父親がいてくれたら、という思いはずっとあっただろう。

「誠と八枝は今、俺の遺体に対面してるらしい。できたら、御影の家に帰りたい。誠にそう伝えてくれないか。ずっと帰ろうと思って……」
「そんなこと自分で言えよな。……なんだ、寝たのか」

 あきれる春樹さんの視線の先には、彼の背にほおをつけてすやすやと眠る菜月さんの姿があった。
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