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第三話 誠さんは奔放な恋がお好き
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「千鶴さん、会ってもらいたい方がいます。よろしいですか?」
せっかくの旅行だというのに体調を崩してしまった私が落ち込んでいると、誠さんはひどく申し訳なさそうにして私にそう願い出た。
申し訳ないのは私の方なのにと快諾すると、誠さんはすぐに部屋の入り口に向かう。
彼の手によってゆっくりと開かれたドアの奥に現れた青年を目にした瞬間、胸がざわざわと音を立てた。
悲しみ、怒り、苦しみ、そして喜び。いろんな感情がない交ぜになったかのようなさざめきがしばらく続いた。
「……啓司っ」
音が鳴り止んだ瞬間、私の口から自然と青年の名が漏れて、俊敏に立ち上がった身体は彼へ向かう。
「千鶴さん」
啓司さんへ手が届くすんでのところで、誠さんに遮られた。
「千鶴さん、あなたは御影千鶴さんです。井上万智子さんではありませんよ」
珍しく怖い顔をした誠さんが私を叱咤すると、さめざめと泣く女性が私の中で、ひどく冷静になっていくのを感じた。
「ちづる……」
私の口から自分の名が漏れて、ハッと口を押さえる。
心なしか、声のトーンが違う気がした。気味が悪いだろうと、誠さんを見れば、彼は困り顔で眉を下げている。
私の体質を理解してはくれている。しかし、慣れてしまう、そんなことがあるはずはなく。
「千鶴さん、彼が話をしたいと言っています。こちらに座ってください」
誠さんに手を引かれてローテーブルの前に座る。部屋へ上がってきた青年、諏訪啓司さんは、私と目を合わせるとぺこりと頭を下げた。
「昨日はロビーで失礼しました」
啓司さんのあいさつは謝罪から始まった。
彼にぶつかったことで、私は井上万智子という、彼の亡くなった恋人に取り憑かれてしまっている。
誠さんに聞かされてその事実は理解していたが、彼の謝罪がどちらに向けられたものかはわからなかった。
啓司さんは私の中にかつての恋人がいることを知っているのだろうか。
しかしその疑問はすぐに果てる。誠さんがその答えを話してくれた。
「諏訪さんは万智子さんに会いにここへ来たそうです。少しだけ、話をしてくれますか?」
頼りなく誠さんを見上げたが、彼が力強くうなずいてくれるから、私は居住まいを正して、啓司さんと向き合った。
「えっと……、ほんとうに、本当に君は万智子……?」
啓司さんはそっと語りかけるように尋ねる。優しい話し方をする。この状況を受け入れる寛容さもある、包容力のある青年だろう。
なんと答えていいのか黙っていると、私の内側から溢れる思いが口をついて出る。
「そうよ、万智子よ」
啓司さんはハッとする。私の声ではない女性の声が、万智子さんのものと符合したからか。
「万智子……なんだ、本当に万智子なんだ」
正座をする啓司さんは、ひざの上でこぶしを握りしめ、感極まる様子を見せる。
「会いたかった?」
「もちろんだよ。ずっと、ずっとだ。万智子にどうしても伝えたいことがあったから。ずっと、会いたいと思ってた」
「私もよ。啓司とあんな風に別れて終わるなんて思ってなかったもの」
あんな風とはどんな風だろう、と思ったことが伝わったのか、万智子さんがくすりと笑えば、私の唇が奇妙に歪む。
「引き止めたらよかった。そう思う」
「どうして引き止めてくれなかったの?」
何度も何度も口にした言葉を、万智子さんはふたたび口にする。
「信じてなかったからだ。御影さんにそう言われて、いまさら気付いたんだ」
「遊びだって思ってた?」
「そうだよ。万智子が俺に本気だなんて思ってたやつはひとりもいないよ。今も昔もひとりもいない」
「啓司は本気で考えてくれてたのにね」
ちょっと悲しそうなため息が私の口から漏れる。
「ああ、そうだよ。本気だった。もうずっと前から、いつプロポーズしようかって考えてた。大学卒業したらすぐにでもって悩んでた」
「私のこと、すごく好きじゃない」
くすくす笑う万智子さんが悲しそうだ。私の目から涙がこぼれる。
「すごく好きだったよ。万智子以外は考えられない。あのときはそう思ってた」
「過去形なのね」
万智子さんの笑いはおさまらない。
「ああ、過去だよ。俺にはもう、別に好きな人ができたんだ。万智子を忘れさせてくれたとか、そんなんじゃない。素直に好きだって思える、そんな人だ」
まっすぐに私を見つめる啓司さんは、残酷なぐらい純粋だった。
胸が苦しく、痛くなる。
それでもどこか、清々しい気持ちでいることが不思議だった。
「それを言いに、ここへ来たの?」
「そう。なんとなく、ここへ来たら会えるような気がしたんだ。それに理由はないよ。もしかしたらこれも運命かもしれないね」
「私を弔いに来たの。あなたらしい」
万智子さんの胸が温かくなったのを、身体を通じて感じる。
「ああそうだ。結婚の報告とかじゃない。幸せだから心配するななんて言いに来たわけじゃない。万智子がここで苦しんでるなら、もう苦しまなくていいって、それだけを言いに来たんだ」
「結婚するのね。それもあなたらしい。律儀なところ、好きだったわ」
「過去形にしてくれるんだ」
啓司さんは心なしか楽しそうに笑う。けれどその笑みに誘われるのは悲しみや怒りではなくて、私もなぜだか愉快な気持ちになる。
万智子さんと啓司さんの空気はいつもこんな風だったのだろう。
彼女が本気の感情を見せる前に、ふんわりと彼がごまかしてしまう、そんな。
「幸せにね、なんて言わないわ。啓司の未来に興味はないの」
「俺も。万智子が生まれ変わっても会いたいとか言わない」
「束縛、嫌いだもの」
「ああ」
短くうなずいた啓司さんがひどく真面目な顔をする。
「万智子に出会わせてくれた御影さんからはやく離れたらいいよ。いま、万智子が言ったんだ。束縛は嫌いだって」
「ええ、そう。ちょっとだけ、窮屈ねって思ってたの」
啓司さんが優しく微笑む。それが合図だったように、私の中からぬるりとしたものが離れていく感覚が現れる。
バランスを崩すように身体が左右に揺れる。その背を誠さんが受け止める。
啓司さんは背筋を伸ばした。
「これで終われます、御影さん。ありがとうございました」
啓司さんは深々と誠さんへ向かって頭を下げる。そのこぶしは震え、畳の上にぽたぽたと涙がこぼれたが、本当に終わったんだ、という思いが私の中を巡っていった。
「千鶴さん、会ってもらいたい方がいます。よろしいですか?」
せっかくの旅行だというのに体調を崩してしまった私が落ち込んでいると、誠さんはひどく申し訳なさそうにして私にそう願い出た。
申し訳ないのは私の方なのにと快諾すると、誠さんはすぐに部屋の入り口に向かう。
彼の手によってゆっくりと開かれたドアの奥に現れた青年を目にした瞬間、胸がざわざわと音を立てた。
悲しみ、怒り、苦しみ、そして喜び。いろんな感情がない交ぜになったかのようなさざめきがしばらく続いた。
「……啓司っ」
音が鳴り止んだ瞬間、私の口から自然と青年の名が漏れて、俊敏に立ち上がった身体は彼へ向かう。
「千鶴さん」
啓司さんへ手が届くすんでのところで、誠さんに遮られた。
「千鶴さん、あなたは御影千鶴さんです。井上万智子さんではありませんよ」
珍しく怖い顔をした誠さんが私を叱咤すると、さめざめと泣く女性が私の中で、ひどく冷静になっていくのを感じた。
「ちづる……」
私の口から自分の名が漏れて、ハッと口を押さえる。
心なしか、声のトーンが違う気がした。気味が悪いだろうと、誠さんを見れば、彼は困り顔で眉を下げている。
私の体質を理解してはくれている。しかし、慣れてしまう、そんなことがあるはずはなく。
「千鶴さん、彼が話をしたいと言っています。こちらに座ってください」
誠さんに手を引かれてローテーブルの前に座る。部屋へ上がってきた青年、諏訪啓司さんは、私と目を合わせるとぺこりと頭を下げた。
「昨日はロビーで失礼しました」
啓司さんのあいさつは謝罪から始まった。
彼にぶつかったことで、私は井上万智子という、彼の亡くなった恋人に取り憑かれてしまっている。
誠さんに聞かされてその事実は理解していたが、彼の謝罪がどちらに向けられたものかはわからなかった。
啓司さんは私の中にかつての恋人がいることを知っているのだろうか。
しかしその疑問はすぐに果てる。誠さんがその答えを話してくれた。
「諏訪さんは万智子さんに会いにここへ来たそうです。少しだけ、話をしてくれますか?」
頼りなく誠さんを見上げたが、彼が力強くうなずいてくれるから、私は居住まいを正して、啓司さんと向き合った。
「えっと……、ほんとうに、本当に君は万智子……?」
啓司さんはそっと語りかけるように尋ねる。優しい話し方をする。この状況を受け入れる寛容さもある、包容力のある青年だろう。
なんと答えていいのか黙っていると、私の内側から溢れる思いが口をついて出る。
「そうよ、万智子よ」
啓司さんはハッとする。私の声ではない女性の声が、万智子さんのものと符合したからか。
「万智子……なんだ、本当に万智子なんだ」
正座をする啓司さんは、ひざの上でこぶしを握りしめ、感極まる様子を見せる。
「会いたかった?」
「もちろんだよ。ずっと、ずっとだ。万智子にどうしても伝えたいことがあったから。ずっと、会いたいと思ってた」
「私もよ。啓司とあんな風に別れて終わるなんて思ってなかったもの」
あんな風とはどんな風だろう、と思ったことが伝わったのか、万智子さんがくすりと笑えば、私の唇が奇妙に歪む。
「引き止めたらよかった。そう思う」
「どうして引き止めてくれなかったの?」
何度も何度も口にした言葉を、万智子さんはふたたび口にする。
「信じてなかったからだ。御影さんにそう言われて、いまさら気付いたんだ」
「遊びだって思ってた?」
「そうだよ。万智子が俺に本気だなんて思ってたやつはひとりもいないよ。今も昔もひとりもいない」
「啓司は本気で考えてくれてたのにね」
ちょっと悲しそうなため息が私の口から漏れる。
「ああ、そうだよ。本気だった。もうずっと前から、いつプロポーズしようかって考えてた。大学卒業したらすぐにでもって悩んでた」
「私のこと、すごく好きじゃない」
くすくす笑う万智子さんが悲しそうだ。私の目から涙がこぼれる。
「すごく好きだったよ。万智子以外は考えられない。あのときはそう思ってた」
「過去形なのね」
万智子さんの笑いはおさまらない。
「ああ、過去だよ。俺にはもう、別に好きな人ができたんだ。万智子を忘れさせてくれたとか、そんなんじゃない。素直に好きだって思える、そんな人だ」
まっすぐに私を見つめる啓司さんは、残酷なぐらい純粋だった。
胸が苦しく、痛くなる。
それでもどこか、清々しい気持ちでいることが不思議だった。
「それを言いに、ここへ来たの?」
「そう。なんとなく、ここへ来たら会えるような気がしたんだ。それに理由はないよ。もしかしたらこれも運命かもしれないね」
「私を弔いに来たの。あなたらしい」
万智子さんの胸が温かくなったのを、身体を通じて感じる。
「ああそうだ。結婚の報告とかじゃない。幸せだから心配するななんて言いに来たわけじゃない。万智子がここで苦しんでるなら、もう苦しまなくていいって、それだけを言いに来たんだ」
「結婚するのね。それもあなたらしい。律儀なところ、好きだったわ」
「過去形にしてくれるんだ」
啓司さんは心なしか楽しそうに笑う。けれどその笑みに誘われるのは悲しみや怒りではなくて、私もなぜだか愉快な気持ちになる。
万智子さんと啓司さんの空気はいつもこんな風だったのだろう。
彼女が本気の感情を見せる前に、ふんわりと彼がごまかしてしまう、そんな。
「幸せにね、なんて言わないわ。啓司の未来に興味はないの」
「俺も。万智子が生まれ変わっても会いたいとか言わない」
「束縛、嫌いだもの」
「ああ」
短くうなずいた啓司さんがひどく真面目な顔をする。
「万智子に出会わせてくれた御影さんからはやく離れたらいいよ。いま、万智子が言ったんだ。束縛は嫌いだって」
「ええ、そう。ちょっとだけ、窮屈ねって思ってたの」
啓司さんが優しく微笑む。それが合図だったように、私の中からぬるりとしたものが離れていく感覚が現れる。
バランスを崩すように身体が左右に揺れる。その背を誠さんが受け止める。
啓司さんは背筋を伸ばした。
「これで終われます、御影さん。ありがとうございました」
啓司さんは深々と誠さんへ向かって頭を下げる。そのこぶしは震え、畳の上にぽたぽたと涙がこぼれたが、本当に終わったんだ、という思いが私の中を巡っていった。
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