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第一話 甘い夫婦生活とはなりません

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 天目川の下流をさらに下ると、観光地然とした店舗の並ぶ小道へと出る。
 昔は繁盛したのだろうが、今は店主の衰えと同じくするように古びた店構えが続く。

 開店休業状態の店舗の前を通りがかった時、白髪の老女がひょいっと店先に現れた。
 そして、老女は私たちを交互にゆっくり眺め見ると、「ほう」と息をつく。

「御影のぼんと新妻の千鶴ちゃんかい」

 老女は曲がった腰の後ろで両手を組み合わせ、春樹さんの前へ進み出る。そして、じっと彼を見上げる。

「千鶴ちゃんが結婚したのは、誠じゃなかったかねぇ?」
「俺のこと覚えてるんだ、ばあちゃん」

 老女から見ると孫ほどの年齢の春樹さんは、少年のようにはしゃぐ。

 小さな頃からの知り合いなのだろう。三年ぶりに戻ってきた我が家でも、春樹さんはすんなりと周囲に受け入れられている。

「春樹はやんちゃだったからねぇ。千鶴ちゃんのような美女には合わん」
「そんなこと言うなよー。こう見えても俺たち同い年なんだぜ。兄貴といるより楽しく過ごしてるよ」

 老女は少しばかり細い目を見開く。

「ほー。千鶴ちゃんは春樹と結婚したんじゃったか。それなら納得するねぇ」
「やっぱり? 納得してもらえて嬉しいよ」

 春樹さんはさっきからにやにやしている。
 人をからかうことが好きなのだろう。
 そんな彼の性格も見抜いているのか、気にとめる様子もなく老女はぼそっとこぼす。

「誠と一緒におった女は年上に見えたがねぇ。あれはあれで年相応なんじゃろ」
「兄貴、彼女がいるんだな」

 春樹さんはさして驚いた様子も見せず、平然と答える。

「べっぴんな女子おなごだったよ。ああ、今日は水曜日か。今夜もデートかねぇ」

 老女は首をぐるりと回すと、肩が凝ってしょうがないねぇ、とぼやきながら店内へと戻っていった。

 老女の背中が見えなくなると、春樹さんは途端に神妙な顔をする。

 私だってそうだ。
 心臓がバクバクと音を立て、ヒヤリと背筋が凍るような感覚に襲われた。
 誠さんが浮気してるなんて、ほとんど信じてなかった。

 知らず知らずのうちに春樹さんの腕をつかむ。
 そんなことあるはずないって思いが満ちることで形成されてきた全身は、ピースが一つ抜け落ちて崩れていくように力が入らない。

「兄貴、クロかよ」
「……でもまだそうと決まったわけじゃ」
「少なくともばあちゃんが、俺と千鶴ちゃんが夫婦だって納得するぐらいには、兄貴とその女がお似合いだったってことだろ?」

 往生際の悪い私をぴしゃりとたしなめる。

 そもそも、私の夫が誰だったか忘れてしまうような老女の話だ。信用するに足る話ではないかもしれない。
 そう、どこか希望を見出そうとしていると、いきなり私の腕をつかんだ春樹さんが走り出す。

 立ち並ぶ店を過ぎると、駅が見えてくる。その向かいには神社がある。
 突然のことに抵抗する間もなく、引きずられながら飛び込んだのは、神社の鳥居。
 太い柱の影に身をひそめる春樹さんに気圧されて、わけもわからず私も彼に寄り添い息をひそめる。

「兄貴だ……」

 かすれるような小声で言った春樹さんと柱の奥には、スーツを着て駅の改札口へ入っていく誠さんの姿があった。




 天目神社前駅を出発した二両編成の電車は、一時間ほどで住吉すみよし駅に到着した。
 すみやかに下車する誠さんについて、私と春樹さんは静かにあとを追う。

 あたりを見回すこともなく、勝手知ったる駅とばかりに、誠さんはたくさんの出入口があるコンコースを迷いなく進んでいく。
 3番出口のある通路を歩く彼についていく。

 住吉駅のある町は、かつて両親と暮らしていた自宅のあった隣町である。
 駅を出ると、繁華街と言える街並みが広がる。
 おしゃれなカフェレストラン、若者に人気のブランドを扱う百貨店に、大型ショッピングセンター。
 高校生の頃、母親と時折ショッピングに来たことはあるが、ほとんど踏み込んだことのない土地。

 それでもさっきから胸が張り裂けそうなほどバクバクと音を立てるのは、この土地を私が嫌うからだ。
 無意識にさけてきたのかもしれない。
 私と両親を引き裂いたこの土地を。

 三年前、両親は住吉駅前で車に轢かれて死んだ。
 なぜあの日、両親は一緒にいたのか。
 私が眠った後、母親は自宅を出て、なぜ住吉駅へ行ったのか。

 そして___、私は空を仰ぐ。
 両親が死んだ日も、水曜日だった。
 そのことを今、私は思い出していた。
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