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第一話 甘い夫婦生活とはなりません
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千鶴さんが弟の春樹に心を寄せるかもしれない。そんな不安が俺に言わせた言葉は、春樹の前で言うことではなかった。
目を伏せた千鶴さんの心の中は決して春樹の前で語られることはなく、俺に罪悪感を植え付けただけだった。
ふたりきりの時に話すべきだった。
19歳で黒猫のミカンと小さなキャリーバッグだけを持って、御影探偵事務所に住み込みで働く決意をした千鶴さんは、恋愛を楽しんでもいい年頃なのに、その機会に恵まれないまま俺に嫁いだ。
手順を間違えたのだとしても、この結婚生活を終わらせることはできない。しかし、春樹と出かけたいという千鶴さんを引き止めることも出来なかった。
廊下を曲がり、中庭にある縁側に腰を下ろす千鶴さんを見つけた。
可愛らしい桃色の着物に、俺が贈ったかんざしをつけている。愛らしい横顔に、年甲斐もなく胸が熱くなる。
もうすぐ出かける。
そのひとことを言いたくて近づこうとした時、中庭にある池の鯉にエサを与える春樹に気づいた。
「兄貴が千鶴ちゃんを好きだって言ったの、すごく驚いてたね」
春樹はまるでからかうような笑顔で、千鶴さんにそう言う。
「あ……、そんな風に想ってくださってるなんて思わなくて」
「結婚してるのにね。なんで結婚したの?」
「なんで……?」
千鶴さんは小首を傾げる。
俺が結婚したいと言ったからだ。
その答えは出ているのに、千鶴さんは思案顔で春樹を見上げる。
「春樹さんにお話するようなことは何も」
そう、遠慮がちに答える。
「ふーん。……まあ、いいか。そろそろ出かけよう、千鶴ちゃん。でもその格好じゃ目立つね」
「そうですね、着替えてきます。春樹さんは玄関で待っていてください」
千鶴さんはにこやかに微笑むと、縁側に立つ俺に気づかないまま、背を向けて廊下の奥へと消えていった。
「もうお出かけですか? 千鶴さん」
事務所に戻った俺は、部屋の入り口に現れた千鶴さんに何食わぬ顔で声をかけた。
「はい。……あの、変じゃないですか? こんな格好するの久しぶりで」
千鶴さんは恥ずかしそうに胸に手を当てる。
可愛らしいベージュのフリルワンピースは、上品な千鶴さんによく似合う。
年齢より若く見える千鶴さんと、年齢より老けてみえる俺が夫婦に見えるのは着物を着ている時だけだ。
そんな風に思ってしまうほど、千鶴さんは可愛らしい少女のようだ。
「ええ、洋服の千鶴さんも好きですよ」
「あ、ありがとうございます」
やんわりと答えると、千鶴さんは赤くなる。
「では出かけてきます」
そそくさと逃げるように背を向けるから、「千鶴さん」とすぐに呼び止めた。
「……なんでしょう?」
腰を上げた俺は千鶴さんの側まで進み出て、白く細い手首をそっとつかむ。
「あまり遅くならないようにしてください。あなたのご両親にお会いしたことはありませんが、大切なお嬢様だということはわかります。そんなあなたをより大切にするのは俺の役目です。夫婦である、ということを忘れないように」
「誠さん……」
何かを訴えるような目をする千鶴さんは唇を震わせたが、結局思いを口にすることなく、うつむく。
「俺だって結婚したことを後悔したくないんです」
千鶴さんの幸せを、結婚によって奪ったなんて思いたくもない。
幸せにしたくて、俺も幸せになりたくて結婚したのだ。
うつむいたまま何も言わない千鶴さんを抱きしめた。こんな風に触れたのは初めてだと思うぐらい、強く……強く抱きしめる。
細い身体には力が入っている。
抱きしめ返してくれるだろうという期待は虚しいだけのものだった。
俺の腕の中では安心できないというのか。悔しく思いながら、千鶴さんを解放した。
腕の中にあったぬくもりが、庭から吹き込む風によって急激に冷えていくようだ。
言葉もなく、ただ俺たちはそこにしばらくたたずむ。
そして彼女は何も言わず、まるで逃げるように立ち去った。
千鶴さんが弟の春樹に心を寄せるかもしれない。そんな不安が俺に言わせた言葉は、春樹の前で言うことではなかった。
目を伏せた千鶴さんの心の中は決して春樹の前で語られることはなく、俺に罪悪感を植え付けただけだった。
ふたりきりの時に話すべきだった。
19歳で黒猫のミカンと小さなキャリーバッグだけを持って、御影探偵事務所に住み込みで働く決意をした千鶴さんは、恋愛を楽しんでもいい年頃なのに、その機会に恵まれないまま俺に嫁いだ。
手順を間違えたのだとしても、この結婚生活を終わらせることはできない。しかし、春樹と出かけたいという千鶴さんを引き止めることも出来なかった。
廊下を曲がり、中庭にある縁側に腰を下ろす千鶴さんを見つけた。
可愛らしい桃色の着物に、俺が贈ったかんざしをつけている。愛らしい横顔に、年甲斐もなく胸が熱くなる。
もうすぐ出かける。
そのひとことを言いたくて近づこうとした時、中庭にある池の鯉にエサを与える春樹に気づいた。
「兄貴が千鶴ちゃんを好きだって言ったの、すごく驚いてたね」
春樹はまるでからかうような笑顔で、千鶴さんにそう言う。
「あ……、そんな風に想ってくださってるなんて思わなくて」
「結婚してるのにね。なんで結婚したの?」
「なんで……?」
千鶴さんは小首を傾げる。
俺が結婚したいと言ったからだ。
その答えは出ているのに、千鶴さんは思案顔で春樹を見上げる。
「春樹さんにお話するようなことは何も」
そう、遠慮がちに答える。
「ふーん。……まあ、いいか。そろそろ出かけよう、千鶴ちゃん。でもその格好じゃ目立つね」
「そうですね、着替えてきます。春樹さんは玄関で待っていてください」
千鶴さんはにこやかに微笑むと、縁側に立つ俺に気づかないまま、背を向けて廊下の奥へと消えていった。
「もうお出かけですか? 千鶴さん」
事務所に戻った俺は、部屋の入り口に現れた千鶴さんに何食わぬ顔で声をかけた。
「はい。……あの、変じゃないですか? こんな格好するの久しぶりで」
千鶴さんは恥ずかしそうに胸に手を当てる。
可愛らしいベージュのフリルワンピースは、上品な千鶴さんによく似合う。
年齢より若く見える千鶴さんと、年齢より老けてみえる俺が夫婦に見えるのは着物を着ている時だけだ。
そんな風に思ってしまうほど、千鶴さんは可愛らしい少女のようだ。
「ええ、洋服の千鶴さんも好きですよ」
「あ、ありがとうございます」
やんわりと答えると、千鶴さんは赤くなる。
「では出かけてきます」
そそくさと逃げるように背を向けるから、「千鶴さん」とすぐに呼び止めた。
「……なんでしょう?」
腰を上げた俺は千鶴さんの側まで進み出て、白く細い手首をそっとつかむ。
「あまり遅くならないようにしてください。あなたのご両親にお会いしたことはありませんが、大切なお嬢様だということはわかります。そんなあなたをより大切にするのは俺の役目です。夫婦である、ということを忘れないように」
「誠さん……」
何かを訴えるような目をする千鶴さんは唇を震わせたが、結局思いを口にすることなく、うつむく。
「俺だって結婚したことを後悔したくないんです」
千鶴さんの幸せを、結婚によって奪ったなんて思いたくもない。
幸せにしたくて、俺も幸せになりたくて結婚したのだ。
うつむいたまま何も言わない千鶴さんを抱きしめた。こんな風に触れたのは初めてだと思うぐらい、強く……強く抱きしめる。
細い身体には力が入っている。
抱きしめ返してくれるだろうという期待は虚しいだけのものだった。
俺の腕の中では安心できないというのか。悔しく思いながら、千鶴さんを解放した。
腕の中にあったぬくもりが、庭から吹き込む風によって急激に冷えていくようだ。
言葉もなく、ただ俺たちはそこにしばらくたたずむ。
そして彼女は何も言わず、まるで逃げるように立ち去った。
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