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第一話 甘い夫婦生活とはなりません
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御影家の中庭は夜になると賑やかになる。
縁側に腰を下ろし、無数の光の玉がふわりと浮かんでは、ひゅっひゅっと流れていくさまを眺める。
白い光の玉の正体はオーブなのだそう。誠さんに教えてもらって知った。浄化された霊魂が目に見える形で現れるこの土地は、高いエネルギーに守られている証拠だと。
初めてこの光景を見た時はホタルかと思ったものだ。
澄んだ天目川が近くに流れるから、美しい中庭に誘われて飛んでくるのだと。
オーブを見て綺麗だと答えた私に誠さんは心底驚いて、でも嬉しそうに微笑んだ。そして言った。怖くないんですね、と。
縁側の奥にふと気配を感じて、左手を見上げる。
「怖くないんだ?」
短い髪を真っ白なタオルで乾かしながら、パジャマ姿で現れたのは春樹さんだった。
「そんながっかりしなくても。兄貴だと思った?」
春樹さんは苦笑いしながら、パジャマのポケットに忍ばせていたビールの缶を取り出す。
誠さんが好んで飲む銘柄のビールだ。知らない間に冷蔵庫から持ち出したのだろう。ちゃっかりしている。
「誠さんが遅くなるのはわかっていますから。がっかりしたんじゃなくて、驚いたんです」
「なんで?」
プルタブを押し上げた指先でプシュッと音を立てる缶を口元に運びながら、春樹さんは軽い調子で問う。
「誠さんと同じことを言うから」
「兄貴と? ……まあでも、普通は怖がるだろ。俺たちは子どもの頃からこの光景を見てるから慣れっこだけどさ」
「綺麗だなって思うだけです」
「そっか。だからかな、兄貴が千鶴ちゃんを選んだのは」
誠さんが私を選んだ理由。不意に問われても困る。
「そういう話はしたことがないので……」
ふうん、と春樹さんは言って、一気にビールを飲み干すと、うつむく私の顔をひょいっとのぞき込む。
「なんかさ、兄貴とうまく行ってないように見えるね」
「……そんなことはないです」
「少なくとも、兄貴に愛されてる確信がなさそうだ」
否定したのに図星を指されて、言葉をなくす。
それでも春樹さんは私の心をえぐるのをやめない。
「俺が兄貴だったら、ライバルになるかもしれない弟と奥さんを二人きりになんかしないけどな」
ちらりと、春樹さんは私を横目で見る。
「千鶴ちゃんに愛情がないのか、よっぽど俺を信用してるかのどちらかだな」
「後者だと思います」
「俺は前者だったら嬉しいけど?」
困惑する私を見て楽しむように、春樹さんは目を細める。
「探偵業なんて浮気し放題だろ」
「誠さんがそんな……っ」
「そういう従順なところにつけ込まれてたりして」
春樹さんの言葉を否定しても、心のどこかでは納得していて、ますます戸惑う。
すると、春樹さんは急に声を立てて笑った。
「冗談だよ。兄貴が浮気なんてするわけない」
「私もそう、……信じてます」
「信じてる、か。でもさ、気にはなるよな。毎週水曜日だけ出かけるなんてさ。水曜日だけ浮気するやつらが仮にいたとしても、水曜日だけ調査するもんかな」
「そんなに深く考えたことはなくて」
首をかしげると、春樹さんは屈託なく笑う。
「考えた方がいいよ。兄貴、モテるだろうし。千鶴ちゃんは仕事、全く手伝ってないの?」
「あ、いえ、最近は帳簿関係を」
働き始めた頃はおおむね家事などの雑用で、誠さんの仕事に関わることはほとんどなかった。若すぎる私に任せる仕事がないのが実情だったのだろう。
「尾行とか、したことないんだ?」
「そういうのはまったく」
「俺も。でもまあ、なんとかなるだろ」
春樹さんはひとりうなずく。
「なんとかなるってなんですか?」
少しだけ身を乗り出して問うと、彼もまた私の方へ顔を突き出して、楽しげに小さな声でささやいた。
「兄貴の浮気調査だよ。ちょっと調べてみようぜ、俺たちふたりで」
「え、ちょっと待ってくださいっ」
決まり、とばかりに春樹さんが立ち去ろうとするからあわてて引き止める。
「知りたいんだろ? 千鶴ちゃんだって、兄貴が何してるのか」
いちいち春樹さんは私の気持ちを代弁する。
私と誠さんが縮められない距離を一気に引き寄せようとするから戸惑いもする。
「それは……、そうですけど。でもまだ誠さんが浮気調査をしてるとは決まってないですし、第一、浮気を疑うなんてことしたくありません」
変に春樹さんがあおるから不安にはなるけれど、やっぱり誠さんのことは信じていて。
「じゃあ今から調査記録でも見てみようぜ」
一方的で強引な人だ。話を聞いてくれない春樹さんは、事務所へ向かってずんずんと廊下を進んでいく。
仕方なく私も後を追うが、「わっ、うわっ!」と、一足先に事務所のドアを開いた春樹さんの驚く声が聞こえ、何事かと遅れて駆けつける。
「ミカン!」
いつの間に事務所に入り込んでいたのだろう。いや、もしかしたら事務所から出られなくて困っていたのかもしれない。
事務所から飛び出してきたミカンが、春樹さんの足の間を抜けて、私の胸に飛び込んでくる。
さみしかったのだろうか、ミカンは首の方まで体を伸ばして必死にしがみついてくる。
「黒猫? なんだよ、びっくりさせんなよー」
春樹さんは肩で大きく息をつくと、ミカンの頭を優しい手つきでくしゃくしゃに撫でる。すると次第にミカンも落ち着いていく。
警戒心の強いミカンが簡単に気を許すなんて、御影家の住人には不思議な能力でもあるのだろうか。
「千鶴ちゃんの猫?」
春樹さんがそう尋ねる。
「はい。ミカンって言います」
「ミカンかー、可愛いなぁ。飼い猫はいろいろと飼い主に似るね」
春樹さんは満足そうにうなずいて、興味津々な様子のミカンに顔を寄せる。彼女もまんざらでもなさそうに、彼のこめかみにまるでキスするように鼻をつける。
「まじで、可愛い」
口ぐせなのだろうか、と思うほど、可愛い可愛いと連呼して、春樹さんはふと私と目を合わせる。
「千鶴ちゃんが一番可愛いけどね」
そう言って、彼はにかっと笑う。
「……」
不意打ちに驚いて目を丸くする。
「言われ慣れてないの? 兄貴も罪だよなー」
春樹さんは陽気に笑って、さて、と辺りを見回す。
「最近の書類はどの辺かな」
「勝手に触ったら叱られます」
「大丈夫大丈夫、俺がひとりでやったことだから。あっ、これか」
書棚をぐるりと眺め回した彼は、いつも誠さんが座るローテーブルの前へ腰を下ろすと、テーブルの横にある棚から太いファイルを引き出す。
おもむろに開いたファイルの中には、先日誠さんが調査していた事案の書類が入っていた。
浮気調査の依頼者まで浮気していたというものだ。しかし、依頼は解決したのだろう。済、という赤いスタンプが押されている。
「最新の依頼はこのダブル不倫だな。兄貴もこんなこと調べながらよく浮気する気になるよ」
「ですから、誠さんが浮気してるなんて……」
「冗談。冗談だよー。千鶴ちゃんは真面目だね」
またからかわれたのだ。
春樹さんは愉快げに肩を揺らして笑いながらあっちこっちをひっくり返していくが、決め手となる書類は見つけられないようだった。
「こうなったら来週の水曜、兄貴を尾行するしかないな。っていうわけだから、しばらく世話になるよ、千鶴ちゃん」
「しばらくって、お仕事は?」
「バイトならここから通えるしさ。あ、そうだ。いっそのこと、ここに住もうかな。毎日千鶴ちゃんと一緒にいられるしね」
春樹さんは名案だとばかりにポンっと手を打つと、「な、ミカンもいいよな?」と、私の腕の中で眠たげにする黒猫に同意を求めた。
御影家の中庭は夜になると賑やかになる。
縁側に腰を下ろし、無数の光の玉がふわりと浮かんでは、ひゅっひゅっと流れていくさまを眺める。
白い光の玉の正体はオーブなのだそう。誠さんに教えてもらって知った。浄化された霊魂が目に見える形で現れるこの土地は、高いエネルギーに守られている証拠だと。
初めてこの光景を見た時はホタルかと思ったものだ。
澄んだ天目川が近くに流れるから、美しい中庭に誘われて飛んでくるのだと。
オーブを見て綺麗だと答えた私に誠さんは心底驚いて、でも嬉しそうに微笑んだ。そして言った。怖くないんですね、と。
縁側の奥にふと気配を感じて、左手を見上げる。
「怖くないんだ?」
短い髪を真っ白なタオルで乾かしながら、パジャマ姿で現れたのは春樹さんだった。
「そんながっかりしなくても。兄貴だと思った?」
春樹さんは苦笑いしながら、パジャマのポケットに忍ばせていたビールの缶を取り出す。
誠さんが好んで飲む銘柄のビールだ。知らない間に冷蔵庫から持ち出したのだろう。ちゃっかりしている。
「誠さんが遅くなるのはわかっていますから。がっかりしたんじゃなくて、驚いたんです」
「なんで?」
プルタブを押し上げた指先でプシュッと音を立てる缶を口元に運びながら、春樹さんは軽い調子で問う。
「誠さんと同じことを言うから」
「兄貴と? ……まあでも、普通は怖がるだろ。俺たちは子どもの頃からこの光景を見てるから慣れっこだけどさ」
「綺麗だなって思うだけです」
「そっか。だからかな、兄貴が千鶴ちゃんを選んだのは」
誠さんが私を選んだ理由。不意に問われても困る。
「そういう話はしたことがないので……」
ふうん、と春樹さんは言って、一気にビールを飲み干すと、うつむく私の顔をひょいっとのぞき込む。
「なんかさ、兄貴とうまく行ってないように見えるね」
「……そんなことはないです」
「少なくとも、兄貴に愛されてる確信がなさそうだ」
否定したのに図星を指されて、言葉をなくす。
それでも春樹さんは私の心をえぐるのをやめない。
「俺が兄貴だったら、ライバルになるかもしれない弟と奥さんを二人きりになんかしないけどな」
ちらりと、春樹さんは私を横目で見る。
「千鶴ちゃんに愛情がないのか、よっぽど俺を信用してるかのどちらかだな」
「後者だと思います」
「俺は前者だったら嬉しいけど?」
困惑する私を見て楽しむように、春樹さんは目を細める。
「探偵業なんて浮気し放題だろ」
「誠さんがそんな……っ」
「そういう従順なところにつけ込まれてたりして」
春樹さんの言葉を否定しても、心のどこかでは納得していて、ますます戸惑う。
すると、春樹さんは急に声を立てて笑った。
「冗談だよ。兄貴が浮気なんてするわけない」
「私もそう、……信じてます」
「信じてる、か。でもさ、気にはなるよな。毎週水曜日だけ出かけるなんてさ。水曜日だけ浮気するやつらが仮にいたとしても、水曜日だけ調査するもんかな」
「そんなに深く考えたことはなくて」
首をかしげると、春樹さんは屈託なく笑う。
「考えた方がいいよ。兄貴、モテるだろうし。千鶴ちゃんは仕事、全く手伝ってないの?」
「あ、いえ、最近は帳簿関係を」
働き始めた頃はおおむね家事などの雑用で、誠さんの仕事に関わることはほとんどなかった。若すぎる私に任せる仕事がないのが実情だったのだろう。
「尾行とか、したことないんだ?」
「そういうのはまったく」
「俺も。でもまあ、なんとかなるだろ」
春樹さんはひとりうなずく。
「なんとかなるってなんですか?」
少しだけ身を乗り出して問うと、彼もまた私の方へ顔を突き出して、楽しげに小さな声でささやいた。
「兄貴の浮気調査だよ。ちょっと調べてみようぜ、俺たちふたりで」
「え、ちょっと待ってくださいっ」
決まり、とばかりに春樹さんが立ち去ろうとするからあわてて引き止める。
「知りたいんだろ? 千鶴ちゃんだって、兄貴が何してるのか」
いちいち春樹さんは私の気持ちを代弁する。
私と誠さんが縮められない距離を一気に引き寄せようとするから戸惑いもする。
「それは……、そうですけど。でもまだ誠さんが浮気調査をしてるとは決まってないですし、第一、浮気を疑うなんてことしたくありません」
変に春樹さんがあおるから不安にはなるけれど、やっぱり誠さんのことは信じていて。
「じゃあ今から調査記録でも見てみようぜ」
一方的で強引な人だ。話を聞いてくれない春樹さんは、事務所へ向かってずんずんと廊下を進んでいく。
仕方なく私も後を追うが、「わっ、うわっ!」と、一足先に事務所のドアを開いた春樹さんの驚く声が聞こえ、何事かと遅れて駆けつける。
「ミカン!」
いつの間に事務所に入り込んでいたのだろう。いや、もしかしたら事務所から出られなくて困っていたのかもしれない。
事務所から飛び出してきたミカンが、春樹さんの足の間を抜けて、私の胸に飛び込んでくる。
さみしかったのだろうか、ミカンは首の方まで体を伸ばして必死にしがみついてくる。
「黒猫? なんだよ、びっくりさせんなよー」
春樹さんは肩で大きく息をつくと、ミカンの頭を優しい手つきでくしゃくしゃに撫でる。すると次第にミカンも落ち着いていく。
警戒心の強いミカンが簡単に気を許すなんて、御影家の住人には不思議な能力でもあるのだろうか。
「千鶴ちゃんの猫?」
春樹さんがそう尋ねる。
「はい。ミカンって言います」
「ミカンかー、可愛いなぁ。飼い猫はいろいろと飼い主に似るね」
春樹さんは満足そうにうなずいて、興味津々な様子のミカンに顔を寄せる。彼女もまんざらでもなさそうに、彼のこめかみにまるでキスするように鼻をつける。
「まじで、可愛い」
口ぐせなのだろうか、と思うほど、可愛い可愛いと連呼して、春樹さんはふと私と目を合わせる。
「千鶴ちゃんが一番可愛いけどね」
そう言って、彼はにかっと笑う。
「……」
不意打ちに驚いて目を丸くする。
「言われ慣れてないの? 兄貴も罪だよなー」
春樹さんは陽気に笑って、さて、と辺りを見回す。
「最近の書類はどの辺かな」
「勝手に触ったら叱られます」
「大丈夫大丈夫、俺がひとりでやったことだから。あっ、これか」
書棚をぐるりと眺め回した彼は、いつも誠さんが座るローテーブルの前へ腰を下ろすと、テーブルの横にある棚から太いファイルを引き出す。
おもむろに開いたファイルの中には、先日誠さんが調査していた事案の書類が入っていた。
浮気調査の依頼者まで浮気していたというものだ。しかし、依頼は解決したのだろう。済、という赤いスタンプが押されている。
「最新の依頼はこのダブル不倫だな。兄貴もこんなこと調べながらよく浮気する気になるよ」
「ですから、誠さんが浮気してるなんて……」
「冗談。冗談だよー。千鶴ちゃんは真面目だね」
またからかわれたのだ。
春樹さんは愉快げに肩を揺らして笑いながらあっちこっちをひっくり返していくが、決め手となる書類は見つけられないようだった。
「こうなったら来週の水曜、兄貴を尾行するしかないな。っていうわけだから、しばらく世話になるよ、千鶴ちゃん」
「しばらくって、お仕事は?」
「バイトならここから通えるしさ。あ、そうだ。いっそのこと、ここに住もうかな。毎日千鶴ちゃんと一緒にいられるしね」
春樹さんは名案だとばかりにポンっと手を打つと、「な、ミカンもいいよな?」と、私の腕の中で眠たげにする黒猫に同意を求めた。
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