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第一話 甘い夫婦生活とはなりません

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「結婚しましょう」

 プロポーズの言葉はとてもシンプルだった。

 私たちの関係を思えばとても不自然なプロポーズだったのに、まことさんが給料袋を差し出しながら穏やかに言うものだから、「今月はよく頑張りましたね。ほんの少し色をつけておきました」と報告されたみたいに、すんなりと私の心に届いた。

「あ、はい」

 とっさにうなずきながらも、「なぜ私なんですか?」と、ごくごく当たり前の質問を投げかけた。

「あなた以外に考えられないからです」

 誠さんがまばたき一つしないでさらりと言うから、自然な流れの中のプロポーズなのだと受け取った。

「わかりました。お受けします」

 そう答えた瞬間、誠さんが少々眉をあげた。プロポーズしておいて驚くなんて、と可笑しかったのを覚えている。

千鶴ちづるさん、なぜ受けてくれたのですか?」

 今度は誠さんがそう尋ねた。

「あなたが結婚したいと言ってくれたからです」

 そう微笑んで、給料袋をそっと受け取った。まるでプロポーズを受け取りました、というように。

 御影みかげ探偵事務所で働き始めて2年。
 予期せぬプロポーズを受けた私は、一か月後には誠さんの妻となり、御影千鶴になった。





 黒石くろいし城下のふもとを流れる天目てんもく川の下流に、御影探偵事務所はある。
 日本庭園のある和風家屋の自宅兼事務所は、人里離れた河原沿いに建ち、今日も穏やかな清流のせせらぎに包まれている。

 新緑の隙間に光る水面を横目に、コーヒーを淹れたマグカップと自家製クッキーをトレイに乗せて、縁側を進む。
 探偵事務所の所長である御影誠は、住居の一角を事務所に改築した和室で一日のほとんどを過ごす。

「誠さん、休憩になさいますか?」

 和室をひょっこりと覗き、声をかける。誠さんは熱心に書類を読んでいるところだった。
 返事をしない誠さんに歩み寄り、ローテーブルの前であぐらをかく彼の前にひざをつく。
 トレイを置き、温かいコーヒーを差し出すと、彼はようやく目をあげる。

「ありがとう、千鶴さん」
「何か難しい事件ですか? 朝から根を詰めていらっしゃるから」

 写真が貼られた書類を覗く。いくつかの写真には、さまざまな組み合わせで、男女ふたりずつ、合計4人の姿が写っている。そのうちの1人は、ひと月ほど前に来所した女性のようだ。

「いえ、浮気調査です。依頼者も浮気していることがわかりましてね。少々あきれていたところです」
「誠さんも気苦労が絶えないですね。お疲れでしょう。クッキーも焼いたので召し上がってください」

 手びねりのお皿に乗せたクッキーを、マグカップの前に並べる。

「千鶴さんには癒されます」

 誠さんのほおがほころぶ。

 優しくてふんわりとした笑顔に癒されてしまうのは私の方。
 7歳年上の彼が、まだ21歳になったばかりの小娘との結婚を決断したことがいまだに信じられない。
 住み込みで探偵事務所で働いていた私の生活は、結婚前と後で何も変わらない。それでも、素敵な誠さんの妻になれたことは素直に嬉しいと思っている。

「素朴な味がしますね」

 誠さんはクッキーをひとかじりして、目を細める。

「誠さんはあまり甘いものがお好きではないから、お砂糖は少なめです」
「ちょうどいいです。コーヒーも豆を変えましたか」

 マグカップを鼻先に寄せて、香りを堪能する誠さんは無類のコーヒー好き。

「ええ。問屋さんが誠さんの好きなお味の豆だろうってオススメしてくださったので」
「そう言って高い豆を用意するのだろう。商売上手な店主だ。話半分にほどほどに」
「はい。誠さんに叱られますと、時折お断りはしています」
「そう。千鶴さんはしっかりしている」

 たわいのない会話を楽しむ。
 妻になった今も、従業員だった頃と変わりなく私に接する誠さんの心中は計り知れない。しかし、何気ない会話を楽しめる関係に幸せを感じている。

 静かな庭園から吹き込む風が温かで穏やか。
 普段から誠さんは着物で過ごす。着慣れたそのさまは文豪のようで、彼が探偵であることを忘れてしまいそうになる。

 結婚する時に私も着物を贈られて、最近ようやく一人で着られるようになった。長い髪もアップにすることが多くなり、何気に誠さんの視線がうなじに流れると気恥ずかしく思う。

 いつ依頼者が訪れるともわからない探偵事務所であることを忘れる、のどかな時間。
 何も語らなくても分かり合えているような錯覚を起こす時間はわりと好き。
 仕事の依頼者がいない時は常に二人きりで___、と視界の片隅に黒いものが横切る。

「ミカン、お仕事の邪魔をしたら駄目よ」

 誠さんのひざの上に飛び乗るのは、高校三年生の時に拾った黒猫のミカン。メス猫だ。私にずっと懐いていたのに、なぜか仕事中は誠さんにべったり。

 誠さんはそっと笑って、丸くなるミカンの背をなでる。私を抱きしめたりもしないその大きな手に触れられるミカンがほんの少しだけ羨ましい。

 ミカンは長いしっぽの先をゆるりと揺らしながら、うとうととまぶたを閉じる。
 しかし、次の瞬間には俊敏に飛び起き、事務所の入り口を見つめると私の前へ移動する。
 ミカンがそうする時は必ず緊張する。誠さんもひどく警戒して腰を浮かし、背筋を伸ばす私の近くへ身を寄せる。

 ミカンの視線はひたすら入り口に向けられている。ミカンには何かが、見えている。
 そう、ミカンがこんな態度を見せる時は必ずいるのだ。彼女の視線のその先に、成仏することの出来なかった孤独な霊が___。

 ミカンには霊を見る能力がある。
 それを知ったのは、私が憑依されやすい特異体質持ちだと知った時でもある。

 ミカンは私が拾った。みかん箱に捨てられていたからミカンと安易に名付け、両親の許しを得て飼うことにした。それが、高校の卒業式の日のことだ。

 それから数日後、両親は交通事故で他界した。
 葬儀の際、母親の兄である親戚のおじさんが、昔を懐かしむようにぽろりと話したことがある。それは、私の特異体質についてである。

 私は小さな頃からひとりごとの多い子どもだったらしい。
 温厚な両親はそれを気にしたこともなく、時に支離滅裂なことを話そうとも、広く深い心で許してきたという。
 母親は亡くなる前日、親戚のおじさんにこう言ったのだという。

『ミカンは千鶴を守るために現れたの。だって千鶴は私と同じ憑依体質なんだもの』

 自覚はなかったものの、憑依体質は母親譲りだと聞かされた。そして私に霊が近づくと、ミカンがそれを察しているのだと、母親が話したという。
 私が不可思議な、と言っても無自覚に、奇妙な言動をする時はいつもミカンが側から離れない。
 まるで私を守ろうとするかのように、ミカンは全神経を研ぎ澄ませて、何もない一点を見つめて毛を逆立てるのだ。
 しかし、今回は少しばかりミカンの様子がいつもとは違った。

「ミカン、誰かいるの?」

 声をかけると、ミカンは後ずさりながら私のひざにしっぽを乗せた。ゆらゆら揺れるしっぽはミカンの困惑を示すようでもある。

「千鶴さん、ここから離れた方がいいでしょう。ミカンを連れて部屋へ戻りなさい」

 誠さんが厳しめに言う。

「あ、……はい」

 誠さんは大丈夫?などと尋ねる必要はない。
 彼は隙のない完璧な人だ。私の心配などいらない。変に駄々をこねては彼を困らせることになる。

 急いでミカンを抱き上げようと彼女の脇に指を差し込んだ時、すうっと体の内側をなでられたような感覚に襲われた。

「あ……っ」

 その奇妙な感覚は次第に私の中へ溶け込んでくる。
 私の身体には不要なはずの異物が、まるで好んで私を侵すような……、奇妙な感覚。

 気持ちが悪い、と手をついた時には、かしいだ身体は畳の上に崩れ落ちていた。
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