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募る思い
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一番眺めのいい席にご案内します、と言われて案内された席からは、都内が一望できた。
夜空とビルの間を彩る神秘的なグラデーションの光に、思わず目を奪われた。こんなに素敵な夜景を見られる場所が身近にあったなんて、知らなかった。
「この席が一番おすすめだから、予約取れてよかったよ」
「仁志さんは以前にもこちらへ?」
彼はゆっくりうなずく。
仁志さんはきっと、私の知らない世界を何十倍も何百倍も知っていて、私が望む以上のものを提供できる人だろう。
「仁志さんが行ったことのないお店にしたらよかったですね」
「いいんだよ、そんなこと。でもそうだな、次があるなら、俺が選ぼう」
「お忙しいですよね」
ふたりきりで食事に来るひまなんてそうそうないだろうと思って言うと、的外れだったのか、彼は愉快そうに肩を揺らして笑った。
程なくして、お通しが運ばれてきた。上品なあわびの餡かけは、洋風に盛り付けられている。味も見た目も楽しめる、贅沢な洋風懐石料理といううわさは本当のようだった。
「一度ね、ゆっくりみちると話したいなって思ってたんだよ」
「はい」
料理に見惚れていると、穏やかに仁志さんが切り出す。背筋が伸びる。彼の父である富山豊彦といるようだった。
穏やかで凛とした豊彦は、私が困っている時に限って声をかけてくれる人だった。言葉数は少ないけれど、優しさを感じられる偉大さに、何度助けられただろう。
「万里さんが亡くなられて、もうすぐ20年になるね。いろいろと、節目の年なのかなと思ったりしてるよ」
いろいろと、という言葉に含みを感じる。黙っていると、仁志さんは頼りなく眉を下げた。
「いつか、父親がみちるを迎えに来てくれると思ってた。違ったようだね」
「迎えに来てくれるなんて、思ったことないです。私が生まれた時に見せた誠意が、最後の役割だったんだろうって思ってます」
それは私にとって、全然誠意ではなかったけれど、私が久我みちるでいられるのは、父親がこの名を授けてくれたからだ。不満はあっても、理解はしている。
「彼がみちるを娘と認めた。それが最初で最後の誠意だなんて、俺は納得したくないと思ったけど、みちるは違うんだね」
「私は相楽みちるではないし、久我みちるでもないんです」
「みちるは、みちるだよ」
私よりも傷ついた目をして、仁志さんはそう言う。
「万里さんが生きていたら、きっと違っていたね」
「母は我慢しすぎました。おびえて生活するなんて、不幸でした」
私の父親が誰なのか。
母はそれを隠そうとしていた。誰にも真実を話してはいけない。小さな私にずっと言い聞かせていた。
いつか、父親のことが世間に知られてしまうかもしれない。
その不安が病を呼び寄せ、母の命を削った。
だから私は、父親のことをなんとも思っていない。憎んだら、彼を認めることになる気がして、無関心になる道を選んだ。
「みちるは? 富山家に居場所はある?」
「はい。感謝しています」
許されるなら、一生、富山家で過ごしていきたい。でも、無理なんじゃないかって気持ちもある。あの屋敷に住んでいられるのは、仁志さんが結婚していないからだ。
「感謝か……」
ぽつりとつぶやくと、しばらく仁志さんは無言になった。
感謝だけでは、富山家で生きていけないだろう。いつだって私は、誰かのお荷物だった。
「俺ももう、37歳になったよ」
急になんのことかと驚くと、彼は苦笑する。
「父が思いの外、はやく引退して、想像以上の重圧があった。がむしゃらにやってきて、なかなか心を許せる女性に出会えずに、ここまで来てしまったよ」
「まだ37歳です」
私より10歳年上の彼は、じゅうぶん魅力的な紳士だった。その気になればいつだって結婚できるだろう。容姿や家柄、素養までも、一流のものを持っている。
「まだって言ってくれるんだね」
「仁志さんはお忙しいだけで、憧れてる女性はたくさんいらっしゃると思います」
「みちるはどう?」
「どうって?」
首をかしげると、彼はくすりと笑った。しかしすぐに、神妙になる。
「さっき、みちるは相楽でも久我でもないと言ったね。みちるは富山になりたかった?」
「……そんな大それたこと、考えたこともないです」
富山だったら、劣等感なしに生きられただろうか。いつも誰かに遠慮してた私は、自信に満ち満ちた人生を送れただろうか。
それを想像するのは、不可能に近い。私にはありえない、考えることすら許されない話だった。
「富山になってもいいんだよ。両親もみちるなら反対しない。もちろん、そうするように育てたわけじゃないから、驚くだろうけど」
「どういう……?」
「俺と結婚しないか」
「え……?」
唐突な話に、ぽかんとしてしまった。想像を絶すると、頭が真っ白を通り越して、無になるみたい。
「みちるはいつも側にいてくれるよね。身近すぎて、気づけていなかったのかな。俺を一番理解してる女性は誰だろうと考えたとき、真っ先に浮かんだのは、みちるだったよ」
「ま、待ってください。私は全然……」
側にはいるかもしれない。だけど、彼を理解してるとは思えない。過大評価されてる気がする。
あわてると、仁志さんは身を乗り出して私を見つめる。
「じゃあ、こう言ったらいいかな。みちるがあまりにも綺麗で、好きになった。妹のように感じたことは一度もなかったからね、好きになるのに抵抗はなかったよ」
「好き……」
思いがけない言葉を聞いて、ますます背筋が伸びた。
仁志さんに望まれるということは、神聖な儀式のようだった。私に選択肢なんてないのだろう。欲しいと言われたら、捧げるのは当然なんだって、心のどこかで感じているのかもしれない。
「考えてくれないかな」
「……突然で、びっくりしてます」
「兄のように感じてるなら、難しいのかなとは思ってるよ」
彼の見せた譲歩に、どこかホッとした。私が思ってるより、彼は私の立場を理解してくれてる。
「仁志さんをそういう風に考えたことはなかったので、戸惑ってます」
「みちるの心が決まるまで待つよ。だけど、待つだけでは俺の気持ちが済まない。またこうして、ふたりで会ってくれるかな」
「……はい。わかりました」
なんて返事したらいいかわからなかったけど、無理だなんて拒めるはずない。私から仁志さんを断るなんてできるわけなかった。
「ありがとう。さあ、いただこうか。最近、仕事の方はどう?」
仁志さんは柔和な笑みを見せて、私を気遣った。こうやって、お互いをわかり合っていこうって示してくれたみたいだった。
私の生い立ちも、性格も、仁志さんなら全部わかってくれてるだろう。それでも私が欲しいって言ってくれるなんて、そんな男性、もう現れない気がした。
清貴さんは私に変わらないといけないって言うけれど、仁志さんは変わらなくてもいいんだって言ってくれる。
仁志さんは私を甘やかしてくれるだろう。でもそれがいいことなのか、今はまだわからなかった。
夜空とビルの間を彩る神秘的なグラデーションの光に、思わず目を奪われた。こんなに素敵な夜景を見られる場所が身近にあったなんて、知らなかった。
「この席が一番おすすめだから、予約取れてよかったよ」
「仁志さんは以前にもこちらへ?」
彼はゆっくりうなずく。
仁志さんはきっと、私の知らない世界を何十倍も何百倍も知っていて、私が望む以上のものを提供できる人だろう。
「仁志さんが行ったことのないお店にしたらよかったですね」
「いいんだよ、そんなこと。でもそうだな、次があるなら、俺が選ぼう」
「お忙しいですよね」
ふたりきりで食事に来るひまなんてそうそうないだろうと思って言うと、的外れだったのか、彼は愉快そうに肩を揺らして笑った。
程なくして、お通しが運ばれてきた。上品なあわびの餡かけは、洋風に盛り付けられている。味も見た目も楽しめる、贅沢な洋風懐石料理といううわさは本当のようだった。
「一度ね、ゆっくりみちると話したいなって思ってたんだよ」
「はい」
料理に見惚れていると、穏やかに仁志さんが切り出す。背筋が伸びる。彼の父である富山豊彦といるようだった。
穏やかで凛とした豊彦は、私が困っている時に限って声をかけてくれる人だった。言葉数は少ないけれど、優しさを感じられる偉大さに、何度助けられただろう。
「万里さんが亡くなられて、もうすぐ20年になるね。いろいろと、節目の年なのかなと思ったりしてるよ」
いろいろと、という言葉に含みを感じる。黙っていると、仁志さんは頼りなく眉を下げた。
「いつか、父親がみちるを迎えに来てくれると思ってた。違ったようだね」
「迎えに来てくれるなんて、思ったことないです。私が生まれた時に見せた誠意が、最後の役割だったんだろうって思ってます」
それは私にとって、全然誠意ではなかったけれど、私が久我みちるでいられるのは、父親がこの名を授けてくれたからだ。不満はあっても、理解はしている。
「彼がみちるを娘と認めた。それが最初で最後の誠意だなんて、俺は納得したくないと思ったけど、みちるは違うんだね」
「私は相楽みちるではないし、久我みちるでもないんです」
「みちるは、みちるだよ」
私よりも傷ついた目をして、仁志さんはそう言う。
「万里さんが生きていたら、きっと違っていたね」
「母は我慢しすぎました。おびえて生活するなんて、不幸でした」
私の父親が誰なのか。
母はそれを隠そうとしていた。誰にも真実を話してはいけない。小さな私にずっと言い聞かせていた。
いつか、父親のことが世間に知られてしまうかもしれない。
その不安が病を呼び寄せ、母の命を削った。
だから私は、父親のことをなんとも思っていない。憎んだら、彼を認めることになる気がして、無関心になる道を選んだ。
「みちるは? 富山家に居場所はある?」
「はい。感謝しています」
許されるなら、一生、富山家で過ごしていきたい。でも、無理なんじゃないかって気持ちもある。あの屋敷に住んでいられるのは、仁志さんが結婚していないからだ。
「感謝か……」
ぽつりとつぶやくと、しばらく仁志さんは無言になった。
感謝だけでは、富山家で生きていけないだろう。いつだって私は、誰かのお荷物だった。
「俺ももう、37歳になったよ」
急になんのことかと驚くと、彼は苦笑する。
「父が思いの外、はやく引退して、想像以上の重圧があった。がむしゃらにやってきて、なかなか心を許せる女性に出会えずに、ここまで来てしまったよ」
「まだ37歳です」
私より10歳年上の彼は、じゅうぶん魅力的な紳士だった。その気になればいつだって結婚できるだろう。容姿や家柄、素養までも、一流のものを持っている。
「まだって言ってくれるんだね」
「仁志さんはお忙しいだけで、憧れてる女性はたくさんいらっしゃると思います」
「みちるはどう?」
「どうって?」
首をかしげると、彼はくすりと笑った。しかしすぐに、神妙になる。
「さっき、みちるは相楽でも久我でもないと言ったね。みちるは富山になりたかった?」
「……そんな大それたこと、考えたこともないです」
富山だったら、劣等感なしに生きられただろうか。いつも誰かに遠慮してた私は、自信に満ち満ちた人生を送れただろうか。
それを想像するのは、不可能に近い。私にはありえない、考えることすら許されない話だった。
「富山になってもいいんだよ。両親もみちるなら反対しない。もちろん、そうするように育てたわけじゃないから、驚くだろうけど」
「どういう……?」
「俺と結婚しないか」
「え……?」
唐突な話に、ぽかんとしてしまった。想像を絶すると、頭が真っ白を通り越して、無になるみたい。
「みちるはいつも側にいてくれるよね。身近すぎて、気づけていなかったのかな。俺を一番理解してる女性は誰だろうと考えたとき、真っ先に浮かんだのは、みちるだったよ」
「ま、待ってください。私は全然……」
側にはいるかもしれない。だけど、彼を理解してるとは思えない。過大評価されてる気がする。
あわてると、仁志さんは身を乗り出して私を見つめる。
「じゃあ、こう言ったらいいかな。みちるがあまりにも綺麗で、好きになった。妹のように感じたことは一度もなかったからね、好きになるのに抵抗はなかったよ」
「好き……」
思いがけない言葉を聞いて、ますます背筋が伸びた。
仁志さんに望まれるということは、神聖な儀式のようだった。私に選択肢なんてないのだろう。欲しいと言われたら、捧げるのは当然なんだって、心のどこかで感じているのかもしれない。
「考えてくれないかな」
「……突然で、びっくりしてます」
「兄のように感じてるなら、難しいのかなとは思ってるよ」
彼の見せた譲歩に、どこかホッとした。私が思ってるより、彼は私の立場を理解してくれてる。
「仁志さんをそういう風に考えたことはなかったので、戸惑ってます」
「みちるの心が決まるまで待つよ。だけど、待つだけでは俺の気持ちが済まない。またこうして、ふたりで会ってくれるかな」
「……はい。わかりました」
なんて返事したらいいかわからなかったけど、無理だなんて拒めるはずない。私から仁志さんを断るなんてできるわけなかった。
「ありがとう。さあ、いただこうか。最近、仕事の方はどう?」
仁志さんは柔和な笑みを見せて、私を気遣った。こうやって、お互いをわかり合っていこうって示してくれたみたいだった。
私の生い立ちも、性格も、仁志さんなら全部わかってくれてるだろう。それでも私が欲しいって言ってくれるなんて、そんな男性、もう現れない気がした。
清貴さんは私に変わらないといけないって言うけれど、仁志さんは変わらなくてもいいんだって言ってくれる。
仁志さんは私を甘やかしてくれるだろう。でもそれがいいことなのか、今はまだわからなかった。
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