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あなたしか見えない
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薄暗く落ち着いた店内は、夜景の中に溶け込むような、ひかえめなのにきらびやかで、総司さんでなくてもおすすめしたくなるだろうと思うぐらい、とてもしゃれていた。
若く美形なバーテンダーは、彼にうやうやしくあいさつすると、「カウンター席へどうぞ」と声をかける。
総司さんは何度も来てるのだろう、慣れた様子でカウンター席に座り、「何飲む?」と聞いてくれる。
「ちょっと飲み過ぎてしまったので、ソフトドリンクで大丈夫です」
お腹ももういっぱいで、何もいらないのだと思いつつ、遠慮がちに言うと、彼はまじまじと顔に穴があくんじゃないかと思うぐらい、見つめてくる。顔に何かついてるんだろうかと、落ち着かない。
「じゃあ、ホットウーロン茶にする?」
「はい、それで」
ほおに手を当てると、彼はスッとバーテンダーの方へ目を移し、ホットウーロン茶とハイボールを注文する。
「まだお名前をうかがってませんでしたね」
「……みちるです」
迷って、そう答えた。
久我みちるは有名な翻訳家ではないけれど、お仕事で出会う方以外にその名を伝えるのは極力さけていたし、富山家に出入りしているのに富山みちるではない異質な私を知られたくもなかった。
それは、これまで生きてきた経験から来るもので、決して総司さんにフルネームを伝えたくないと思ったからではなかった。
彼もまた、よく知らない女性と飲み慣れているのだろう。苗字を伝えない私に違和感を覚えた様子もなかった。
私たちはたまたま出会って、みちる、という名前を知るだけでじゅうぶんな関係なんだろう。
「みちるさんですか。素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます」
「まさか、こんなにもはやくまたお会いできると思っていなかったので、焦りました」
追いかけてきて、半ば強引にラウンジへ誘ったことを恥じるように、彼は苦く笑う。
「お声をかけずにすみませんでした」
「いえ、俺も富山清貴さんとは面識がないもので、迷ってしまって」
「清貴さんをご存知なんですね」
「お顔だけは。ご一緒に来られたんですね」
「はい。清貴さんがいないと何もできなくて」
「お付き合いされてるんですか?」
「えっ」
驚く私を、彼は妙に切なげに見つめている。
総司さんは、私を気にしてる?
それは、そう。気になる女性じゃなきゃ、ふたりきりで話がしたいなんて誘ったりしないだろう。
そういう気持ちがあるからプライベートな質問をするのだし、私がついてきたのも、少しは好感触だからだろうって知ってる、大人な人だろう。
「お付き合いはしてないです」
「言葉通りに受け止めます」
言葉通りでなければ、何を想像したのだろう。付き合ってなくても男女の関係かもしれないなんて疑ってたんだろうかと思ったが、ホットウーロン茶を運んでくるバーテンダーに気付いて、疑問は胸に秘め、口をつぐんだ。
「よくパーティーには来られるんですか?」
「いいえ、今日がはじめてです。賑やかな場所はあまり得意じゃなくて」
「そうですか。みちるさんほど綺麗な方に、なぜ今まで気づかなかったのかと悔やんでいましたが、はじめてでしたか」
「悔やむだなんて……おかしい」
「おかしくないですよ。本当に、お綺麗です」
やはり、総司さんはやたらと私を見つめてくる。
全然、落ち着かない。私を口説こうとしてる。そんなの容易にわかるのに、目をそらすことでしか、抵抗できない。
沈黙の間を埋めるように、ホットウーロン茶のグラスに指を伸ばす。同時に横から伸びてきた彼の手が、指に触れた。
「あ……」
「性急にならなければと思うほど、焦っています」
綺麗だけれど雄々しい指が、私の指にからまってくる。しっかりと合わさる手のひらに、胸が跳ねる。
このままでいたら、私たちはどうなってしまうんだろう。
「酔うあなたのほおが桜色に色づいて、とても綺麗だと見つめていました。このまま帰して、みちるさんが誰かのものになってしまうなら、必ず後悔する。そんなことばかり考えてしまっています」
「誰かのものにだなんて……」
「なりませんか」
「ならないです」
首を横にふるふると振る。
誰かとお付き合いしたいなんて気持ちは、もうなかった。少しの仕事と、富山家があれば、私は細々と生きていける。これまでも、そうして生きてきたように。
「俺のものにも?」
総司さんはささやくように声を吐き出し、顔を寄せてくる。
「え……」
「今夜だけとは言わず、俺のものになってほしい」
「待って……」
「待てないです」
からまる指に力が入る。愛の言葉なんて後回しでいい。今は性急な行為が私の気持ちを動かす手段だと知ってて、総司さんは唇を重ねてきた。
最初は触れるだけのキスだった。ぎゅっと目を閉じたら、後ろ頭に手が回ってくる。すぐに離れた唇は、ほんの少し、焦らすようにかすかに触れ合って、いきなり深くなる。
総司さんはキスが上手。
身体の中が、じんっとする。私を簡単に高まらせる方法を熟知してる。
はっ、と甘い息が漏れて、思わず彼の手を握り帰したら、柔らかくて弾力のある舌が唇をなぞってきた。
「こんな……いけないです……」
「なぜ」
問うのに、返事は期待してない。すぐに唇は塞がれて、食むように唇を吸われて……。心はだめだって言ってるのに、身体はそれほど抵抗してなくて、心まで揺らぎそうになる。
「こんなところで、だめ……」
彼を突き放そうとするけれど、さっきまで優しく微笑んでいたはずの総司さんは、色っぽい目をして私の唇に何度もキスをする。
「だめじゃない」
「人が、います……」
ここは、ラウンジ。それも、人目につきやすいカウンター。
「俺には見えない。あなたしか、見えません」
だめなのに。どうして……。
入念に愛された唇は、もう抵抗を忘れて、隙間を割って滑り込んできた舌を受け入れてしまう。
情熱的なキスだった。私の全てをとろかすような。好きだとか、愛してるとか、そういう言葉は後にして、ただ彼のキスが気持ち良くて、深みにはまっていくみたいだった。
はぁっ、とお互いに息をもらして、唇を離す。充分すぎるほど求め合った後は、彼の愛の言葉が待っていた。
「お付き合いしてください。みちるさんにひとめぼれしました。あなた以外に考えられない。またこうして、ふたりきりで会いたい」
「……私は、お付き合いとか、そんな……」
キスを受け入れておいて、素直になれないなんておかしいだろう。
遊び慣れてるなんて思われたくなくて、うつむいてしまう。
「富山家にふさわしい男である自信はあります。少しでも心が揺らいだなら、受け入れてほしい。後悔はさせません。結婚前提でというなら、喜んで」
「……富山家」
ハッと顔をあげたら、総司さんは私の横髪をかき上げた。
総司さんは、何か、勘違いしてる。
「ずっとあなたを見ていましたから、隠していてもわかります」
清貴さんとずっと一緒にいたこと。恋人のように寄り添っていながら、恋人ではないと否定したこと。そして、私が苗字を伝えなかったこと。その行動が、彼を誤解させたみたいだった。
「返事は来週にでも。来週の土曜、同じ時間に、ここで待っています」
「……来れません」
「それでも、待っています」
富山家にふさわしいと言える総司さんが、私につり合うはずがない。
真実を知ったら、彼は傷つくだろう。
もしかしたら、私を嫌うかもしれない。
だったら、このまま、今夜のことは良い夢として終わらせた方がいいだろう。
「期待しないでください」
私はそう言うと、するりと椅子を降りて、ラウンジから逃げ出した。
若く美形なバーテンダーは、彼にうやうやしくあいさつすると、「カウンター席へどうぞ」と声をかける。
総司さんは何度も来てるのだろう、慣れた様子でカウンター席に座り、「何飲む?」と聞いてくれる。
「ちょっと飲み過ぎてしまったので、ソフトドリンクで大丈夫です」
お腹ももういっぱいで、何もいらないのだと思いつつ、遠慮がちに言うと、彼はまじまじと顔に穴があくんじゃないかと思うぐらい、見つめてくる。顔に何かついてるんだろうかと、落ち着かない。
「じゃあ、ホットウーロン茶にする?」
「はい、それで」
ほおに手を当てると、彼はスッとバーテンダーの方へ目を移し、ホットウーロン茶とハイボールを注文する。
「まだお名前をうかがってませんでしたね」
「……みちるです」
迷って、そう答えた。
久我みちるは有名な翻訳家ではないけれど、お仕事で出会う方以外にその名を伝えるのは極力さけていたし、富山家に出入りしているのに富山みちるではない異質な私を知られたくもなかった。
それは、これまで生きてきた経験から来るもので、決して総司さんにフルネームを伝えたくないと思ったからではなかった。
彼もまた、よく知らない女性と飲み慣れているのだろう。苗字を伝えない私に違和感を覚えた様子もなかった。
私たちはたまたま出会って、みちる、という名前を知るだけでじゅうぶんな関係なんだろう。
「みちるさんですか。素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます」
「まさか、こんなにもはやくまたお会いできると思っていなかったので、焦りました」
追いかけてきて、半ば強引にラウンジへ誘ったことを恥じるように、彼は苦く笑う。
「お声をかけずにすみませんでした」
「いえ、俺も富山清貴さんとは面識がないもので、迷ってしまって」
「清貴さんをご存知なんですね」
「お顔だけは。ご一緒に来られたんですね」
「はい。清貴さんがいないと何もできなくて」
「お付き合いされてるんですか?」
「えっ」
驚く私を、彼は妙に切なげに見つめている。
総司さんは、私を気にしてる?
それは、そう。気になる女性じゃなきゃ、ふたりきりで話がしたいなんて誘ったりしないだろう。
そういう気持ちがあるからプライベートな質問をするのだし、私がついてきたのも、少しは好感触だからだろうって知ってる、大人な人だろう。
「お付き合いはしてないです」
「言葉通りに受け止めます」
言葉通りでなければ、何を想像したのだろう。付き合ってなくても男女の関係かもしれないなんて疑ってたんだろうかと思ったが、ホットウーロン茶を運んでくるバーテンダーに気付いて、疑問は胸に秘め、口をつぐんだ。
「よくパーティーには来られるんですか?」
「いいえ、今日がはじめてです。賑やかな場所はあまり得意じゃなくて」
「そうですか。みちるさんほど綺麗な方に、なぜ今まで気づかなかったのかと悔やんでいましたが、はじめてでしたか」
「悔やむだなんて……おかしい」
「おかしくないですよ。本当に、お綺麗です」
やはり、総司さんはやたらと私を見つめてくる。
全然、落ち着かない。私を口説こうとしてる。そんなの容易にわかるのに、目をそらすことでしか、抵抗できない。
沈黙の間を埋めるように、ホットウーロン茶のグラスに指を伸ばす。同時に横から伸びてきた彼の手が、指に触れた。
「あ……」
「性急にならなければと思うほど、焦っています」
綺麗だけれど雄々しい指が、私の指にからまってくる。しっかりと合わさる手のひらに、胸が跳ねる。
このままでいたら、私たちはどうなってしまうんだろう。
「酔うあなたのほおが桜色に色づいて、とても綺麗だと見つめていました。このまま帰して、みちるさんが誰かのものになってしまうなら、必ず後悔する。そんなことばかり考えてしまっています」
「誰かのものにだなんて……」
「なりませんか」
「ならないです」
首を横にふるふると振る。
誰かとお付き合いしたいなんて気持ちは、もうなかった。少しの仕事と、富山家があれば、私は細々と生きていける。これまでも、そうして生きてきたように。
「俺のものにも?」
総司さんはささやくように声を吐き出し、顔を寄せてくる。
「え……」
「今夜だけとは言わず、俺のものになってほしい」
「待って……」
「待てないです」
からまる指に力が入る。愛の言葉なんて後回しでいい。今は性急な行為が私の気持ちを動かす手段だと知ってて、総司さんは唇を重ねてきた。
最初は触れるだけのキスだった。ぎゅっと目を閉じたら、後ろ頭に手が回ってくる。すぐに離れた唇は、ほんの少し、焦らすようにかすかに触れ合って、いきなり深くなる。
総司さんはキスが上手。
身体の中が、じんっとする。私を簡単に高まらせる方法を熟知してる。
はっ、と甘い息が漏れて、思わず彼の手を握り帰したら、柔らかくて弾力のある舌が唇をなぞってきた。
「こんな……いけないです……」
「なぜ」
問うのに、返事は期待してない。すぐに唇は塞がれて、食むように唇を吸われて……。心はだめだって言ってるのに、身体はそれほど抵抗してなくて、心まで揺らぎそうになる。
「こんなところで、だめ……」
彼を突き放そうとするけれど、さっきまで優しく微笑んでいたはずの総司さんは、色っぽい目をして私の唇に何度もキスをする。
「だめじゃない」
「人が、います……」
ここは、ラウンジ。それも、人目につきやすいカウンター。
「俺には見えない。あなたしか、見えません」
だめなのに。どうして……。
入念に愛された唇は、もう抵抗を忘れて、隙間を割って滑り込んできた舌を受け入れてしまう。
情熱的なキスだった。私の全てをとろかすような。好きだとか、愛してるとか、そういう言葉は後にして、ただ彼のキスが気持ち良くて、深みにはまっていくみたいだった。
はぁっ、とお互いに息をもらして、唇を離す。充分すぎるほど求め合った後は、彼の愛の言葉が待っていた。
「お付き合いしてください。みちるさんにひとめぼれしました。あなた以外に考えられない。またこうして、ふたりきりで会いたい」
「……私は、お付き合いとか、そんな……」
キスを受け入れておいて、素直になれないなんておかしいだろう。
遊び慣れてるなんて思われたくなくて、うつむいてしまう。
「富山家にふさわしい男である自信はあります。少しでも心が揺らいだなら、受け入れてほしい。後悔はさせません。結婚前提でというなら、喜んで」
「……富山家」
ハッと顔をあげたら、総司さんは私の横髪をかき上げた。
総司さんは、何か、勘違いしてる。
「ずっとあなたを見ていましたから、隠していてもわかります」
清貴さんとずっと一緒にいたこと。恋人のように寄り添っていながら、恋人ではないと否定したこと。そして、私が苗字を伝えなかったこと。その行動が、彼を誤解させたみたいだった。
「返事は来週にでも。来週の土曜、同じ時間に、ここで待っています」
「……来れません」
「それでも、待っています」
富山家にふさわしいと言える総司さんが、私につり合うはずがない。
真実を知ったら、彼は傷つくだろう。
もしかしたら、私を嫌うかもしれない。
だったら、このまま、今夜のことは良い夢として終わらせた方がいいだろう。
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