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そこに息づくものたちの行方
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凪が寝室を出ていった後、少しまどろみに身を委ねようと目を閉じかけた時、薄く扉が開き、芽依が姿を見せた。
「那波、少し大丈夫?」
いつもと変わらない様子の芽依が寝室の中へと入ってくる。
近づいてくる芽依に戸惑いながら上体を起こした私は、ベッドに腰かけてくる彼女をどんな思いで見つめたら良いかわからずに目を伏せた。
ずっと自分の分身だと思っていた彼女が、ナミだというのだから心は複雑だ。
「凪と話したの? 那波」
「え、ええ……」
それ以上何を答えたらいいのかわからず、沈黙してしまう。
「凪はなんて?」
「……木梨くんは良かったって」
「そうなんだね。私もそう思ってる」
「芽依……」
芽依は柔らかく微笑んで、そっと手を重ねてくる。
そこから伝わる冷たさに戸惑う。誰かの手を冷たいと感じるなんて今までなかったのだ。
「芽依、冷たいわ……」
「そう? そんなこともあるわよ。だから心配しないで、那波。これが普通なのよ」
「今度はあなたが、ではないのね?」
芽依の手を握り返したら、次第に彼女の手が温まっていく。
「もちろんよ。私は最初から私でしかないの。何一つ欠けた感情はないわ。ただパパやママに嫌われたくなくて、明るく振舞っていただけ。でもね、そんな風に生活していたら、自分を見失なっていたみたい」
「芽依……、ずっとつらかったのね」
ない感情を探すのと、ある感情を押し殺すのとでは、苦しみが違うのだろう。私には彼女の苦しみを理解することが今でも出来ない。
まして、私が失った怒りの感情まで押し殺して生きていたなんて。
「本当はね、元に戻ってもかまわないって思ってたのよ。飛流芽依として生きるのは大変だもの。あなたが逃げ出したくなるのもわからなくはなかった」
「でも、ナミとして嘉木野さんの側にいたかったでしょう?」
芽依は小さく首を横に振り、視線を落とす。
「……お父さんは私を手放す日、言ったの」
「嘉木野さんはなんて? 本当はあなたを手放したくなかったはずよ」
「お友達が出来て良かったなって……、お父さんは笑ってた。だから寂しくはなかったの。今でも、お父さんに会いたいなんて思ってないわ。あなたとずっと過ごしていけたらいいって思ってる」
「本当に、あなたはナミなのね?」
「証明しろと言っても無理よ。私が知ってるのは、強い想いが不可思議な現象を起こすこともあるってことだけ」
くすりと芽依は笑う。少しばかり悲しげだけど、なんだか素の彼女のような気もする。
「私は今でも那波が好きよ。だから苦しむあなたを助けたいって気持ちも本当にあったの。信じて欲しいなんて言えないけれど」
「信じるわ。だって木梨くんに、あの家族写真を見せたのは芽依でしょう? 私のことなんとかしたくて、木梨くんに渡したのよね?」
「凪で良かったのかどうか、あの時は不安だったけど、凪は想像以上に那波を想っていたみたい」
「木梨くんがいなかったら、私は今でも一人であの部室にいたのよね……。芽依の苦しみもきっと続いてたんだわ」
「苦しまない人生なんてないの。だからこそ、愛する人が必要なのよ。那波には凪がいるんだもの。だから芽依に戻る必要もないし、那波のままでいるべきだと思ったわ」
「だから芽依は私に意地悪を言ったのね。芽依の体に戻ることを諦めさせようとしたのね」
そう言うと、芽依は口元に手を当ててそっと笑った。
「それはどうかな。那波は疑うことを知らないから、ちょっと意地悪したくなる」
「どういう意味?」
「私も、芽依でいたかった。そんな気持ちもあったかもしれないって話」
「私たちがこのままでいることは不幸なことよ。それでもそう言えるの?」
「そうよ。那波が悪いのよ」
芽依はつんっと、鼻をそらす。
「なぜ?」
「だって凪に恋したあなたがあんまり幸せそうだから。もしかしたら私も消えるかもしれないなんて考えたら、私ももう一度死ぬ前に恋をしてみたいって……、ちょっとだけ思ったの」
「芽依……」
「あなたに幸せになってもらいたかった気持ちも本当で、欲深に自分の幸せを考えたのも本当。人って、わがままね」
芽依は私の頬を両手で包み込むと、愛おしいものを見つめるように目を細めた。
「凪と幸せになって、那波。あなたが好きになった人が凪で良かったと思ってる。あなたはあなたの望む道を進むの。私はずっとあなたを見守って生きていくから」
震える芽依の手は温かく、彼女のシナモンの瞳には涙が浮かぶ。
彼女には今でも自由がないのかもしれない。
そんな風に思ったけれど、私に自由を与えるために芽依であることを彼女が望んだのなら、私は那波として幸せに生きていかなければならないのだろうと思った。
凪が寝室を出ていった後、少しまどろみに身を委ねようと目を閉じかけた時、薄く扉が開き、芽依が姿を見せた。
「那波、少し大丈夫?」
いつもと変わらない様子の芽依が寝室の中へと入ってくる。
近づいてくる芽依に戸惑いながら上体を起こした私は、ベッドに腰かけてくる彼女をどんな思いで見つめたら良いかわからずに目を伏せた。
ずっと自分の分身だと思っていた彼女が、ナミだというのだから心は複雑だ。
「凪と話したの? 那波」
「え、ええ……」
それ以上何を答えたらいいのかわからず、沈黙してしまう。
「凪はなんて?」
「……木梨くんは良かったって」
「そうなんだね。私もそう思ってる」
「芽依……」
芽依は柔らかく微笑んで、そっと手を重ねてくる。
そこから伝わる冷たさに戸惑う。誰かの手を冷たいと感じるなんて今までなかったのだ。
「芽依、冷たいわ……」
「そう? そんなこともあるわよ。だから心配しないで、那波。これが普通なのよ」
「今度はあなたが、ではないのね?」
芽依の手を握り返したら、次第に彼女の手が温まっていく。
「もちろんよ。私は最初から私でしかないの。何一つ欠けた感情はないわ。ただパパやママに嫌われたくなくて、明るく振舞っていただけ。でもね、そんな風に生活していたら、自分を見失なっていたみたい」
「芽依……、ずっとつらかったのね」
ない感情を探すのと、ある感情を押し殺すのとでは、苦しみが違うのだろう。私には彼女の苦しみを理解することが今でも出来ない。
まして、私が失った怒りの感情まで押し殺して生きていたなんて。
「本当はね、元に戻ってもかまわないって思ってたのよ。飛流芽依として生きるのは大変だもの。あなたが逃げ出したくなるのもわからなくはなかった」
「でも、ナミとして嘉木野さんの側にいたかったでしょう?」
芽依は小さく首を横に振り、視線を落とす。
「……お父さんは私を手放す日、言ったの」
「嘉木野さんはなんて? 本当はあなたを手放したくなかったはずよ」
「お友達が出来て良かったなって……、お父さんは笑ってた。だから寂しくはなかったの。今でも、お父さんに会いたいなんて思ってないわ。あなたとずっと過ごしていけたらいいって思ってる」
「本当に、あなたはナミなのね?」
「証明しろと言っても無理よ。私が知ってるのは、強い想いが不可思議な現象を起こすこともあるってことだけ」
くすりと芽依は笑う。少しばかり悲しげだけど、なんだか素の彼女のような気もする。
「私は今でも那波が好きよ。だから苦しむあなたを助けたいって気持ちも本当にあったの。信じて欲しいなんて言えないけれど」
「信じるわ。だって木梨くんに、あの家族写真を見せたのは芽依でしょう? 私のことなんとかしたくて、木梨くんに渡したのよね?」
「凪で良かったのかどうか、あの時は不安だったけど、凪は想像以上に那波を想っていたみたい」
「木梨くんがいなかったら、私は今でも一人であの部室にいたのよね……。芽依の苦しみもきっと続いてたんだわ」
「苦しまない人生なんてないの。だからこそ、愛する人が必要なのよ。那波には凪がいるんだもの。だから芽依に戻る必要もないし、那波のままでいるべきだと思ったわ」
「だから芽依は私に意地悪を言ったのね。芽依の体に戻ることを諦めさせようとしたのね」
そう言うと、芽依は口元に手を当ててそっと笑った。
「それはどうかな。那波は疑うことを知らないから、ちょっと意地悪したくなる」
「どういう意味?」
「私も、芽依でいたかった。そんな気持ちもあったかもしれないって話」
「私たちがこのままでいることは不幸なことよ。それでもそう言えるの?」
「そうよ。那波が悪いのよ」
芽依はつんっと、鼻をそらす。
「なぜ?」
「だって凪に恋したあなたがあんまり幸せそうだから。もしかしたら私も消えるかもしれないなんて考えたら、私ももう一度死ぬ前に恋をしてみたいって……、ちょっとだけ思ったの」
「芽依……」
「あなたに幸せになってもらいたかった気持ちも本当で、欲深に自分の幸せを考えたのも本当。人って、わがままね」
芽依は私の頬を両手で包み込むと、愛おしいものを見つめるように目を細めた。
「凪と幸せになって、那波。あなたが好きになった人が凪で良かったと思ってる。あなたはあなたの望む道を進むの。私はずっとあなたを見守って生きていくから」
震える芽依の手は温かく、彼女のシナモンの瞳には涙が浮かぶ。
彼女には今でも自由がないのかもしれない。
そんな風に思ったけれど、私に自由を与えるために芽依であることを彼女が望んだのなら、私は那波として幸せに生きていかなければならないのだろうと思った。
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