太陽と傀儡のマドンナ

水城ひさぎ

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那波と輝を繋ぐ悲憤

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 私立英美学園では、毎年6月下旬の土日に文化祭が行われる。そして、翌日は休校となり、翌火曜日には各部活の引退式がある。

 入学してからそのどちらも私には無縁で、今年もまた文化祭で盛り上がる学生たちの喧騒から離れた心理学研究部の部室で一人過ごしていた。

 凪が部員となってから、10日ほどが経つ。彼と過ごしたのはたった数日なのに、部室内は静寂で、やけに憂いている。何か忘れてきたよう。そんな感傷が私の胸に宿る。

 誰もいない部室を見回した後、紅茶の入ったティーカップを口に運びながら、何度も読み返した本に目を落とす。

 時を経て黄ばんだそれは、江井見家にまつわる古文書をまとめた書籍。祖父から譲り受けたものだ。

 祖父は私を不憫に思っていただろう。なんとかして、昔のように平凡で幸せな家族に戻れるよう願ってもいただろう。だから、この本を私に託したのだ。

 しかし、私たち家族が当たり前の家族として生きていく道を、私はまだこの本から見つけることが出来ていない。

 そっと本を閉じて、窓辺に立つ。
 見えるのは、校舎前にテントを張って、食べ物を販売する生徒たち。
 凪は喫茶店を調理室の隣の教室でやるのだと言っていた。ここからその様子は見えない。

 今日は凪に会えるだろうか。

 ふとそんな思いが脳裏をよぎる。その時だった。部室のドアがノックもなしに大きな音を立てて開く。

「やっぱりここにいたか」

 そう言って入ってきたのは、いつだったか突然部室を訪れた輝だった。

「探したよ。飛流はどこかと尋ねれば、全員芽依の方ばかり教えるんだな。那波の方だと言えば、よそよそしく目配せばかりだ。あんた、相当の嫌われ者だな」
「何かご用かしら?」
「無視かよ。まあ、今日は一日俺に付き合ってもらうんだ。ゆっくり話でもしようじゃないか」
「紅茶は飲む?」
「飛流芽依から喫茶店のチケットをもらってきた。残念だが、あんたの淹れる紅茶は次回の楽しみに取っておくよ」

 輝は皮肉げに笑った後、喫茶店のチケットを二枚広げて見せる。凪のクラスが行う喫茶店のようだ。

「そう。樋野さんは文化祭に参加したいのね」
「祭りは嫌いじゃないしな。ここで紅茶を飲んでるよりはマシだ」
「私は苦手。一人で行かれるといいわ」

 交渉は決裂したはずなのに、輝が部室を立ち去る様子はない。それどころか、私に近づくといきなり手首をつかんできた。

 輝は一瞬、顔をしかめた。

 そうだろう。私をバケモノと呼んだあの子も凪も、同じ表情をした。噂を聞いたことがあると言っても、彼だって不愉快に感じただろう。
 そう思ったが、ふと眼帯に隠された輝の左目に視線が向く。彼はもしかしたら、私をバケモノだなんて言わないかもしれない。

「同類……だろ?」

 私の心を見透かしたのか、輝は薄く笑んで、冷たい私の手を大きな手でそっと優しく包み込み、もう片腕を私の腰に回した。

 輝との距離が近い。胸の鼓動が聞こえて来そうだ。
 凪は私を抱きしめてくれる人は必ず現れると言ってくれた。その人は、輝なんだろうか。

 腰に回った輝の腕は優しく添えられているだけだが、もう片手は私の手から離れると頬にスッと触れる。

「冷たいのは手だけじゃないんだな」
「気にしてないわ」
「なぜ冷たいのか、理由を知ってるからだろう?」

 輝と見つめ合いながら、私は言う。

「ぬくもりがある必要を感じてないからよ」
「あんたはそれでかまわないかもしれないが、俺は気になる」
「なぜ?」
「冷たい体の女を抱くのは、さすがに俺でも抵抗がある」
「どういう意味かしら?」

 首を傾げると、肩から髪がするりと滑り落ちた。
 輝は目を細めて髪をすくい上げてくると、あらわになる耳に唇を寄せてくる。

「俺が教えてやるから安心しろ。崩れることを知らないあんたの顔がどんな風に恍然とするのか興味がある」
「それは冷たい体に我慢すると言ってるの?」
「興味が勝るっていうことだな」

 輝の手が後ろ頭に回る。まばたきもせずに彼を見つめていると、だんだん唇が近づいてくる。唇が触れ合う寸前で、私は問う。

「……あなた、私が好きなの? つまり、恋愛感情があるという意味の」
「俺はそういう感情に縛られなくてもキスぐらいはする」
「そう……」

 よく理解できない。

「だがまあ、木梨凪のような男はしないだろうな。あんたは何かあいつに吹き込まれて誤解してそうだ」
「木梨くんは好きな人とキスするって言っていたわ。それは恋愛感情がある証だと」
「木梨みたいな男を天然記念物っていうんだよ。結局はさ、本能がただあんたを抱きたいって言ってるんだよ、俺の場合」
「私はどうしたらいいのかしら。あなたを好きになれると確信できたら、キスをしてもいいのかしら」

 凪はそんな話をしていなかっただろうか。好きになれると確信できる相手となら、恋人同士になれると。

「そんな面倒くさい話はいらない。あんたは俺を受け入れてさえいればいい」
「一方的なのね」
「そういう男もいる。そういう男がいいっていう女もいる。あんたに選択権はないが、あんたに興味があるうちは、他の女とは遊ばないって約束してやるよ」
「お互いを思い合うのが恋なのに、体を求めるのって変ね」
「好きだから触れたくなる。それだけだろう」

 輝の両腕がそっと背中に回る。
 懐かしい感触だ。祖父母は私をこうして何度か抱きしめてくれた。

 祖父母は私を愛してくれていた。では輝も、私を愛してくれようとしているのだろうか。

「いい香りがする」

 首筋に顔をうずめ、両腕に力を込めながら輝は囁く。あたたかい。輝のぬくもりが私を優しく包む。

「拒まないなら、遠慮はしない」

 輝はうっすら笑んで、ブレザーのボタンを指で弾いた。
 その下のボタンもたやすく外す指がブラウスのボタンに触れた時、なんだかとても不穏な気持ちになって、彼の手首をつかんでいた。

「あの……」
「ん?」
「あの……、いやです。どうしてかわからないけど、そんな気持ちになって」

 違う。彼じゃない。
 そう思う心は、本能だろう。では、誰ならいいというのだろう。そう考えたら、なぜだか凪の笑顔が心に浮かぶ。

「まあ、初めての時は戸惑うもんだ」
「……でも」

 輝の言う通り、戸惑っているのだ、私は。こんな気持ちになったのは初めてで。私を愛してくれるという人を、なぜ私は拒むのだろう。

 うつむくと、彼の骨張った大きな手がそっと頭に乗せられる。

「女らしい一面あるんだな。なんかあんた、可愛いな。強引にでもキスしたくなる」

 あごをグイッと上げられて、アッと声を上げる間もなく唇は近づいて。

 思わず伸ばした手で彼の肩をついた時、賑やかな女の子たちの声が廊下の方から聞こえてきた。
 その声はだんだん近づいて、ドアの前で止まる。部室への来客だ。
 しかし、そんなことかまわずに輝は指で私の唇に触れる。そしてまた、顔を近づけてくる。

 私の視線はドアに向く。ノックされたドアが開いて、二人の女子生徒と目が合う。

「あっ……!」
「飛流さんっ!」

 二人の声が合わさる。
 二人には私と輝がどのように見えたのだろう。真っ赤になったのは優香で、優香の目をサッと手で隠したのは弥生だった。

 弥生は無言だが、明らかに不審げに輝を見据えている。それはそうだろう。ここは輝が来るような場所ではない。
 しかし芽依がいない今、優香や弥生が遊びに来るような場所でもない。

 二人は何をしに来たのだろう。そんなことが気になったが、輝は違ったようだ。不機嫌に唇を歪めはしたが、私のブレザーのボタンを直し、乱れた髪をそっと撫でて整えてくれる。

「あんたには監視役がいるようだな」
「監視役?」
「明るくて何にも考えてないようでいて、本当のところは打算的。だからあんたが他の生徒に嫌われても、あの女は人気者気取りだ」
「芽依のことを言ってるの?」
「違うか? あんたを恐れるなら、双子の姉にも同じ感情を持つのが自然だ」
「それはあの子の人徳。私にはない優しさが芽依にはあるのよ。そこにみんな惹かれてるんだわ」

 そう答えると、輝は肩をすくめる。

「あんたと議論するつもりはないが、飛流芽依はあんたが思うより世間知らずじゃないかもな」
「そうね、……きっとそうね」

 芽依は私と違う。私より多くの世界を知っていて、多くの人々と触れ合っている。
 生きる術を知らない私より、芽依がいい意味で打算的なのは当然のことでもある。

「あんたが承知ならそれでいい」

 輝はそう言った後、部室の入り口に立つ弥生と優香に向かっていき、「邪魔だ」と鋭く吐き捨てる。

 真っ赤な頬を抑えて輝を見ていた優香はみるみるうちに蒼白になり、弥生の腕にしがみつく。弥生もまた、無用なもめごとを起こす気もないようで、すぐに道を開ける。

 輝が部室を出て行くと、優香はすぐに私に駆け寄ってきた。

「ごめんね、飛流さん。きっと飛流さん文化祭に参加しないだろうから、芽依が呼んできてって言って……」
「樋野さんも誘いに来たわ。行かないとお断りしていたのよ」
「断ってるだけのようには見えなかったけど?」

 弥生は不機嫌なまま腕組みして言う。

「樋野さん、私と恋人になりたいと言ったようなの。はっきりとはわからなかったけれど」

 私がそう答えれば、弥生は呆れたように口を開けて髪をくしゃりとした。

「飛流さんには話してもわからないだろうから、凪くんにさっき見たことは話しておく」
「木梨くんに? なぜ」

 首を傾げる私を見て、優香と弥生は目を合わせて同時にため息を吐きだした。

 なぜ?
 その疑問にはどうやら答えてはもらえないようだ。

「悪いけれど、芽依には私は来ないと言っておいてくれるかしら」

 飲みかけの紅茶はもうすっかり冷めてしまっている。

 新しいものに変えようとティーポットに手を伸ばした時、もう行ってしまったと思っていた輝がドアから顔を出す。
 そして、困り顔の優香が、「文化祭、楽しいよ」と私に誘いかける声を遮るほどの大きな声で私を呼んだ。

「行くぜ、那波」
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