月夢亭へようこそ

水城ひさぎ

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月が夢を見る場所

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 真乃屋和雄が意識を回復したのは、くしくも、陽仁さんが警察を訪れた夕刻のことだった。しかし、彼は満足に体を動かすことができず、話すことも叶わない。無論、陶芸など続けられる状態ではなかった。

 唯一、彼が反応を示したのは、『自ら落ちたのか?』という質問に対してまばたきをした、それだけだった。陽仁さんや果歩さん、律紀さんの証言に不審な点はなく、盗作の件は公にされないまま、真乃屋和雄の転落は不慮の事故として扱われ、捜査は終了した。

 その後、風のたよりに、真乃屋和雄の娘とその弟子が婚約し、和雄は引退を発表したと聞いた。

 私はというと、年の瀬に向けて残業が続き、年越しは一緒に過ごしてほしいという祖父母の願いを受け入れ、ろまん亭を訪れたのは、三が日を過ぎた1月上旬のことだった。

「久しぶりだね、望ちゃん」
「ごめんね、待ってるって言ったのに、全然来れなくて」
「気にしてないよ。電話には出てくれたしね」

 感動的な再会を期待していたのであろう陽仁さんは苦笑いしながら、駐車場に停めた車の後部座席のドアを開いた。

「何か持ってきたの?」

 ひょいっと車の中をのぞき込んだ私は、一瞬息がつまりそうなほど驚いていた。そこには、太陽の受け皿のレプリカがあった。

「どうしたの?」
「うん、望ちゃんにあげようと思って。いるなら、だけど」

 照れくさそうに彼は言う。

「くれるの? ほんとうに?」
「望ちゃんなら大切にしてくれる気がしたから。正直いうと、結構、気に入ってるんだ」
「うん、大切にする。あ、ねぇ、太陽の受け皿って、陽仁さんがつけたの?」

 太陽の受け皿のレプリカを腕に抱えた彼は、青い空へふと視線を移し、太陽のまぶしさに目をしかめたあと、レプリカを愛おしそうに見つめた。

「違うよ。この作品のタイトルはね、『あこがれ』なんだ。太陽にあこがれて手を伸ばす月を具現化してる」
「へえー、そうなんだ」

 興味津々に、あこがれを見つける。受け取ろうとすると、重たいから家まで運ぶよって、彼は歩き出す。

「太陽もね、月にあこがれてるんだよ」

 そう言って、私の顔をのぞき込んでくる。

 陽仁さんの陽は太陽の陽。私は満月の望。陽仁さんは私に? ふとそんな風に考えて赤らむと、彼は優しくほほえんだ。彼はまだ忘れてないだろうか、私に告白したことを。

「そうなの?」
「うん、そう。ねえ、望ちゃん、俺さ、もう一度陶芸を始めてみようと思う」
「ほんとうに?」
「趣味程度だけどね。やってみようと思う」

 照れくさそうに笑う彼のまなざしは、ひとたびまばたきをすると、夢を追う少年のようなきらめきを帯び、凛としていた。

 その瞳を見ていると、ほんの少しだけさみしいような気分になる。彼はきっといつか、私の手の届かない人になってしまう気がした。

 思わず手を伸ばしたら、あこがれを片腕に抱き直した彼が手をつないでくれた。手を伸ばせば届くと信じさせてくれるみたいに。

「ろまん亭、売却するんだってね。村井さんから聞いた」
「その話なんだけど……」
「俺に売ってくれないかな?」
「え……?」

 彼はあこがれを縁側にそっと置き、私と向き合って、両手をつないだ。

「永朔さんが大切にしてたもの、全部俺に任せてほしいんだ。ろまん亭もこの家も、弦さんだって。それに、……望ちゃんも」
「わ、私?」
「いやだ?」
「そんなわけないよ。でも……、ろまん亭は陽仁さんに売ってあげられない」

 眉をひそめる彼の手をぎゅっと握り返す。私は決めたんだ。全部自分で決めて、ここへ来た。

「私ね、仕事やめてきたの」

 えっ? と驚く彼が何か言い出さないうちに言う。

「仕事やめて、ろまん亭を継ぐことにしたの。でも、お父さんのようにはできないから、新しい喫茶店としてリニューアルオープンするの。私だけの、新しい夢を叶えようと思って」

 陶芸家になる道はあきらめた。失恋もして、夢も希望もない毎日が続くかもしれないなんて悩んだ日もあったけれど、一度ぐらい、夢を叶えるのは無理でも好きなように生きていいんだって、そう、父が教えてくれたから。

「夢をあきらめないで追い続けるのも、新しい別の夢を追いかけるのも、いいよね」
「その夢を、俺も一緒に追いかけていいのかな」
「私からお願いしようと思ってたの。一緒に、月夢亭つきゆめていで働いてください」
「月夢亭って名前にしたの?」
「うん。月が夢を見る場所だから」

 私が、夢を叶える場所だから。

「俺も望ちゃんの夢を叶える一員になれるんだね。それは、従業員として? それとも……」

 両手を伸ばす彼の腕をすり抜けて、胸にしがみつく。細身の彼は、思いの外がっちりしていた。

「私も、陽仁さんとお付き合いしたいって思ってる」

 無言の彼に落ち着かなくて離れようとしたとき、背中に回された腕で抱きしめられた。

「ありがとう」

 耳もとでささやかれたら、身体が力が抜けた。ずいぶん緊張してたみたい。

「よろしくお願いします」

 ぎゅっと抱きしめてそう言ったら、ちょっとだけおかしそうに彼は笑った。

「こちらこそよろしくね、望ちゃん」




 縁側の窓を開け放しにして、自宅から持ってきた荷物を運び込み、床の間にあこがれを飾った。その奥には、つづみさんが書いてくれた『朔弦望』の掛け軸がある。

 父の暮らした家が、私色に染まっていくのを感じる。生きてるうちに父に会えばよかった。そうしたら、ふたりの思い出に満たされた空間になったかもしれない。そう思ったけれど、隣に座る陽仁さんの横顔を見つめていたら、私にはまだ父を知るすべがあるじゃないかと思えた。

「おーい」

 庭の方から、声がする。陽仁さんと一緒に縁側へ出ると、つづみさんが木製の板を持って立っていた。大きな板だ。何に使うのだろう。

「どうしたんですか? それ」
「いいだろ、これ。立派な看板になるぜ」

 ふふんと鼻をならす彼は、板を指さす。

「さっき不動産屋が来てただろ? 何しに来たんだって問い詰めたら、新しい喫茶店がオープンするっていうじゃねぇか。どこのどいつに売ったんだって聞いたらさ、オーナーは望ちゃんだっていうからよ」

 一段と濃くなった無精ひげを眺めながら、つづみさんみたいな風貌の青年に問い詰められた不動産屋さんを案じつつ、尋ねる。

「看板って?」
「俺が書いてやるよ。なんて、名前だ?」

 どうやら、つづみさんが喫茶店の看板を作ってくれるみたい。

「月夢亭です」
「へえ、いい名前だな」
「でも、ほんとうにいいんですか?」
「任せとけ。竹村鼓の看板を掲げる店は満員御礼って有名だからな」

 そう言うと、重たそうな板を肩に乗せ、さっさと壊れた柵を越えて家の中へ入っていった。

 柵を直さなきゃいけないと思ってたけど、もう少しだけこのままでもいいかな、なんて思っていると、陽仁さんが「玄関から出入りするように言わなきゃね」なんてつぶやく。

 嫉妬? そう思ったけど聞けなくて、そうしてるうちに後ろ頭に手が回されて、彼が私の目をのぞき込んでいた。

「俺も望ちゃんに何かしてあげたいな」
「えっ、いいよ! 気なんてつかわないで」
「俺がしてあげたいから」

 つづみさんと競争してるみたい。やっぱり、ちょっと面白くないって思ってるのだ。

「そ、そう? じゃあ……、あっ、そうだ。マグカップ、マグカップ作って。お父さんの作ったマグカップとおそろいになるような」
「うん、いいよ。心を込めて作るよ、望ちゃんのために」
「ありがとう。私にも、できることある?」
「……あるよ。さっきからずっと、キスしたいって思ってる」

 くすっと笑った彼の前髪が揺れたのは、冷たい風のせいではなくて、まだ春は遠いのに、温かなぬくもりがふんわりと唇をかすめていった。







【完】
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