月夢亭へようこそ

水城ひさぎ

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消えた夢の軌跡

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 朝起きてメールを確認して拍子抜けしてしまった。

 飲み会が入ったから行けなかった、という元彼からの連絡にいらだちさえ感じなかったのは、私たちが本当にもう終わってる証拠だと思った。そっとメールは削除して、もう二度連絡が来ないようブロックした。

 別れてしまうと、彼のどこが好きだったんだろうってふしぎに思ってしまう。

 それでも新しい恋をするかもしれない。その恋も、いつかはなんで好きだったんだろうって思うものになるのかもしれない。

 恋はもういいや、なんて思いながら、また恋をするんだろうか。今はまだ考えられないけれど。

 ベッドから降りて、ノートを一冊つかむと階段を降りた。祖父母はリビングにいて、朝食の並ぶテーブルについていた。

「おはよう、望ちゃん」

 私の顔を見るなり立ち上がった祖母がキッチンに入っていくと、新聞から祖父が顔を上げた。

「望ちゃん、昨日は遅かったね」
「うん、ごめんね。ちょっと遠出してたの。それでね、今日は話があって」
「話って?」

 祖父は新聞をたたむと、かけ時計を確認した。仕事に遅れないか心配してくれたのだろう。

 気遣いのある祖父母に育てられた私は幸せだった。でも私は、あんまり親孝行……祖父母孝行な娘ではないかもしれない。

「実はね、昨日、ろまん亭に行ってたの。それで、滝沢さんという人に会って」

 ほんの少し驚いたように身を乗り出す祖父の前へ、ノートを置く。父、野垣永朔が大切に書きためたレシピノートの一冊だった。

「滝沢さんって、滝沢陽仁くん?」
「うん、そう。ろまん亭の留守番してくれてるんだね。彼にお父さんの遺した秘伝のレシピノート、貸してもらったの」

 祖父はノートを手に取り、中を開く。父の筆跡を見て、間違いないというようにうなずく。

「ろまん亭を再開したくなったのかい?」
「あ、ううん。そうじゃなくて、ろまん亭を売却する前に、もう少し遊びに行ってみようと思うの」
「それはかまわないよ」
「なんていうか、お父さんのこと、もうちょっと知ってから、ろまん亭をどうするか考えた方がいいと思って。もしかしたら、売却するならこの人にって思える人が見つかるかもしれないし」

 思い出を手放すのは簡単だ。
 不動産屋に任せてしまえばいい。でも、それをするのはもう少し先でもいいような気がするのだ。

「滝沢くんはちゃんとあの店を守ってくれてるんだね。律儀でまじめな青年のようだったから、留守をお願いしたんだけどね」
「毎日来てるみたい。結構、好きに使っちゃってるから、光熱費は滝沢さんに請求してくれって。あ、あとね、弦さん……お父さんの飼ってた柴犬は隣の、ちょっと変わった人が面倒見てくれてる」
「ああ、あの書道の先生?」

 変わった人、なんて言ってしまったけど、すぐにわかってくれたみたい。祖父も変わった人だと思ったんだって気づいたら、ちょっとおかしい。

「うん、そう。弦さんが好きなんだって。竹村つづみさんっていうの。滝沢さんも竹村さんもすごくいい人。はじめて会った気がしないぐらい親切にしてくれたよ」
「永朔くんを慕ってたんだろうね。望ちゃんは他人に思えないのかもしれないよ」
「またあのふたりに会ってもいい?」
「望ちゃんのしたいようにしたらいいよ。ふたりとも信頼できる青年だからね」
「ありがとう、おじいちゃん」

 てっきり反対されると思ってた。
 思ったより、陽仁さんもつづみさんも祖父の信頼を得ていて、留守を任されてるみたい。

「じゃあ、週末はろまん亭に通うね」
「気をつけて行きなさい」
 
 祖父は穏やかに言って、祖母と目を合わせると、そっと微笑みあった。私がいつか、ろまん亭に行きたいって言い出す日が来ることを知っていたみたいだった。
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