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きっかけの始まり
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通勤のサラリーマンが多く行き交う地下街を歩きながら、ミゾタ靴店へと向かう。
いつもと違って、ぽつぽつとシャッターがあがり始めている店舗を目にする。今日は地下鉄が遅れていた。数分の遅れで毎日の光景が少し変わるのだと気づく。
足早に歩を進めていたが、ある店舗の前で足を止めた。
すごく気になったわけではない。しかし、最近覚えた顔を見かけたら、無意識にそうなっていた。
そこはフェリーチェという名の宝石店。カジュアルなブランドを扱うというより、昔ながらの品質の高い商品を扱っている、そんなイメージのある宝石店だ。
ちょっとしたお出かけに使うものを買うお店とは思えなくて、一度も訪れたことはなかった。しかし、私の足は何かに導かれるように、宝石店のシャッターの前に立つ青年に向かっていた。
「あの……」
気づくと、大きな背中に声をかけていた。自分でも不思議だった。接客業に従事しているとはいえ、どちらかというと私は人見知りだ。初対面に近い男性に声をかけるなんて、今までにしたことはなかった。
「いらっしゃいませー。……あ、ああ、この間の」
開店準備中だった彼は営業スマイルで振り返ったが、すぐに私と気づくと、親しみを感じる笑みを見せた。
「あ、朝霧です」
すごく素敵に微笑む人なんだと思ったら、声がわずかにうわずった。少し胸がどきどきしている。変な気持ちになったりして、私はどうかしている。
「朝霧和美さんだったね。もしかして、お勤めのミゾタ靴店って、そこの角にある二号店?」
「あ、はい。そうですけど……、どうして?」
「社員証に書いてあったから。どこの店舗かなって気になっててね」
「洞察力に優れてるんですね、石神さんって」
「俺の名前も覚えてた? 嬉しいな。ああ、そうだ、名刺渡すよ」
石神さんはおもむろに胸ポケットから名刺を取り出すと、スマートに私に差し出す。
「石神怜司です、よろしく。朝霧さんは村橋くんの大学時代の知り合いだっけ?」
「そうみたいです。こう言ったらなんだけど、あんまり覚えてなくて」
「ああ、そう。朝霧さんはお綺麗だから、きっと注目の的だったんだろうね」
石神さんはとても楽しそうに温和に話してくれる。こんな端正な顔立ちの男性に優しく微笑みながらそう言われたら、嬉しくないはずはなく、ますます胸はどきどきした。
「朝霧さん、大丈夫?」
急に石神さんが言う。
「え?」
「時間。今日も仕事だよね」
石神さんが腕時計を指差すから、出勤前だったことを思い出した私はサーッと青ざめた。
「あ、やだっ。もう行きますねっ」
あわてふためく私を見て、彼はふっと優しく目を細める。
「朝霧さん、待って」
「……えっ」
石神さんは行こうとする私を呼び止めた。
「今夜、時間ある? 良かったら、食事でも」
「え」
私はつい視線を落とす。彼の薬指には結婚指輪が見間違えることなく存在している。だから余計に、気やすく知り合ったばかりの女性を誘うなんてと小さな違和感を感じた。
「ああ、誤解しないで欲しいな。無理にとは言わないし。待ってるよ、この間の店で」
「……」
「朝霧さん、行かないと本当に遅刻だよ」
石神さんに促されて、私は返事もできないままにその場を走り去った。
通勤のサラリーマンが多く行き交う地下街を歩きながら、ミゾタ靴店へと向かう。
いつもと違って、ぽつぽつとシャッターがあがり始めている店舗を目にする。今日は地下鉄が遅れていた。数分の遅れで毎日の光景が少し変わるのだと気づく。
足早に歩を進めていたが、ある店舗の前で足を止めた。
すごく気になったわけではない。しかし、最近覚えた顔を見かけたら、無意識にそうなっていた。
そこはフェリーチェという名の宝石店。カジュアルなブランドを扱うというより、昔ながらの品質の高い商品を扱っている、そんなイメージのある宝石店だ。
ちょっとしたお出かけに使うものを買うお店とは思えなくて、一度も訪れたことはなかった。しかし、私の足は何かに導かれるように、宝石店のシャッターの前に立つ青年に向かっていた。
「あの……」
気づくと、大きな背中に声をかけていた。自分でも不思議だった。接客業に従事しているとはいえ、どちらかというと私は人見知りだ。初対面に近い男性に声をかけるなんて、今までにしたことはなかった。
「いらっしゃいませー。……あ、ああ、この間の」
開店準備中だった彼は営業スマイルで振り返ったが、すぐに私と気づくと、親しみを感じる笑みを見せた。
「あ、朝霧です」
すごく素敵に微笑む人なんだと思ったら、声がわずかにうわずった。少し胸がどきどきしている。変な気持ちになったりして、私はどうかしている。
「朝霧和美さんだったね。もしかして、お勤めのミゾタ靴店って、そこの角にある二号店?」
「あ、はい。そうですけど……、どうして?」
「社員証に書いてあったから。どこの店舗かなって気になっててね」
「洞察力に優れてるんですね、石神さんって」
「俺の名前も覚えてた? 嬉しいな。ああ、そうだ、名刺渡すよ」
石神さんはおもむろに胸ポケットから名刺を取り出すと、スマートに私に差し出す。
「石神怜司です、よろしく。朝霧さんは村橋くんの大学時代の知り合いだっけ?」
「そうみたいです。こう言ったらなんだけど、あんまり覚えてなくて」
「ああ、そう。朝霧さんはお綺麗だから、きっと注目の的だったんだろうね」
石神さんはとても楽しそうに温和に話してくれる。こんな端正な顔立ちの男性に優しく微笑みながらそう言われたら、嬉しくないはずはなく、ますます胸はどきどきした。
「朝霧さん、大丈夫?」
急に石神さんが言う。
「え?」
「時間。今日も仕事だよね」
石神さんが腕時計を指差すから、出勤前だったことを思い出した私はサーッと青ざめた。
「あ、やだっ。もう行きますねっ」
あわてふためく私を見て、彼はふっと優しく目を細める。
「朝霧さん、待って」
「……えっ」
石神さんは行こうとする私を呼び止めた。
「今夜、時間ある? 良かったら、食事でも」
「え」
私はつい視線を落とす。彼の薬指には結婚指輪が見間違えることなく存在している。だから余計に、気やすく知り合ったばかりの女性を誘うなんてと小さな違和感を感じた。
「ああ、誤解しないで欲しいな。無理にとは言わないし。待ってるよ、この間の店で」
「……」
「朝霧さん、行かないと本当に遅刻だよ」
石神さんに促されて、私は返事もできないままにその場を走り去った。
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