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本当の恋人になれる日

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 ソフトヴィラBの文字を目にした瞬間、つま先が90度方向を変えて、一歩を踏み出していた。

 103号室のチャイムを鳴らすのに、ためらいはなかった。大知くんに会いたくて仕方ない。彼はいつも、こんな気持ちでいたんだろうか。会いたくても、さみしくても、ずっとがまんしてくれてた。

「はい」

 インターフォンから、冷静な声が聞こえた。迷惑がってるみたいな、いぶかしがってるみたいな声。こんな声、聞いたことない。彼の別の一面も見たみたい。

 もう遅い時間。出てくれなくても不思議じゃない時刻。無視できないのは、彼の優しさだろう。誰にでも優しいわけじゃないと知って、安堵もしてる。

「あ、あの、私。千秋です」

 勇気を出して、インターフォンに向かって声を出す。彼が息を飲むのがわかった。

「ち、千秋さんっ? ま、待ってくださ……」

 言い切らないうちに駆け出したのだろう。ドタドタっと足音がして、玄関ドアが勢いよく開く。

 目をまん丸にした大知くんが、私の全身を眺める。仕事帰りのまま来たって気づいただろう。

 私はちょっと気まずそうに笑んだかもしれない。彼はドアをさらに大きく開くと、私の腕を引いて、玄関に引き込む。後ろでドアの閉まる音がした時には、彼の腕に包まれていた。

「どうしたんですか」
「ちょっと、顔見たくなっちゃった」
「千秋さんが来てくれるなんて思ってなかったです」
「遅くに来てごめんね。いま、帰ってきたの」
「じゃあ、なんにも食べてないですか?」
「うん……。でも、すぐに帰るから」

 そう言うと、彼の腕がきゅっと締まる。

「パンとか、コーヒーならありますから」
「食べていっていい?」
「ずっといてほしいです」

 大知くんに手を引かれ、部屋へ上がる。

 勉強してたみたい。彼はあわててローテーブルの上に積み上げられた書籍の山を押し分け、ベッドの上に散乱してた衣類を洗濯カゴの中へ放り込む。学生みたいに片付いてない部屋。男の子らしくって、ホッとする。

「お礼に洗濯物、畳むね」
「いつもはもうちょっと片付いてるんですけど」
「気にしてないわ。ほんとに、お礼のつもり」
「じゃあ、ちょっとだけお願いします。俺、パン焼いてきます。もしかしたら、ピザもあるかも」

 大知くんは冷蔵庫をさぐり、手際良く軽食を用意してくれた。その間に、私は洗濯カゴに投げ込まれた衣類をたたんで、崩れた書籍の山を整えた。

 出てきたのは、ピザとアイスコーヒー。少しお腹を満たすにはじゅうぶんだった。

「残業ですか?」
「うん。ほら、前に大知くんに見てもらったブラ、いよいよ商品になるの」
「気心の知れた彼氏に見られてもいい、おうちブラですね」
「よく覚えてたわね」

 くすくすって笑うと、大知くんもちょっとうれしそうにする。

「千秋さんの笑ってる顔、好きです。元気になってくれてよかったです」
「元気そうに見えなかった?」
「泣きそうな顔してました。何かあったんですよね?」

 大知くんの指が伸びてくる。流れてもない涙をぬぐうみたいに、ほおの上を滑る。

「千秋さんのことなら、なんでも知りたいです」
「嫌われるかもしれない」
「俺に? 嫌わないです」

 おかしそうに目を細めて、抱きしめてくる。
 心音はとても穏やかだった。不安になる必要ないって思える。

「前にお付き合いしてた人に会ったの。食事しようって言われたけど、断ったわ」
「はい」

 大知くんはうなずいて、私をさらに優しく抱きしめる。

「また連絡するって言われたの」
「連絡が取り合えるような関係なんですね」
「兄の友人なの。これまでも時々、会うことがあって」
「そうなんだ……」

 静かに吐き出した息が切なげだから、私も彼を抱きしめ返す。

「そのうち、大知くんも会うかもしれない。優しい人だけど、挑発するのも上手なの。私を大知くんから奪おうとか思ってないけど、結果的にそうなることをナチュラルにする人だから、あんまり会ってほしくない」
「切っても切れない縁なら、仕方ないです」
「仕方ないって思えるの?」

 私がどんなに智弘を忘れたと話しても、彼の中にはずっと不安がつきまとうだろう。それを、仕方ないって言ってくれるなんて。

「大知くんには無理して欲しくない」
「会わないで欲しいって言えない相手なら、仕方ないとしか言えないです。千秋さんが俺を好きでいてくれるなら、それでいいです」
「それは、もちろん。……私の方が、ちょっと不安になっちゃっただけかも」
「心変わりするかもって思うぐらい、素敵な人なんですね……」

 ちょっとさみしそうにする大知くんの髪に指を通す。

「大知くんの方が、いい」
「そんなこと言われたら、めちゃくちゃ抱きたくなります」

 ぐいっと押されて、床に倒されそうになる。そばに置いたバッグが倒れ、中身が散らかる。

「まだなんにも食べてないから」
「あとで温めます」
「シャワーも浴びてないし」
「気になりません」
「もう一つ、隠してることがあって……」

 とうとう床に倒されて、バッグから飛び出したスマホを見たら、まだ話してないことがあったって思い出す。

「千秋さんがモテるのは承知です」

 もう言わなくていいんだ、って言うように、私の首筋に顔をうずめる。

「マッチングアプリに登録してるの」
「……」

 大知くんは身体を離し、静かに私を見下ろす。

「マッチングアプリで出会った人と、たまに連絡してる。もう連絡しないって言ったんだけど、メールだけでもしてほしいって言われて……ごめんなさい、はっきり断れなくて」
「……好きなんですか?」
「違うわ。すごく優しい人だから、いいお友だちみたいな人」
「じゃあ、いいです」

 どうでもいいみたいに言う。

「じゃあいいって……」
「千秋さんが心惹かれる男の中から、俺を選んだってことですよね? こんなうれしい告白ないです」

 大知くんの笑顔が近づく。そっと唇にキスが落とされる。

「はやく抱きたくてたまらないです」

 ブラウスのボタンが外されていく。そのとき、スマホのディスプレイが光り、床に振動が伝わってくる。

 ちらっと、彼はディスプレイを確認する。

「電話です」
「誰?」

 スマホに手を伸ばそうとすると、彼がサッと拾い上げて、私に見せてくる。

「佐々木智弘って人です」
「……さっき話した人」
「出なくていいんですか?」
「うん。私も、はやく大知くんに抱かれたい」

 両腕を伸ばして彼を抱きしめたら、腰に回った腕に抱き上げられた。そのままベッドに倒されて、彼がかぶさってくる。

「やっと本当の恋人になれたみたいです」
「がまんさせてて、ごめんね」

 ほんのちょっと笑んだ唇が近づくから、そっと目を閉じる。

 電話が鳴り響ける中、私たちはお互いを求めて幾度も唇を重ねた。
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