非才の催眠術師

水城ひさぎ

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かからない魔法とめざめる奇跡

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***


 遼の姿が公園から消えると、ようやく私はベンチから立ち上がる。自宅へ向かうため歩き出しながら、頬に指を伸ばす。冷たい唇が頬に触れた。その感触に戸惑う。

 兄は私をどう思っているのだろう。

 喫茶店SIZUKUの前を通り過ぎた。正月でも喫茶店は開店している。門松を横目に裏口へ向かおうと路地に入りかけた時、入り口のドアが開く。

「悠紀ちゃん、おかえりなさい。こっちから入って」

 ママが店から顔を出す。

「今、ちょうどお客様もいないから大丈夫よ。ミカドもちゃんといるわよ」
「あ……ミカド。ミカドはどこにいたの?」

 ママに促されるままに店内へ入ると、カウンター席にちょこんと座るミカドがいる。私と目を合わせるとゆったりとしっぽを振って、椅子から優雅なしぐさで飛び降りる。

「ミカド、……どこに行ってたの?」

 両手を広げると、ミカドは迷いなく走ってきて私の胸に抱かれる。ミカドがいないと不安だけど、彼もまた私がいないと不安なのだ。

「ごめんね、ミカド。お出かけしてきたの」
「お店に入り込んでたみたい。ホウキが倒れてドアも開かなくて。ミカドには怖い思いさせちゃったわ」

 ママがそう教えてくれてる。

「だから一階に行ったらダメって言ってるのに」

 ミカドの頭をなでると、彼は安心しきった様子で私に体を預ける。その時だった。店のドアがゆっくりと開く。

 何気に振り返った私は、現れた青年を見て身体が緊張していくのを感じる。

「明けましておめでとうございます」

 そう言って、爽やかな笑顔でキャリーバッグを引いて店内へ入ってきた青年は、何日かぶりに会う真咲さんだった。

「おかえりなさい、古谷さん。寒かったでしょう。あたたかいコーヒー用意するわね。悠紀ちゃんも何か飲む?」

 ママはすぐに真咲さんにそう声をかけると、カウンターへと向かう。

「あ……、私は、いらない」

 首を横に振り、ちょっとさみしげな顔をするママから目をそらす。そのまま真咲さんの顔も見れないまま頭を下げて、階段へと逃げ込んだ。

 三階まで一気に駆け上がると、部屋へ入る。胸に抱いていたミカドを下ろし、コートを脱ぐ。

 ミカドは私の足元にちょこんと座り、私をじっと見上げている。

「ごめんね、ミカド。心配したよね」

 しゃがみ込み、彼の頭をなでる。するとミカドは私の首からさがるリングに鼻を寄せる。

「あ、これ。……なんでもないの。ミカドはお昼ごはん食べた?」

 リングをセーターの中へ入れ、ミカドを抱き上げる。彼はまだ気にするみたいにネックレスのチェーンに鼻を寄せている。知らない匂いがして気になるのかもしれない。

 いつものようにミカドのフードボウルを持ってリビングへ行き、ミカドの食事を用意して、キッチンにあるママの作った料理を小皿に移す。

「お昼ごはん、ご一緒してもいいですか?」
「え……」

 いつの間に部屋へ戻ったのだろう。タートルネックのセーターに、チノパン姿というラフな格好の真咲さんが、リビングに顔をのぞかせてふんわりと微笑んでいる。

「……あの、同じものでよければ」
「おかずを用意してくれますか。それは嬉しいです。じゃあ俺はみそ汁をつぎます」

 腕まくりをしてキッチンへ入ってくる真咲さんは私の隣へ並ぶ。ほんのわずかでも動けば腕が触れそうなほど距離が近い。

「どこかへお出かけでしたか?」
「え、……ちょっとデパートまで……」
「もうすぐ仕事が始まりますし、必要なものがあれば俺も付き合います」
「一人で、……もう、一人で大丈夫ですから」
「そうですか。何かあれば頼ってください。相談ぐらいは乗れます」
「相談……」

 私はふと顔を上げる。私を見下ろして、にこりと微笑む真咲さんには安堵する。

 お兄ちゃんに会ったこと、話してみようか。

「古谷さんは……お兄ちゃんから私の話聞いたことありますか?」
「遼? それはもちろん。遼が、どうかしましたか?」

 不思議そうに首を傾げる彼から目をそらしながらも、思いきって告白する。

「さっき、……会って」
「会った?」
「デパートに行った帰りに会って。さっきまで公園で話をしてて……」
「それで遼はここへ?」

 私は首を横に振る。

「また会えるかわからないって。私、お兄ちゃんを呼び止められなかった。……お兄ちゃんが私のことどう思ってるのかわからなくて」

 真咲さんは眉をひそめたままだが、私の話を聞いてくれる。

「古谷さんは聞いてますか? お兄ちゃんと私のこと……」
「俺が知ってるのはほんのわずかなことで、悠紀さんのご両親が子連れ同士で再婚したという話だけです」

 真咲さんは深いため息を吐き出して、それを言葉にしたことを後悔するみたいにまぶたを閉じた。

「お兄ちゃんと私が血のつながらない兄妹だって、知ってたんですね……」

 真咲さんがそれを知っているなら、兄の遼は当然のように知っていただろう。

 私は頬に指を伸ばす。遼はそうと知っていて、私の頬に触れたのだ。そして、唇にまで触れようとした。

「遼は元気そうでしたか?」

 ハッと我にかえる。いつの間にか真咲さんがテーブルの上に昼食の準備を整えていた。

「すみません……。私、ぼーっとしてて」

 私は急須に茶葉を入れてテーブルにつき、ポットのお湯を急須に注ぎながら言う。

「元気そう、だったと思います。昔と全然変わってなくて、お兄ちゃんだってすぐにわかりました」
「そうですか。また会えるといいですが。俺も久しぶりに遼に会いたい」
「今度会えたらここに来てもらおうかな……」
「それがいいですね。外折さんも懐かしいでしょう」
「でもママは会いたくないかもしれない」

 そうため息を吐き出すと、真咲さんは困り顔で眉をひそめる。

「すみません。うちの家族のことは古谷さんに関係ないのに」
「いえ、話せることは話してください。それだけで心が軽くなることもありますよ」
「……そうでしたね。古谷さんはお医者様だから」
「医師として言ってるわけでは」
「これからはお医者様として接します。古谷さんは雇い主だから、古谷先生って呼ばないといけないですね」
「悠紀さん……」
「明日から働きますから。ご迷惑かけないようにします。よろしくお願いします」
「……そうですか」
「ご飯、頂きます」

 私は目を伏せたまま、肉じゃがに箸を伸ばす。静かな食卓になる。食事を喉に通す音すらひかえめにしたくて、なかなか食事が通らない。

「悠紀さん」

 不意に私に呼びかける真咲さんの確かで強い声にびくっとする。

 おそるおそる顔を上げると、少しだけ頼りなげな目をする彼と目が合う。

「ネックレスは、どうされたんですか?」
「え……」

 無意識に胸元に手を当て、セーターの中にある硬いものをそっと握る。

「今つけるようなネックレスは持ってないと言っていたので。やはり指輪ではなくて、ネックレスが良かったですか?」

 彼の視線が私の指に集中する。

「……指輪はサイズが合わないので」
「遼からもらいましたか?」
「あ、……そうじゃなくて。自分で……」
「それを買いに今日はデパートへ?」

 真咲さんの問い詰めるような質問に指が震えてしまう。怒っているのかもしれない。指輪を返せと言われてしまうかもしれない。

 急激にからからになる喉を押さえ、私はうつむく。

「指輪は……なくしたんです」
「なくした?」
「すみません……」

 真咲さんが眉をひそめたまま私を見つめるから、勢いよく立ち上がり、リビングを飛び出す。

 怖い。敬太の顔が浮かぶ。好きでなくなったならそれでいい。結婚できないならそれでも良かった。だけど、思い出の詰まった指輪だけは返したくなかった。

「悠紀さんっ」

 真咲さんの声が私の背中を追いかける。でも彼は追いかけてこなかった。

 私たちは同じ屋根の下で暮らすだけの赤の他人だ。そして明日からは雇い主と従業員の関係でしかない。

 もう終わったのだ。年が明けると共に、淡い恋のような感情は終止符を打ったのだ。だから真咲さんはここへ帰ってきた。
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