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まわり始める運命の時計
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古屋悠紀はまるで俺から逃げるように裏口のドアへと消えていった。
俺より8歳年下の悠紀は、今年25歳のはずだが、化粧っ気もなく、もっと幼く見えた。痩せすぎとも言えるぐらい痩せていたからだろうか。俺の知る10歳の頃の悠紀の面影を彼女に重ねて見たからかもしれない。
彼女が先ほどまでいたカウンターの上には、黒い箱と赤のリボンが残されている。
「悠紀ちゃんに会うのは何年ぶりかしら?」
喫茶店SIZUKUのオーナー外折由香は、カウンターの上をさりげなく片付けると、ブラックコーヒーを目の前に置いた。
上品な香りのするコーヒーだ。ここは田舎の商店街。しかも内装こそは改装しているものの、こんなさびれたビルで高級感のあるコーヒーが飲めるのは意外だった。
「実を言うと、3年ぶりぐらいです」
「……悠紀ちゃん、少し変わったでしょう?」
俺の返答が予想通りではなく、由香は少しばかり驚いた様子だったが、悠紀の様変わりを嘆くようにため息を吐き出す。
「細かい日時は覚えていませんが、駅ですれ違ったことがあります。その時は悠紀さんと気づきませんでしたが、先日外折さんに見せて頂いた写真で確信しました」
「だから無茶なお願いも聞いてくれたの?」
由香は申し訳なさそうに眉を下げる。
俺が喫茶店SIZUKUを訪れたのは偶然だった。悠紀がいると知っていたなら、もしかしたら躊躇していたかもしれない。
クリニックの移転は去年から考えていて、条件の合う場所さえ見つかればすぐに移転するつもりでいた。
生まれ育ったこの街は知り合いも多く、開業するには適した場所と考えていたし、喫茶店のようなコミュニティが働く場所にチラシを置いてもらえれば、小さな田舎街なら良い宣伝効果が得られるだろうと考えたのも事実だ。だから手始めにここを訪れた。そこで由香に出会った。
悠紀の母親である悠美のことは知っているが、悠美の妹の由香に面識はなかった。
由香が隣の空き店舗はいつでも貸せると言い出した時は、正直あまり真剣に受け止めてはいなかった。
由香からは、娘の悠紀が体調を崩していて、医師が側にいてくれたら安心だから、宿も提供するとの提案を一方的にされた。悠紀の写真を見るまでは、俺も強引な由香に警戒し、断ろうと思っていた。
しかし痩せぎすな少女が猫のソマリを抱き、喫茶店の片隅でさみしげにうつむく様子の写真を見せられたら、どうにかしなければという焦りに駆り立てられた。
3年前に出会った悠紀はもっとハツラツとしていて、幸せに満ちあふれ、輝いていた。
それから移転の話はとんとん拍子にまとまった。
由香が俺を古屋宅の向かいの古谷と気づいたのは、契約がまとまりつつある最中のことだった。それを知った途端、由香は俺に対して全幅の信頼を寄せてくれたように思う。
彼女はきっと、ずっとギリギリだったのだ。生活も精神状態も。だから見知らぬ、医師という肩書きを持っただけの俺に藁にもすがる思いで助けを求めた。
その相手が俺で良かったと真に思う。だから今日、俺はここに来た。悠紀に会うつもりで。
しかしどうだろう。悠紀は俺に興味を示すことなく逃げ去ってしまった。今の悠紀が求めるのは、兄の遼か。だから俺を遼と間違えたのか。
「悠紀ちゃん、看護師なの」
由香は突然、そうつぶやく。
悠紀のことで知っていることは少ないが、看護師というのも初めて知った。
「だからあの子、病院へは行きたがらないの。病院へ行くと、余計に具合が悪くなってしまうみたいで」
「そうですか」
「もう一年よ。一年もろくな食事もしないで、暗い部屋の中にいるの」
「ええ」
言葉少なにあいづちを打つ。悠紀よりも、由香を先に救うべきかと考える。彼女も十分疲弊している。彼女には支えになるものがあるのだろうか。あるならば、優先順位は変わる。
「古谷さんなら悠紀は心を開いてくれるかしら。私では……ダメみたい」
「なぜそう思うのです?」
事情は知らないが、今は由香が姉の子である悠紀を引き取って育てている。関係は良好に見えた。
「私が悠紀を引き取ったのは、あの子が中学に入学する時よ。今日から私をママと思ってね、って。……姉にはもう会えないのとは言えなくて、代わりにそう言ったの」
「でしたら何も心配はいらないのでは? 悠紀さんはあなたを〝ママ〟と呼んでいる。多感な時期の家庭環境の変化は、外折さんの愛情でカバーされたのでは?」
「いいえ。悠紀ちゃんがママと呼ぶのは、私が喫茶店の〝ママ〟だからよ。姉のことは〝お母さん〟と言うの。私はまだ認められてないのよ」
「それでも女手一つ、立派に育てられた」
「……必死だったの。それだけよ」
由香はゆるりと力なく首を振る。
「急ぐ必要はありませんよ。ゆっくり治していきましょう」
「あの子、また働けるかしら」
「そうですね。それも含めて考えていきましょう」
由香は安堵したのか、肩の力を抜くと、グラスに注いだ水で喉を潤す。
「古谷さんのことは遼くんから聞いたことがあるわ。成績優秀で真面目で、ユーモアのあるすごい同級生がいるんだって。今もそうなのね」
「遼がそんなことを?」
「遼くん、あなたに会いたいって思ってるはずよ。大学は一緒に行けなかったけれど、古谷さんの未来を応援してるって言ってたから」
「俺も同じ気持ちですよ。遼は俺に出来ないことが出来る男だから。今も昔も、きっとこの先もずっと」
そう言うと、由香はそっと微笑んで、「ありがとう」と頭を下げた。
古屋悠紀はまるで俺から逃げるように裏口のドアへと消えていった。
俺より8歳年下の悠紀は、今年25歳のはずだが、化粧っ気もなく、もっと幼く見えた。痩せすぎとも言えるぐらい痩せていたからだろうか。俺の知る10歳の頃の悠紀の面影を彼女に重ねて見たからかもしれない。
彼女が先ほどまでいたカウンターの上には、黒い箱と赤のリボンが残されている。
「悠紀ちゃんに会うのは何年ぶりかしら?」
喫茶店SIZUKUのオーナー外折由香は、カウンターの上をさりげなく片付けると、ブラックコーヒーを目の前に置いた。
上品な香りのするコーヒーだ。ここは田舎の商店街。しかも内装こそは改装しているものの、こんなさびれたビルで高級感のあるコーヒーが飲めるのは意外だった。
「実を言うと、3年ぶりぐらいです」
「……悠紀ちゃん、少し変わったでしょう?」
俺の返答が予想通りではなく、由香は少しばかり驚いた様子だったが、悠紀の様変わりを嘆くようにため息を吐き出す。
「細かい日時は覚えていませんが、駅ですれ違ったことがあります。その時は悠紀さんと気づきませんでしたが、先日外折さんに見せて頂いた写真で確信しました」
「だから無茶なお願いも聞いてくれたの?」
由香は申し訳なさそうに眉を下げる。
俺が喫茶店SIZUKUを訪れたのは偶然だった。悠紀がいると知っていたなら、もしかしたら躊躇していたかもしれない。
クリニックの移転は去年から考えていて、条件の合う場所さえ見つかればすぐに移転するつもりでいた。
生まれ育ったこの街は知り合いも多く、開業するには適した場所と考えていたし、喫茶店のようなコミュニティが働く場所にチラシを置いてもらえれば、小さな田舎街なら良い宣伝効果が得られるだろうと考えたのも事実だ。だから手始めにここを訪れた。そこで由香に出会った。
悠紀の母親である悠美のことは知っているが、悠美の妹の由香に面識はなかった。
由香が隣の空き店舗はいつでも貸せると言い出した時は、正直あまり真剣に受け止めてはいなかった。
由香からは、娘の悠紀が体調を崩していて、医師が側にいてくれたら安心だから、宿も提供するとの提案を一方的にされた。悠紀の写真を見るまでは、俺も強引な由香に警戒し、断ろうと思っていた。
しかし痩せぎすな少女が猫のソマリを抱き、喫茶店の片隅でさみしげにうつむく様子の写真を見せられたら、どうにかしなければという焦りに駆り立てられた。
3年前に出会った悠紀はもっとハツラツとしていて、幸せに満ちあふれ、輝いていた。
それから移転の話はとんとん拍子にまとまった。
由香が俺を古屋宅の向かいの古谷と気づいたのは、契約がまとまりつつある最中のことだった。それを知った途端、由香は俺に対して全幅の信頼を寄せてくれたように思う。
彼女はきっと、ずっとギリギリだったのだ。生活も精神状態も。だから見知らぬ、医師という肩書きを持っただけの俺に藁にもすがる思いで助けを求めた。
その相手が俺で良かったと真に思う。だから今日、俺はここに来た。悠紀に会うつもりで。
しかしどうだろう。悠紀は俺に興味を示すことなく逃げ去ってしまった。今の悠紀が求めるのは、兄の遼か。だから俺を遼と間違えたのか。
「悠紀ちゃん、看護師なの」
由香は突然、そうつぶやく。
悠紀のことで知っていることは少ないが、看護師というのも初めて知った。
「だからあの子、病院へは行きたがらないの。病院へ行くと、余計に具合が悪くなってしまうみたいで」
「そうですか」
「もう一年よ。一年もろくな食事もしないで、暗い部屋の中にいるの」
「ええ」
言葉少なにあいづちを打つ。悠紀よりも、由香を先に救うべきかと考える。彼女も十分疲弊している。彼女には支えになるものがあるのだろうか。あるならば、優先順位は変わる。
「古谷さんなら悠紀は心を開いてくれるかしら。私では……ダメみたい」
「なぜそう思うのです?」
事情は知らないが、今は由香が姉の子である悠紀を引き取って育てている。関係は良好に見えた。
「私が悠紀を引き取ったのは、あの子が中学に入学する時よ。今日から私をママと思ってね、って。……姉にはもう会えないのとは言えなくて、代わりにそう言ったの」
「でしたら何も心配はいらないのでは? 悠紀さんはあなたを〝ママ〟と呼んでいる。多感な時期の家庭環境の変化は、外折さんの愛情でカバーされたのでは?」
「いいえ。悠紀ちゃんがママと呼ぶのは、私が喫茶店の〝ママ〟だからよ。姉のことは〝お母さん〟と言うの。私はまだ認められてないのよ」
「それでも女手一つ、立派に育てられた」
「……必死だったの。それだけよ」
由香はゆるりと力なく首を振る。
「急ぐ必要はありませんよ。ゆっくり治していきましょう」
「あの子、また働けるかしら」
「そうですね。それも含めて考えていきましょう」
由香は安堵したのか、肩の力を抜くと、グラスに注いだ水で喉を潤す。
「古谷さんのことは遼くんから聞いたことがあるわ。成績優秀で真面目で、ユーモアのあるすごい同級生がいるんだって。今もそうなのね」
「遼がそんなことを?」
「遼くん、あなたに会いたいって思ってるはずよ。大学は一緒に行けなかったけれど、古谷さんの未来を応援してるって言ってたから」
「俺も同じ気持ちですよ。遼は俺に出来ないことが出来る男だから。今も昔も、きっとこの先もずっと」
そう言うと、由香はそっと微笑んで、「ありがとう」と頭を下げた。
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